詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵『侮蔑の時代』(21)

2014-10-24 09:06:54 | 詩集
粒来哲蔵『侮蔑の時代』(21)(花神社、2014年08月10日発行)

 「海馬よ、海馬」は認知症の妻のことが書かれている。症状の変化を妻の中に生きている「馬」として描いている。その馬の様子がだんだん日常とはかけはなれてしまう。「比喩」といえば比喩だが、詩の最後の部分がとても美しい。

                            孫が
背に背丈に不釣合いなチェロケースを背負って現れると病妻はそれ
だけで驚喜した。恐らく海馬も高らかに嘶いただろう。チェロが鳴
り出すと、目を閉じて聞いていた妻の内側で、海馬がトロットで走
り回る姿が見えたが、どうも馬は膝を痛めているようで、そのせい
か孫の弓も弦につまずきがちであった。

 ここでは、比喩(馬)が優先して、世界を変えていく。ほんとうは、孫の曳くチェロの音楽がときどきつまずく。それがわかって妻のなかの馬が足が乱れる、ということなのだが、大事なのは、妻がチェロの乱れがわかるということ。妻は正常なのだ。音楽を聴いて、その音楽にきちんと反応している。
 そして、このときの妻の態度は、また「正常」なのだ。つまずく音楽にいらだつのではなく、それにあわせてつまずいてみせる。それは、孫が間違えながら弾く曲をにこやかな顔で受け入れて、その間違いさえも楽しんでいる姿に見える。
 「私の足が悪いから、それにあわせて、こんなふうに乱れたんだね」と逆に孫をいたわる感じ。
 あ、比喩が生きている--と感じた。認知症のひとの肉体(思想)にも比喩は届いている。「認知」というような面倒くさい「頭」の働きを飛び越して、比喩が生きたまま動き、その比喩が人間の生き方をととのえている。「肉体」が覚えていること(孫に対して愛情を持った目でみつめること)を思い出し、それを自然に動かし、つかっている。愛の本能が生きていることを教えてくれる。
 この瞬間を的確につかみとる粒来のことばはすばらしい。
 最終段落は、もっと美しい。

 彼岸に妻と亡母の墓参りをしたが、寺の参道の途中で妻が立ちく
らんで了った。道の両側に釣鐘形の白い小房の花が群れていて、早
出の細腰の蜂達がもう蜜をすすっていた。私はその小花を知ってい
た。馬酔木だった。海馬はつとにこの花に酔ったのだ。妻とは言わ
ず、海馬よ海馬……と口籠もりながら、私は妻の背を叩いて覚醒を
促した。妻の目にうっすらと馬影が映っていた。

 墓参りの途中、妻が立ち止まる。何をしているのか、わからなくなったのかもしれない。それを、粒来は妻の中にいる馬が馬酔木を食べて酔っぱらったからだ、ととらえなおしている。馬である妻を受け入れて、馬が馬酔木に酔うことを受け入れている。馬が馬酔木を食べて酔っぱらうのは当然、必然なのだ。そこには「本能」に正直な「肉体」がある。トロットで足が乱れた馬は、妻自身の状況の受け入れ方だが、この最終連は、その妻を受け入れる粒来の、比喩の生き方、比喩の生かし方である。
 妻は馬酔木の名前を思い出せない。それに対して粒来は花の名前を知っていて、ちゃんと思い出せる。一方、妻はその花が何であるか知らないけれど、花の本質を知っている。それを肉体で味わっている。食べて酔っぱらっている。「馬」になって、「馬」を生きている。肉体の本能を正直に動かしている。それは粒来にはできない「生き方」である。
 だから、その「生き方」にあわせて、粒来は、そっと妻の背を叩く。いとしい馬に接するように、いまを生きる。
 そうすると、

妻の目にうっすらと馬影が映っていた。

 あ、これは粒来が妻の中に「馬」を見た(目の奥に馬がいるのを見た)というのではない。妻の、馬になった目が、粒来を馬にして目に映している。馬としてよりそう粒来を受け入れている、ということなのだ。馬にとって、いちばん優しいのは、やはり馬のことがわかる馬である。粒来は、馬になっている。

 ことばは生活から生まれてる。そして同時に、生まれることで生活をととのえる。生活を鍛える。生活を見える形(人に伝えることができる形)にする。美しくする。
 この最終段落には、そういうことばと生活の往復運動がある。ある「理念」があって、それで生活を律するというのではなく、生活の中から「理想」を育てるように動かしていくことば。それは、生活をととのえる。
 ことばがあってよかった。比喩があってよかった。比喩を生み出す力があってよかった、と心底思う。


クリエーター情報なし
書肆山田
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だれの一日が、

2014-10-24 00:39:44 | 
だれの一日が、

裁判所のわきの道にヤブランが咲いている。
緑の細長い葉が乱れるなかから立ち上がって、
無造作ということばになっている。
紫を美しく見せるためだろうか、
葉っぱには白い輪郭があるものもある。
葉っぱの方が配慮を生きている。

学校へ行くこどもらの間を自転車を走らせると、
どの路地をまがったときか、左に入り込んだ路地の突き当たり、
ヤブランの花の色を窓のカーテンのなかに見た。
赤茶色のレンガと白い窓枠に非常に似合っている。
もう一度見に戻ろうか
あしたまた見ればいいか、そう思ったが

だれの一日が割り込んだのだろう。
私のあした、どの路地を走っても見当たらない。
あれは、カーテンの奥のカーテンだったのか、
部屋の奥の鏡が記憶のヤブランの色を映していただけなのか。
窓はひさしの影からのがれた場所で、
閉じたガラスが朝の太陽を斜めに滑らせている。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社


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新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
なお「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)とセットの場合は2000円
「リッツッス詩選集」(作品社、4400円、中井久夫との共著)とセットの場合は4500円
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
です。
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