粒来哲蔵『侮蔑の時代』(19)(花神社、2014年08月10日発行)
「石の声」は死ぬときは方解石が割れるようにきちんとした形で終わりたい、というようなことから書きはじめて、途中で「石」が消える。
あれ、「石」は消えて、かわりに「水」が出てきた。その水は湖の大きさだったのに、「靄」という小さな水分になってしまっている。
これは、どういうわけだろう。何が起きているのだろう。
あ、母子心中--と、私は突然思う。粒来はこの詩を書いているから、母子心中未遂というべきなのか。何か、不吉な感じがする。
「内在湖」という「非在」のもの(比喩)が、不吉なものを呼び寄せる。存在しないものをことばで呼び出し、存在させると、そこに存在しないはずのものがついてまわってくる。存在しないもののいちばん目立つものが「死」である。人が生きているとき「死」は非在であるけれど、非在なのにとても身近に感じられる。そういう瞬間が、不吉。
石がどこかに消えてしまったが、死が突然、こんな形で復讐してくる。思い出されてくる。湖に深く沈んでいく石を思う。でも、そのとき石は「方解石」ではない。
何かが奇妙に捩じれて、切断され、接続されている。
母は幼い粒来を残して、ひとりだけ入水自殺した。そのことを粒来は思い出している。前の段落で出てきた「靄」が、いま、ここで甦る。湖は一瞬「波立ち、静まって」、「果ては温い靄」を吐く--というのは、湖が石をのみこみ、その波紋を広げ、波紋を広げ終わると前よりも静かになるのだが、石を飲み込んだ分だけ湖面からはみ出す水を「靄」にしているような感じ。石となって沈んでゆく母の、最後の息が、その温みが水を「靄」にかえたのか。「靄」のなかに母がいて、取り残された粒来は「砂」を手にしている。
砂は石が砕けたもの?
そんなことを考えていると……。
あれ、母は入水自殺じゃなかった?
突然の、気づかない内の死。それを思うとき、その「知らない」(不明な感じ)が「靄にくるまれ、湖面を撫でるようにして遠去かっていった」母になるのか。
前段落の「夢」のようなものは、粒来が「猫」になって予感したものとも言えるのか。夢の中で、粒来は、その瞬間を予告されていたのか。
あ、これは時系列的に奇妙だね。
前段落の「内在湖の水際に母といた。」は、たぶん、いまの粒来から見た記憶。思い出。このとき、すでに母は死んでしまっているだろう。だから、「靄」といっしょに見たのは「予告」ではない。いや「予告」なのだが、それは、思い返すと「予告」だったということであって、そのときは「予告」ではなかった。
「意味」は後からやってくる。何でもなかったことが、あとから見ると「予告」という「意味」として読むことができる。
時間が逆流し、まざりあって、ありえなかったことがあるように見える。「予告」ではなかったものが「予告」になる。
というのも、なんだか「事実」とは違うなあ。
その「内在湖の水際に母といた。」という夢さえ、母が死んでから見た夢なのだから、それは「予告」ではない。もう死んでいるのに、「母の死は私の知らないうちにやって来た。」ということはありえない。「予告」ではなく、「過去」を粒来はつくりかえている。夢の中で過去へ行き、その夢の中の過去で「予告」を受け止める。そして、納得する。
うーん、変だなあ。変だけれど、これが人間なのだ。人間はなんでもつくってしまう。過去を自分の都合のいいように作り替えるのはごくふつうのことだが、それだけではなくその過去に「予告」さえつくりあげしてまって、今度は「予告」を基本にして過去の「意味」(真実)さえもそれにあわせて変更する。
何のことか、わからない?
あ、私にもよくわからないのだけれど、夢とか過去とか予告とかをことばにすると、それはそれにあわせて、きれいに整いはじめる。ほんとうは違うのに、それがあたかもあるかのように美しい形にとって、ばらばらに(?)動く。ばらばらに考えると、それは美しい哀しみ(結晶)になるが、つづけてしまうと「嘘」(ありえないこと)になる。
うーん。
ここで、こんな飛躍をするのは私だけなのか、それとも同じことがこの詩を書いた粒来に起きたのかどうかわからないが、哀しみの結晶と嘘(ありえない)の関係は、なんだか「方解石」の壊れ方に似ている。叩くときれいな方形になって割れる。
何かが内部で「方形」という「意味」をつくっている。
同じように、何かが哀しみが美しくなるように、人間の内部で「意味」をつくっている。そういうことを考えてしまう。
で、そうか、この母の死の記憶が粒来にとっては「方解石」なのか、と思っていると……。
そのあと、最終連がある。
あ、突然、父が出てきた。
この父と粒来との関係は、この詩では「方解石」になっていない。内部から「意味」が統制して、それを結晶にしていない。
まだまだ書かなければならないことがある。そう思っているのだろう。
*
ところで……。
きょうの「感想」、これはいったい何なのだろう。この詩を、私はいいとも、悪いとも書いていない。つまり、位置づけていない。批評の多くは、大抵の場合、その作品がどういう意味をもっているかを指摘し、それが他の詩とどういう関係にあるのかという位置づけを指摘する。
私は、そういうことをほとんどしない。
私はそこに書かれていることばを読み、そのとき自分のことばがどう動いたかしか書けない。きょう書いたことは、あすは別なものになる。読む度に何かが違う。そういう違いを違いとして確かめるために書いているのかもしれない。
ただ考えたことを書いておきたい。
きょうここで考えたことは、いつかこの詩をもう一度読んだときに、別なことばとして甦るかもしれない。あるいは、まったく違う誰かのことばにふれて、この詩を思い出し、何かが動くかもしれない。
詩は、そんなふうにして甦り、生きていく。だから、この詩の感想の中には、実は粒来の詩を読んだときだけの何かではなく、ほかの何かを読んだときの思いもうごめいている。「方解石」のような結晶にはなれずに。
何を書いても、そこにただことばとしてあって、次のことばを誘い出してくれるもの--それが詩なんだろうなあ、と思う。
と書いて、あ、間違えたと思う。
この詩にはストーリーがあるようでないような、奇妙な飛躍と接続がある。「方解石」のきれいな割れ方(死)と母の死、父の死が語られる。死ということで三つはつながっているが、こういう読み方は「錯覚」かもしれない。「意味」を追うから、そういうつながりになる。
「意味」を追って、そこでつじつまがあう(納得できる?)となんなくそこに書かれていることがわかったような気持ちになるが、きっと勘違いだ。「意味」よりも前に、私は粒来の「文体」を読んでいる。ことばの動かし方を読んでいる。動かし方に強いものがあるので、(方解石の比喩を借りて言えば、動かし方に結晶のような整然とした力かがあるので)、そこに書かれていることを信じてしまう。
信じたあとで、「意味」を考えている。
そこに「何かある」と信じさせてくれる「文体」こそが詩なのである、と書けばよかったのだろう。
母の思い出が哀しい結晶となって割れて輝く--そのことについて書いたとき、そこに粒来の「文体」がある、と書けばよかったのかもしれない。
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「石の声」は死ぬときは方解石が割れるようにきちんとした形で終わりたい、というようなことから書きはじめて、途中で「石」が消える。
--ひとはどうも身の内に湖を蔵しているのではあるまいか。近
頃少し傾けばその湖、つまりわが内在湖の水が鳴り、水が何処そこ
から洩れ出て来るように思われる。まず転倒すれば膝裏でごほごぼ
と水音がする。かがめば背胸骨の中でちりちりと水音がして、耳孔
から鼻孔から水がこぼれ出す。女を抱けば当然迸るものが、●の
落葉の下水程にやわやわと哀しくこぼれ出る……。身の内ばかりで
はない。心情の傾斜にも内在湖はいちいち波立ち、静まって、果て
は温い靄さえ吐き散らす。
(谷内注=●はブナ、木偏に無のつくり)
あれ、「石」は消えて、かわりに「水」が出てきた。その水は湖の大きさだったのに、「靄」という小さな水分になってしまっている。
これは、どういうわけだろう。何が起きているのだろう。
内在湖の水際に母といた。私は母の背に負われていて、その母の
踝は水に浸っていた。母の脛の影が湖にのびていて、その小揺ら
ぎが私の目に眩しかった。負われたまま私は二三歩進み、母の背か
らずるずると水に落ちる気配だった。
あ、母子心中--と、私は突然思う。粒来はこの詩を書いているから、母子心中未遂というべきなのか。何か、不吉な感じがする。
「内在湖」という「非在」のもの(比喩)が、不吉なものを呼び寄せる。存在しないものをことばで呼び出し、存在させると、そこに存在しないはずのものがついてまわってくる。存在しないもののいちばん目立つものが「死」である。人が生きているとき「死」は非在であるけれど、非在なのにとても身近に感じられる。そういう瞬間が、不吉。
石がどこかに消えてしまったが、死が突然、こんな形で復讐してくる。思い出されてくる。湖に深く沈んでいく石を思う。でも、そのとき石は「方解石」ではない。
何かが奇妙に捩じれて、切断され、接続されている。
-と母は両手で抱えあげて私
を元の背に戻してくれた。私はいやいやをしたようだった。抱え上
げる母の手を拒んでやや乱暴に湖に降り立ったと思う。私が手で水
を掬い砂粒を掻き集めていた間、母はゆったりと靄につつまれ、湖
面を撫でるようにして遠去かって行った。私の手からひとりでに砂
がこぼれた。
母は幼い粒来を残して、ひとりだけ入水自殺した。そのことを粒来は思い出している。前の段落で出てきた「靄」が、いま、ここで甦る。湖は一瞬「波立ち、静まって」、「果ては温い靄」を吐く--というのは、湖が石をのみこみ、その波紋を広げ、波紋を広げ終わると前よりも静かになるのだが、石を飲み込んだ分だけ湖面からはみ出す水を「靄」にしているような感じ。石となって沈んでゆく母の、最後の息が、その温みが水を「靄」にかえたのか。「靄」のなかに母がいて、取り残された粒来は「砂」を手にしている。
砂は石が砕けたもの?
そんなことを考えていると……。
母の死は私の知らぬうちにやって来た。母は庭先で猫と戯れなが
ら死んだのだ。不意に猫が奇妙な声をはりあげたから、猫は母の死
の到来を知っていたのだ。母が自らの死を認識する前に、死の方は
猫に予告し、伝達さえしていた。
あれ、母は入水自殺じゃなかった?
突然の、気づかない内の死。それを思うとき、その「知らない」(不明な感じ)が「靄にくるまれ、湖面を撫でるようにして遠去かっていった」母になるのか。
前段落の「夢」のようなものは、粒来が「猫」になって予感したものとも言えるのか。夢の中で、粒来は、その瞬間を予告されていたのか。
あ、これは時系列的に奇妙だね。
前段落の「内在湖の水際に母といた。」は、たぶん、いまの粒来から見た記憶。思い出。このとき、すでに母は死んでしまっているだろう。だから、「靄」といっしょに見たのは「予告」ではない。いや「予告」なのだが、それは、思い返すと「予告」だったということであって、そのときは「予告」ではなかった。
「意味」は後からやってくる。何でもなかったことが、あとから見ると「予告」という「意味」として読むことができる。
時間が逆流し、まざりあって、ありえなかったことがあるように見える。「予告」ではなかったものが「予告」になる。
というのも、なんだか「事実」とは違うなあ。
その「内在湖の水際に母といた。」という夢さえ、母が死んでから見た夢なのだから、それは「予告」ではない。もう死んでいるのに、「母の死は私の知らないうちにやって来た。」ということはありえない。「予告」ではなく、「過去」を粒来はつくりかえている。夢の中で過去へ行き、その夢の中の過去で「予告」を受け止める。そして、納得する。
うーん、変だなあ。変だけれど、これが人間なのだ。人間はなんでもつくってしまう。過去を自分の都合のいいように作り替えるのはごくふつうのことだが、それだけではなくその過去に「予告」さえつくりあげしてまって、今度は「予告」を基本にして過去の「意味」(真実)さえもそれにあわせて変更する。
何のことか、わからない?
あ、私にもよくわからないのだけれど、夢とか過去とか予告とかをことばにすると、それはそれにあわせて、きれいに整いはじめる。ほんとうは違うのに、それがあたかもあるかのように美しい形にとって、ばらばらに(?)動く。ばらばらに考えると、それは美しい哀しみ(結晶)になるが、つづけてしまうと「嘘」(ありえないこと)になる。
うーん。
ここで、こんな飛躍をするのは私だけなのか、それとも同じことがこの詩を書いた粒来に起きたのかどうかわからないが、哀しみの結晶と嘘(ありえない)の関係は、なんだか「方解石」の壊れ方に似ている。叩くときれいな方形になって割れる。
何かが内部で「方形」という「意味」をつくっている。
同じように、何かが哀しみが美しくなるように、人間の内部で「意味」をつくっている。そういうことを考えてしまう。
で、そうか、この母の死の記憶が粒来にとっては「方解石」なのか、と思っていると……。
そのあと、最終連がある。
父は変哲もない小石を一つ、真綿にくるんでマッチの空箱の中に
収い置いたのを私に遺した。遺したくて遺したものでもあるまいが、
どう叩いても割れる代物ではなかった。私は時折その石を耳に当て
がうことがある。
あ、突然、父が出てきた。
この父と粒来との関係は、この詩では「方解石」になっていない。内部から「意味」が統制して、それを結晶にしていない。
まだまだ書かなければならないことがある。そう思っているのだろう。
*
ところで……。
きょうの「感想」、これはいったい何なのだろう。この詩を、私はいいとも、悪いとも書いていない。つまり、位置づけていない。批評の多くは、大抵の場合、その作品がどういう意味をもっているかを指摘し、それが他の詩とどういう関係にあるのかという位置づけを指摘する。
私は、そういうことをほとんどしない。
私はそこに書かれていることばを読み、そのとき自分のことばがどう動いたかしか書けない。きょう書いたことは、あすは別なものになる。読む度に何かが違う。そういう違いを違いとして確かめるために書いているのかもしれない。
ただ考えたことを書いておきたい。
きょうここで考えたことは、いつかこの詩をもう一度読んだときに、別なことばとして甦るかもしれない。あるいは、まったく違う誰かのことばにふれて、この詩を思い出し、何かが動くかもしれない。
詩は、そんなふうにして甦り、生きていく。だから、この詩の感想の中には、実は粒来の詩を読んだときだけの何かではなく、ほかの何かを読んだときの思いもうごめいている。「方解石」のような結晶にはなれずに。
何を書いても、そこにただことばとしてあって、次のことばを誘い出してくれるもの--それが詩なんだろうなあ、と思う。
と書いて、あ、間違えたと思う。
この詩にはストーリーがあるようでないような、奇妙な飛躍と接続がある。「方解石」のきれいな割れ方(死)と母の死、父の死が語られる。死ということで三つはつながっているが、こういう読み方は「錯覚」かもしれない。「意味」を追うから、そういうつながりになる。
「意味」を追って、そこでつじつまがあう(納得できる?)となんなくそこに書かれていることがわかったような気持ちになるが、きっと勘違いだ。「意味」よりも前に、私は粒来の「文体」を読んでいる。ことばの動かし方を読んでいる。動かし方に強いものがあるので、(方解石の比喩を借りて言えば、動かし方に結晶のような整然とした力かがあるので)、そこに書かれていることを信じてしまう。
信じたあとで、「意味」を考えている。
そこに「何かある」と信じさせてくれる「文体」こそが詩なのである、と書けばよかったのだろう。
母の思い出が哀しい結晶となって割れて輝く--そのことについて書いたとき、そこに粒来の「文体」がある、と書けばよかったのかもしれない。
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