監督 レニー・アブラハムソン 出演 マイケル・ファスベンダー、ドーナル・グリーソン、マギー・ギレンホール
この映画は、私は前半はとても好きだ。歌をつくるときの昂奮が生き生きと描かれている。波を見ながら、ことばを動かし、音を動かす。街を歩きながら、女の子を見て、それがそのままことばになり、曲がつく。その自然な導入部が美しい。さらに、ドーナル・グリーソンがフランクのグループに誘われ、アイルランドで合宿しながら音を探し出すシーンが楽しい。楽器を動かすだけではなく、身の回りで音を拾い集め、その音を音楽に取り込んでいこうとするシーンが、実に楽しい。五線譜にある音(既存の楽器がつくりだす正確な音階)だけが音楽なのではなく、そこからはみ出している「音」そのもののなかにも「音楽」がある。それを五線譜にたよらずに、「和音」にする。わくわくしてしまう。新しい何かというのは、いつでも「既成のルール」とは違うところからはじまる。いったいどんな「音楽」に結晶するのか。……その作業をつづけるだけの映画で充分なのに。それだけなら100点の映画なのに……。
途中から、「音楽」をつくるという「楽しみ」が消える。「音楽」を売る、既存の社会に受け入れさせる、という方向へ映画が捩じれてゆき、そこで「フランク」の人間性というか、社会とのかかわりあいが問題になってくる。
これがさらに進んでいって。
終盤がもしろくない。「フランク」(マイケル・ファスベンダー)が仮面を脱いでからが、「意味」の映画になっているのが嫌いだなあ。彼らが森の中でつくっていた「音楽」がまったく消えてしまう。--たぶん、彼らの「音楽」の底にあるのは、特に変わった嗜好ではない。ふつうの気持ち、だれもがもっている気持ちである、ということで「愛・ラブ・ユー・オール」という歌が締めくくりに出てくるのだと思うが。
その、ラストシーンの「アイ・ラブ・ユー・オール」の歌は、意味はわかるが、こんなふうにしてしまったら前半のおもしろさが「意味」になってしまう。
美しさというのは「意味」とは無関係。「意味」はこの映画のようにあとからどんなふうにでもつけくわえることができる。いい加減なものである。ひとをだますための嘘である。「意味」のない、「わけのわからない」こころの震えこそが美しさの味なのに、と思ってしまう。不思議な音作り(音楽作り)も、日常にある音に耳をすまし、その音から生きているものを引き出し、楽しむのが音楽のあり方である。原始時代(音楽がはじまるとき)、そこには楽器はなかった。楽器は、自分でみつけ、つくりだしていくものである--そういう「原始の音楽」からフランクのバンドは出発している--と、前半の楽しさを「意味」にしてしまうことだって、簡単にできてしまう。
「意味」なんて、自分の思いを他人に押しつけるための「方便」なのである。
映画にもどって、何がいけないかというと……。
そのストーリーが抱え込む「意味」のうさんくささを指摘しておくと。
「アイ・ラブ・ユー・オール」(君のすべてが好き、君たち全部が好き)というのはフランクの思想(肉体)である。そして、これはだれでもが共通で持っている思想(そうありたいと願っていること)でもある。
ただし、その「愛している」という言い方はひとつではない。「アイ・ラブ・ユー」とことばだけを抜き出すと、「ひとつ」に見えるが、その言い方は人それぞれ違う。「意味」以外のものが、その「愛」(愛し方)のまわりにくっついている。そのことにひとはなかなか気がつきにくい。
そればかりではない。「愛している」という言い方が奇妙だと、どんなに愛していても、それが相手に伝わらない。「気持ち悪い」と拒絶される。「愛している」を伝え、愛されるためには、「愛している」という言い方が大切なのだ。これは、曲作りの途中で、「愛されるように曲をつくらなければならない」という簡単なことばで語られているが、このテーマが、こんなふうに「ことば」で説明されてしまうと、あまりおもしろくない。それに、そんなふうにしてしまっては「愛している」という真剣な気持ちがなんだか薄れていく。
「愛している」というのは、「愛し方」そのものであって、それ以外に「愛」はない。「愛し方」を変えてしまうと、「愛」も変わってしまう。「愛し方」の「個性」がそのひとの人間性そのものなのだから。
こんなことを書いていると「説教臭く」なるが、こういう「説教臭い」感想を書かずにはいられないところに、この映画の問題がある。せっかくの楽しい「音楽」が途中から「説教」に変わる、変わるようにストーリーが動いていく。
フランクは、そしてそのバンド仲間は、だれにでも愛される音楽ではなく、一部の人にしかわからない音楽(自分たちだけにわかる、いわば「自己満足」に近い音楽、カルト音楽)で「アイ・ラブ・ユー」と言う。聞き慣れない「和音」であったり、テルミンの奇妙な音だったり。
そこには一部の人にしかわからなくても、「正直」がある。「これが好き」という本当がある。それが分かり合える人は少なくても、それはそれでしようがない。ドーナル・グリーソンも最初はそれにひかれていったはずである。それにひかれていったのなら、ドーナル・グリーソンが完全に変わってしまうべきである。会社の仕事をなげうってグループといっしょに行動をしたということがドーナル・グリーソンの変化といえば変化かもしれないが、そこから「現実」(人気を求めるバンド)へ戻ろうとするところが、人間として変わっていない。「音楽」になっていない。「音楽」になれずにいる。バンドを、ドーナル・グリーソンがかつていた世界に引き込もうとする。(売り出そうとする。)
で、失敗する。
こんなあたりまえを描いてどうする?
どうしたって、オチ(結末)は、失敗に落ち込んだフランクがその失意のそこからふたたびバンド仲間によりそうように近づき、自分の気持ちを観客にもわかるように言うということになってしまう。それを見てドーナル・グリーソンは自分の間違いに気づき去っていく、ということになってしまう。
こんなふうにしたのでは、カルト音楽をカルト音楽と定義して、世の中を棲み分けてしまうことになる。ぞっとする。最初の「音楽」そのものへの「共感」のようなものは、いったいどこへ消えたのか。
マイケル・ファスベンダーが最後にマスクをとって「素顔」を見せるのも、私は気に食わないなあ。マスクがあると「素顔」がわからない? 「素顔」は「愛している」という「言い方」、マスクをつけてでも「愛している」と言いたいという「気持ち」じゃなかったのかなあ。それはマスクをとっても変わらないということかもしれないが、うーん、あまりにもうさん臭い、ご都合主義の哲学だなあ。マスクを被りつづけることを拒絶する社会の哲学だなあ。
前半 100点、後半0点。足して割ったら、ほんとうは0点になるのだけれど、前半があまりにおもしろいので、後半は見なかったことにしてちょうど中間点の★3個。
(2014年10月22日、KBCシネマ1) (2014年10月14日、中州大洋4)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
この映画は、私は前半はとても好きだ。歌をつくるときの昂奮が生き生きと描かれている。波を見ながら、ことばを動かし、音を動かす。街を歩きながら、女の子を見て、それがそのままことばになり、曲がつく。その自然な導入部が美しい。さらに、ドーナル・グリーソンがフランクのグループに誘われ、アイルランドで合宿しながら音を探し出すシーンが楽しい。楽器を動かすだけではなく、身の回りで音を拾い集め、その音を音楽に取り込んでいこうとするシーンが、実に楽しい。五線譜にある音(既存の楽器がつくりだす正確な音階)だけが音楽なのではなく、そこからはみ出している「音」そのもののなかにも「音楽」がある。それを五線譜にたよらずに、「和音」にする。わくわくしてしまう。新しい何かというのは、いつでも「既成のルール」とは違うところからはじまる。いったいどんな「音楽」に結晶するのか。……その作業をつづけるだけの映画で充分なのに。それだけなら100点の映画なのに……。
途中から、「音楽」をつくるという「楽しみ」が消える。「音楽」を売る、既存の社会に受け入れさせる、という方向へ映画が捩じれてゆき、そこで「フランク」の人間性というか、社会とのかかわりあいが問題になってくる。
これがさらに進んでいって。
終盤がもしろくない。「フランク」(マイケル・ファスベンダー)が仮面を脱いでからが、「意味」の映画になっているのが嫌いだなあ。彼らが森の中でつくっていた「音楽」がまったく消えてしまう。--たぶん、彼らの「音楽」の底にあるのは、特に変わった嗜好ではない。ふつうの気持ち、だれもがもっている気持ちである、ということで「愛・ラブ・ユー・オール」という歌が締めくくりに出てくるのだと思うが。
その、ラストシーンの「アイ・ラブ・ユー・オール」の歌は、意味はわかるが、こんなふうにしてしまったら前半のおもしろさが「意味」になってしまう。
美しさというのは「意味」とは無関係。「意味」はこの映画のようにあとからどんなふうにでもつけくわえることができる。いい加減なものである。ひとをだますための嘘である。「意味」のない、「わけのわからない」こころの震えこそが美しさの味なのに、と思ってしまう。不思議な音作り(音楽作り)も、日常にある音に耳をすまし、その音から生きているものを引き出し、楽しむのが音楽のあり方である。原始時代(音楽がはじまるとき)、そこには楽器はなかった。楽器は、自分でみつけ、つくりだしていくものである--そういう「原始の音楽」からフランクのバンドは出発している--と、前半の楽しさを「意味」にしてしまうことだって、簡単にできてしまう。
「意味」なんて、自分の思いを他人に押しつけるための「方便」なのである。
映画にもどって、何がいけないかというと……。
そのストーリーが抱え込む「意味」のうさんくささを指摘しておくと。
「アイ・ラブ・ユー・オール」(君のすべてが好き、君たち全部が好き)というのはフランクの思想(肉体)である。そして、これはだれでもが共通で持っている思想(そうありたいと願っていること)でもある。
ただし、その「愛している」という言い方はひとつではない。「アイ・ラブ・ユー」とことばだけを抜き出すと、「ひとつ」に見えるが、その言い方は人それぞれ違う。「意味」以外のものが、その「愛」(愛し方)のまわりにくっついている。そのことにひとはなかなか気がつきにくい。
そればかりではない。「愛している」という言い方が奇妙だと、どんなに愛していても、それが相手に伝わらない。「気持ち悪い」と拒絶される。「愛している」を伝え、愛されるためには、「愛している」という言い方が大切なのだ。これは、曲作りの途中で、「愛されるように曲をつくらなければならない」という簡単なことばで語られているが、このテーマが、こんなふうに「ことば」で説明されてしまうと、あまりおもしろくない。それに、そんなふうにしてしまっては「愛している」という真剣な気持ちがなんだか薄れていく。
「愛している」というのは、「愛し方」そのものであって、それ以外に「愛」はない。「愛し方」を変えてしまうと、「愛」も変わってしまう。「愛し方」の「個性」がそのひとの人間性そのものなのだから。
こんなことを書いていると「説教臭く」なるが、こういう「説教臭い」感想を書かずにはいられないところに、この映画の問題がある。せっかくの楽しい「音楽」が途中から「説教」に変わる、変わるようにストーリーが動いていく。
フランクは、そしてそのバンド仲間は、だれにでも愛される音楽ではなく、一部の人にしかわからない音楽(自分たちだけにわかる、いわば「自己満足」に近い音楽、カルト音楽)で「アイ・ラブ・ユー」と言う。聞き慣れない「和音」であったり、テルミンの奇妙な音だったり。
そこには一部の人にしかわからなくても、「正直」がある。「これが好き」という本当がある。それが分かり合える人は少なくても、それはそれでしようがない。ドーナル・グリーソンも最初はそれにひかれていったはずである。それにひかれていったのなら、ドーナル・グリーソンが完全に変わってしまうべきである。会社の仕事をなげうってグループといっしょに行動をしたということがドーナル・グリーソンの変化といえば変化かもしれないが、そこから「現実」(人気を求めるバンド)へ戻ろうとするところが、人間として変わっていない。「音楽」になっていない。「音楽」になれずにいる。バンドを、ドーナル・グリーソンがかつていた世界に引き込もうとする。(売り出そうとする。)
で、失敗する。
こんなあたりまえを描いてどうする?
どうしたって、オチ(結末)は、失敗に落ち込んだフランクがその失意のそこからふたたびバンド仲間によりそうように近づき、自分の気持ちを観客にもわかるように言うということになってしまう。それを見てドーナル・グリーソンは自分の間違いに気づき去っていく、ということになってしまう。
こんなふうにしたのでは、カルト音楽をカルト音楽と定義して、世の中を棲み分けてしまうことになる。ぞっとする。最初の「音楽」そのものへの「共感」のようなものは、いったいどこへ消えたのか。
マイケル・ファスベンダーが最後にマスクをとって「素顔」を見せるのも、私は気に食わないなあ。マスクがあると「素顔」がわからない? 「素顔」は「愛している」という「言い方」、マスクをつけてでも「愛している」と言いたいという「気持ち」じゃなかったのかなあ。それはマスクをとっても変わらないということかもしれないが、うーん、あまりにもうさん臭い、ご都合主義の哲学だなあ。マスクを被りつづけることを拒絶する社会の哲学だなあ。
前半 100点、後半0点。足して割ったら、ほんとうは0点になるのだけれど、前半があまりにおもしろいので、後半は見なかったことにしてちょうど中間点の★3個。
(2014年10月22日、KBCシネマ1) (2014年10月14日、中州大洋4)
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