粒来哲蔵『侮蔑の時代』(12)(花神社、2014年08月10日発行)
「一人でいる時」は、出征兵を見送ったときのことを書いているのだろうか。「私(粒来と仮定して読んでみる)」は何らかの事情で徴兵されなかった。けれど友人が(知り合いが)出征するので見送りに来た。
この書き出しの「靴音」と「荒み」の関係が、かなりおもしろい。靴音が荒んでいる。気持ちが荒んでいる。いや、肉体が荒んでいる。「威丈高」を装っても、ほんとうは違う。気持ちをごまかすとき、肉体が荒むのだろう。
「荒んだ靴音」が残っている。でも、「荒み」と去った。つまり、「靴音」から「荒み」は消えて、ただ「靴音」だけが残っている、と粒来は書いているのかもしれないが。
私はなぜか、逆に読んでしまう。
靴音は消える。けれど、その靴音のなかにあった「荒み」だけが、まだ「街路」のあちこちに残っている。そう読んでしまう。たぶん「靴音」は「物理的な音」だが「荒み」のほうは「物理」ではなく「心理」だからである。「心情」だからである。「荒んでいる」と感じるこころ--それがまだ残っている。その「心情(思い込み)」は粒来の勝手な思い込みであって出征兵たちは荒んではいないとも言うことができるが、この「勝手な思い込み」、自分の心情を他人の肉体のなかに投げ込んでしまって、自他の区別がなくなるというのが、たぶん詩のはじまりである。「靴音」は去ってしまったが、彼らの「荒んだ肉体(心情)」は、いま粒来の「心情」として、そこかしこに残っている。その「心情の荒み」を感じさせる「空間」そのものが、いま、粒来の肉体となって、そこにある。
ここには「物語(ストーリー)」にはならないもの、「物語」から逸脱して、ただそこにあるだけのものが書かれている。なぜ「物語」にならないかといえば、「荒み」は「場」と一体になっていて動かないからである。動けないからである。別個のものが「一体」になって、身動きがとれないという「矛盾」のなかに詩は停滞して存在する。動きがないと限り「物語」とはなれない。
「一人でいる時は二人でいるふりをしなければならない」はロブ・グリエの文章から引用したものであると粒来は書いているが、私は、ロブ・グリエを読んでいない。どういう文脈でそのことばが発せられたのかわからないが、粒来のこの詩の書き出しを読むと、出征兵を見送って「一人」になってしまったときも「二人」でいるふりをしなければいけないと粒来は書いているように見える。
「一人」はわかるが「二人」とは? だれ? 直後に「女」が出てくるが、「女」ではない。出征して行った「友人」か。どうも「具体的」なだれかという感じがしない。「心情」が「もう一人」という感じがする。「荒み」そのものが「もう一人(二人目)」という感じがしてしまう。自分の「心情」であると同時に「だれかの心情」、自分の「肉体」であると同時に「だれかの肉体」。
交錯する。融合する。分離できない「肉体/心情」。自分(粒来)と出征した男は別個の存在(肉体)なのだが、人間の「肉体」と「心情」が切り離せないように、いま「ひとつ」になっている、という感じ。
出征して行った男に自分の「肉体/心情」をみつめ、また取り残された自分肉体のなかに出征して行った男の「肉体/心情」をみつめる感じ。区別がつかない。
その「区別のつかなさ(?)」を、私は「荒んだ靴音」が街に残り、「荒み」は去り、ということばの「揺れ」のようなもののなかに感じた。
自己と他者の一体化(一体感)を別なことばで言いなおすと、「侵す」ということかもしれない。錆が鉄骨を「侵す」。そのとき錆と鉄は一体化している。その「一体化」を感じるとき、「私」はまた私自身が鉄になり錆に侵されていると感じる。
不思議な親和力。
ひとは「一人」であっても「親和力」のせいで(?)、一人ではいられない。「二人のふり」は「する」ものではなく、「してしまう」ものなのだ。「私」は、出征兵を見送ったとき、そのだれかに「侵された」のである。粒来は、ここに一人でいるが、その「ひとり(粒来)」の「肉体」にはだれか知らない「出征兵」の「肉体」が重なっていて、またそのだれかの「肉体」といっしょに粒来の「肉体」も出征して行ってしまっている。桟橋に取り残されていても、粒来は「だれか」といっしょに出征してしまっている。
鴎の死--それももしかすると鴎だけの詩ではない。だれかの死といっしょにある「肉体」かもしれない。だれかが死んだのかもしれない。一人が死ぬと、その肉体(心情)と一体になっている鴎も死ぬのだ。
このとき粒来は、「外」から若者たちを見ているのではなく、若者の一人になって「隊列」のなかにいる。おろおろして、怒鳴られている。
粒来自身は出征兵にならなかったかもしれない。そして、ならなかったからこそ、出征兵たちのかわりに「恨む」のである。「怨念」を語るのである。--この詩には「怨念」のようなもの、わかっていても身構えしてまうような何かが強烈にあるとは感じないが、「文体」のなかに、不思議な「一体感」がある。
一人でいることになれているだれかは、隊列を離れて一人で(一羽で)飛んでいる鴎を自分の「肉体(心情)」と思っている。男は隊列にいながら鴎になっている。粒来は隊列にいて殴られる若者になっていながら、同時にその若者が見つめている鴎にもなっている。
「荒み」ということばのゆらぎ、それから「侵す」ということばのつかい方のなかに、強いエネルギーを感じた。私は「誤読」しているのだろうけれど、「誤読」しないことには読み進むことのできない何かがある。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
「一人でいる時」は、出征兵を見送ったときのことを書いているのだろうか。「私(粒来と仮定して読んでみる)」は何らかの事情で徴兵されなかった。けれど友人が(知り合いが)出征するので見送りに来た。
一人でいる時は二人でいるふりをしなければならない。--既に
大勢が出立した後で私だけが取り残されていた。人の群れはなかっ
たが、彼らが威丈高に出立した後の名残りが、その荒んだ靴音さえ
が、まだ街路のあちこちに残っていた。荒みは去り、私だけが残さ
れた
この書き出しの「靴音」と「荒み」の関係が、かなりおもしろい。靴音が荒んでいる。気持ちが荒んでいる。いや、肉体が荒んでいる。「威丈高」を装っても、ほんとうは違う。気持ちをごまかすとき、肉体が荒むのだろう。
「荒んだ靴音」が残っている。でも、「荒み」と去った。つまり、「靴音」から「荒み」は消えて、ただ「靴音」だけが残っている、と粒来は書いているのかもしれないが。
私はなぜか、逆に読んでしまう。
靴音は消える。けれど、その靴音のなかにあった「荒み」だけが、まだ「街路」のあちこちに残っている。そう読んでしまう。たぶん「靴音」は「物理的な音」だが「荒み」のほうは「物理」ではなく「心理」だからである。「心情」だからである。「荒んでいる」と感じるこころ--それがまだ残っている。その「心情(思い込み)」は粒来の勝手な思い込みであって出征兵たちは荒んではいないとも言うことができるが、この「勝手な思い込み」、自分の心情を他人の肉体のなかに投げ込んでしまって、自他の区別がなくなるというのが、たぶん詩のはじまりである。「靴音」は去ってしまったが、彼らの「荒んだ肉体(心情)」は、いま粒来の「心情」として、そこかしこに残っている。その「心情の荒み」を感じさせる「空間」そのものが、いま、粒来の肉体となって、そこにある。
ここには「物語(ストーリー)」にはならないもの、「物語」から逸脱して、ただそこにあるだけのものが書かれている。なぜ「物語」にならないかといえば、「荒み」は「場」と一体になっていて動かないからである。動けないからである。別個のものが「一体」になって、身動きがとれないという「矛盾」のなかに詩は停滞して存在する。動きがないと限り「物語」とはなれない。
「一人でいる時は二人でいるふりをしなければならない」はロブ・グリエの文章から引用したものであると粒来は書いているが、私は、ロブ・グリエを読んでいない。どういう文脈でそのことばが発せられたのかわからないが、粒来のこの詩の書き出しを読むと、出征兵を見送って「一人」になってしまったときも「二人」でいるふりをしなければいけないと粒来は書いているように見える。
「一人」はわかるが「二人」とは? だれ? 直後に「女」が出てくるが、「女」ではない。出征して行った「友人」か。どうも「具体的」なだれかという感じがしない。「心情」が「もう一人」という感じがする。「荒み」そのものが「もう一人(二人目)」という感じがしてしまう。自分の「心情」であると同時に「だれかの心情」、自分の「肉体」であると同時に「だれかの肉体」。
交錯する。融合する。分離できない「肉体/心情」。自分(粒来)と出征した男は別個の存在(肉体)なのだが、人間の「肉体」と「心情」が切り離せないように、いま「ひとつ」になっている、という感じ。
出征して行った男に自分の「肉体/心情」をみつめ、また取り残された自分肉体のなかに出征して行った男の「肉体/心情」をみつめる感じ。区別がつかない。
その「区別のつかなさ(?)」を、私は「荒んだ靴音」が街に残り、「荒み」は去り、ということばの「揺れ」のようなもののなかに感じた。
桟橋の手摺りに錆が浮いていて、それはまるで銭苔の形に似て円
形状に鉄骨を侵しつつあった。その形状の醜さに私は慄然とした。
錆は一人でいる私をも侵しつつあったのだ。--死んだ鴎はその死
を一人で受容したものか、と私は訝しく思った。
自己と他者の一体化(一体感)を別なことばで言いなおすと、「侵す」ということかもしれない。錆が鉄骨を「侵す」。そのとき錆と鉄は一体化している。その「一体化」を感じるとき、「私」はまた私自身が鉄になり錆に侵されていると感じる。
不思議な親和力。
ひとは「一人」であっても「親和力」のせいで(?)、一人ではいられない。「二人のふり」は「する」ものではなく、「してしまう」ものなのだ。「私」は、出征兵を見送ったとき、そのだれかに「侵された」のである。粒来は、ここに一人でいるが、その「ひとり(粒来)」の「肉体」にはだれか知らない「出征兵」の「肉体」が重なっていて、またそのだれかの「肉体」といっしょに粒来の「肉体」も出征して行ってしまっている。桟橋に取り残されていても、粒来は「だれか」といっしょに出征してしまっている。
鴎の死--それももしかすると鴎だけの詩ではない。だれかの死といっしょにある「肉体」かもしれない。だれかが死んだのかもしれない。一人が死ぬと、その肉体(心情)と一体になっている鴎も死ぬのだ。
集団は隊列を組んでいた。否組もうとして整わず、おろおろして
年嵩の者に怒鳴られる者もいた。隊列はその時になってにわかに組
まれたらしかった。一人でいた者達が急ぎ呼び集められ隊列を組ま
されたのに相違なかった。だから一人居に慣れた者の内の幾人かは、
暗い海の方から飛来する鴎を見上げていた。
このとき粒来は、「外」から若者たちを見ているのではなく、若者の一人になって「隊列」のなかにいる。おろおろして、怒鳴られている。
粒来自身は出征兵にならなかったかもしれない。そして、ならなかったからこそ、出征兵たちのかわりに「恨む」のである。「怨念」を語るのである。--この詩には「怨念」のようなもの、わかっていても身構えしてまうような何かが強烈にあるとは感じないが、「文体」のなかに、不思議な「一体感」がある。
一人でいることになれているだれかは、隊列を離れて一人で(一羽で)飛んでいる鴎を自分の「肉体(心情)」と思っている。男は隊列にいながら鴎になっている。粒来は隊列にいて殴られる若者になっていながら、同時にその若者が見つめている鴎にもなっている。
「荒み」ということばのゆらぎ、それから「侵す」ということばのつかい方のなかに、強いエネルギーを感じた。私は「誤読」しているのだろうけれど、「誤読」しないことには読み進むことのできない何かがある。
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