粒来哲蔵『侮蔑の時代』(17)(花神社、2014年08月10日発行)
「白鯨」は「息子夫婦」が拾ってきた猫の話である。「白鯨」のエイハブ船長のように片方の足が不自由なので、そう名前をつけたらしい。このエイハブは、それではエイハブの生き写しかというと、そういう部分とそうではない部分があって、そうではない部分はそれはそれで「白鯨」の小説と重なる部分がある。
いや、それは重なってはいないのかもしれないが、粒来が重ねてしまうのである。
猫エイハブが船長エイハブその生き写し(?)なら、そこに船員が登場するのはちょっと変なのだが、エイハブではなく「白鯨」というストーリーと重なると言えば言える。こういう「錯覚」というか、「混同」というのは、とてもおもしろい。
私たちは何かを考えるとき、必ずしも考えていることだけを考えるのではない。
エイハブという猫について考えるとき、「白鯨」のエイハブ船長だけを思い描くのではなく、船長とともに動いているすべてのものをエイハブ船長かもしれないと勘違いするのだろう。死を予知した船員は、エイハブ船長でもあるのだ。エイハブ船長がいなければ(エイハブ船長と捕鯨に出港しなければ)、彼は死を予知することもなかったし、棺をつくることもなかったのだから。
誰かが誰かであるというのは、必ずしも「個人」のことではない。
誰かが誰かであるとき、その誰かはほかの誰かでもある。ほかの誰かとなって、「世界」を生きている。私たちは誰かのなかに私を、あるいは誰かのなかに別の誰かを見ている。純粋な(?)個人というものは存在しない--かどうかは、わからないが、ふとそんな気がしてくる。
猫エイハブは、「白鯨」のエイハブ船長であると同時に、船員でもあった。そして、それは「白鯨」のエイハブ船長の生き方に一人の人間の生き方(死にざま)を息子(夫婦)が見たり、またその息子夫婦が見ているものを粒来が見るなら、そのとき粒来は猫エイハブとなって生きているということだろう。
そういうことは猫エイハブにも伝わっている。(と、粒来は感じている)だから、猫の最期を「彼は死に至るまで自らを持し、矜恃を保って死んだ。」と書く。そう見たいのだ。猫の一生を、粒来はそういうことばでとらえたいのだ。粒来の欲望(本能)が、そう書かせているのだ。
猫の「矜恃」にあやかりたいという粒来の思い。
真剣に考えると、なんだか妙なことになってしまうが、最後の「ほんのり猫臭くなるだろう」ということばが、やわらかくてとてもいい。
今回の粒来の詩集には何か「怨念」のようなものが感じられる作品が多いのだが、この詩にはそういう「怨念」がない。「復讐」のようなぎらぎらした情念もない。ほんとうに猫エイハブが好きだったんだなあ、という感じが静かに伝わってくる。
「白鯨」の船員の棺が少年の命を救ったように、猫エイハブとの出会いは、粒来を不思議な形で救っているのだと思う。「怨念」にとらわれることから救っているのだと思う。粒来が飼っている猫ではないのだろうけれど、エイハブに出会えたことは粒来にとってはとてもいいことだったのだとわかる。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
「白鯨」は「息子夫婦」が拾ってきた猫の話である。「白鯨」のエイハブ船長のように片方の足が不自由なので、そう名前をつけたらしい。このエイハブは、それではエイハブの生き写しかというと、そういう部分とそうではない部分があって、そうではない部分はそれはそれで「白鯨」の小説と重なる部分がある。
いや、それは重なってはいないのかもしれないが、粒来が重ねてしまうのである。
「白鯨」の中で自らの死を予知した船員の一人が、自らが入るた
めの棺を作るシーンがある。結局彼はこの手製の棺には入れず、荒
海の何処かにもぐずり込んで了うのだが、棺の方は階上に浮いてあ
る少年の命を救うことになる。猫エイハブは船長エイハブのように
鯨骨の義足は付けず、あまたの輩下を威嚇し、あまたの牝を擁して
死んだ。彼はある夜明け前寝ている息子の瞼を前脚でこじ開け、息
子の躰に重なって死んだ。彼は死に至るまで自らを持し、矜恃を
保って死んだ。猫エイハブは捕鯨船の例の船員のように自らの死を
予知したのかもしれない。彼は自らの死に様を息子の覚めた目で見
届けてほしかったのだと私は思う。
猫エイハブが船長エイハブその生き写し(?)なら、そこに船員が登場するのはちょっと変なのだが、エイハブではなく「白鯨」というストーリーと重なると言えば言える。こういう「錯覚」というか、「混同」というのは、とてもおもしろい。
私たちは何かを考えるとき、必ずしも考えていることだけを考えるのではない。
エイハブという猫について考えるとき、「白鯨」のエイハブ船長だけを思い描くのではなく、船長とともに動いているすべてのものをエイハブ船長かもしれないと勘違いするのだろう。死を予知した船員は、エイハブ船長でもあるのだ。エイハブ船長がいなければ(エイハブ船長と捕鯨に出港しなければ)、彼は死を予知することもなかったし、棺をつくることもなかったのだから。
誰かが誰かであるというのは、必ずしも「個人」のことではない。
誰かが誰かであるとき、その誰かはほかの誰かでもある。ほかの誰かとなって、「世界」を生きている。私たちは誰かのなかに私を、あるいは誰かのなかに別の誰かを見ている。純粋な(?)個人というものは存在しない--かどうかは、わからないが、ふとそんな気がしてくる。
猫エイハブは、「白鯨」のエイハブ船長であると同時に、船員でもあった。そして、それは「白鯨」のエイハブ船長の生き方に一人の人間の生き方(死にざま)を息子(夫婦)が見たり、またその息子夫婦が見ているものを粒来が見るなら、そのとき粒来は猫エイハブとなって生きているということだろう。
そういうことは猫エイハブにも伝わっている。(と、粒来は感じている)だから、猫の最期を「彼は死に至るまで自らを持し、矜恃を保って死んだ。」と書く。そう見たいのだ。猫の一生を、粒来はそういうことばでとらえたいのだ。粒来の欲望(本能)が、そう書かせているのだ。
息子の古机の上に、エイハブの遺骨が白布に包まれた小箱に入っ
て載っている。私は私で息子に隠れてエイハブの体毛をほんの少々
頂いた。何れ私の棺に私と共に収まる手筈だ。私を焼く煙は、ほん
のり猫臭くなるだろう。
猫の「矜恃」にあやかりたいという粒来の思い。
真剣に考えると、なんだか妙なことになってしまうが、最後の「ほんのり猫臭くなるだろう」ということばが、やわらかくてとてもいい。
今回の粒来の詩集には何か「怨念」のようなものが感じられる作品が多いのだが、この詩にはそういう「怨念」がない。「復讐」のようなぎらぎらした情念もない。ほんとうに猫エイハブが好きだったんだなあ、という感じが静かに伝わってくる。
「白鯨」の船員の棺が少年の命を救ったように、猫エイハブとの出会いは、粒来を不思議な形で救っているのだと思う。「怨念」にとらわれることから救っているのだと思う。粒来が飼っている猫ではないのだろうけれど、エイハブに出会えたことは粒来にとってはとてもいいことだったのだとわかる。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。