監督 カリン・ペーター・ネッツアー 出演 ルミニツァ・ゲオルギウ、ボグダン・ドゥミトラケ、イリンカ・ゴヤ
最初の、女二人の対話のシーンをはっきりと思い出すことができないのだが、妙に空気がべったりしている感じがする。その印象は最後までつづいていく。「絵」(映像)として一つ一つが独立していない、カメラのフレームによって現実が切り取られ、そのフレームの中で世界が完結していないという感じがする。視線がまわり(フレームの外)を感じてしまう。役者の表情は、あ、うまい、と思わず声をもらしてしまうくらいにリアルなのに、その顔の情報以外のものが、視界のまわりに動いている感じがする。
なぜだろう。
何度か対話(あるいは会話)のシーンが繰り返されるうちに、カメラの切り替えがふつうの映画と違うことに気がつく。カメラが切り替わらない。ひとりの人物を写したあとカメラはずるーっという感じで次の発言者の方へ動いていく。二人の間にある空間を視線のように移動していく。二人の表情以外の、家(室内)の匂いのようなものを、そのときに引きずり込んでしまう。長廻しといえば長廻しなのだが、この話している登場人物のことば以外のものをカメラが映像として引き込む感じ、「ずるーっ」とした感じが、見ていて「肉体」にべったりからみついてくる。言いかえると、そこにいる感じになる。映画を見ているというよりも、登場人物がいる「部屋」の匂いのなかにいる感じ。役者が演技をするだけではなく、カメラは観客となって無言の演技、目撃者の演技をしている。役者を感じ取るだけではなく、役者の背後を匂いのように知らず知らずに呼吸している。
うーん、こんなこと、別に目撃者になりたくはないのに。絶対に見たいというものではないのに。こんな、べったりした感じの空気は吸いたくないのに。
子離れ(息子離れ)できない母親と、その愛情に苦しんでいる息子。その息子が交通事死亡事故を起こす。なんとかして息子を「無罪」にしたいと思い、あれこれ手を焼く母親……息子はもう30歳を超えている(40歳以上に見える)のに、なんだかうんざりしてしまう関係である。父親(母親の夫)も、少々妻に手を焼いている。母親は建築家(設計士?)で、すべてを自分のコントロール下に置きたいと思っているらしい。すべてをコントロールすることが愛情だと思っているのだろう。
そういうことを「意味」ではなく、「ずるーっ」としたカメラの動きで、観客に伝える。母親のまわりのすべてを、母親が思いどおりに「ずるーっ」と支配している。そこにあるすべてのものの上に母親が「ずるーっ」と引き延ばされている感じ。こういう人間といっしょにいると、全部がずるーっとつながっていて、独立というものがない、という感じ。いやだなあ、そんなものにおおわれたくないなあ。
警察の息子への聴取(供述調書作り)にまで口をはさんでくる。注意・助言する警官にも自分の思いのままに動かそうとする。目撃者の調書も、目撃者を買収することで書き換えさせようとする。だんだん母親が暴走するのだけれど、その暴走をカメラは暴走として表現しない。あくまで「ずるーっ」という感じ、周りを引き込みつづける感じ、「体温」がのりうつったものに変えてしまう。「体温」というのは、まあ、気持ちがいいときもあるが、逆のときもあるね。嫌いな人間だと、体温が感じられると、ぎょっとするということもあるかもしれない。このぎょっとする感じ、つながり恐怖症(つながり拒絶願望)のようなものが息子の人格にも影響して……というのがこの映画の不気味な強さになっているのだが、それを書くと「意味」になりすぎて映画を見ているというより、精神分析の実際に向き合っているようでおもしろくないので省略。
で、映像にもどって。
この「ずるーっ」とした映像が、最後にとてもいい感じに収斂する。母親が息子と息子の恋人(妻?)といっしょに被害者の遺族を訪ねる。息子はこわくて遺族両親に会うことができない。母親があれこれ話をして、家を出てくる。母親が車に乗り込むと、遺族の父が家から出てくる。それを見て、息子が車を降りて、父親に謝罪に行く。謝罪して、握手して、車にもどってくる。これをカメラが長廻しで「ずるーっ」という感じで映し出す。車の中から、後ろをふりかえり、あるいはバックミラーで息子と父親の対話を映し出す。このとき対話は聞こえない。無言である。けれど、カメラは「肉体」の動きで、そこに一種の和解(謝罪と、その受け入れ)があったことがわかる。カメラになって、そのことを体験するのだが。
この体験が、実は、観客だけではなく、母親の体験ともなっているところが、とても劇的なのだ。クライマックスなのだ。特に、バックミラーのなかの小さな映像が、とても印象的だ。母親はその小さな映像で、はじめて息子を客観的にみる。鏡に映っている姿に触れるけれど、息子には触れない。直接肉眼そのもので見るのではなく、鏡の中に姿を見る。--そこに「距離」がある。「ずるーっ」なのだけれど、「ずるーっ」にも距離を生み出す方法があるというか、「距離」を母親はやっと手に入れるのだ。それは息子も同じかもしれない。
そして、この「ずるーっ」でありながら客観的(?)というか「距離」がある、離れて見る、離れてみることでわかる何かというのは、途中で書くのを省略した息子の人格(秘密)の部分とつながる。母親は息子からその事実(秘密)を知らされるのではなく、恋人から知らされる。恋人とという鏡に映った息子は、母親が直接見ている姿とは違うのだ。人のあり方(ひとの本質)は見る人によって違う。人(他人)はみんな自分と同じように息子を見てるわけではない。彼女のとらえている息子像を他人も受け入れているわけではない。あたりまえのことだが、息子を溺愛している母にはそれがわからなかった。
「ずるーっ」した視線と、それを切断するもうひとつの視線。その交錯をこの映画は描いている。それを長廻しのカメラと鏡をつかって、最後にあざやかに印象づける。ミケランジェロ・アントニオーニ「さすらいの二人」(ジャック・ニコルソン、マリア・シュナイダー出演)のラストの格子窓をすりぬけるカメラ(映像)に匹敵する、忘れられないシーンである。どこがつながって、どこが切断しているか--「主人公(母親)」になれば、それがわかるという、生々しい映像だ。ここへたどりつくために、それまでの「ずるーっ」とした映像が必要だったのだ。最後にこのシーンだけ長廻しで撮られても、長廻しであることの必然に気がつかない。それまでのシーンがあるから、その長廻しが必然になる。
とても緊密感のある映像作品だ。
(2014年10月22日、KBCシネマ2)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
最初の、女二人の対話のシーンをはっきりと思い出すことができないのだが、妙に空気がべったりしている感じがする。その印象は最後までつづいていく。「絵」(映像)として一つ一つが独立していない、カメラのフレームによって現実が切り取られ、そのフレームの中で世界が完結していないという感じがする。視線がまわり(フレームの外)を感じてしまう。役者の表情は、あ、うまい、と思わず声をもらしてしまうくらいにリアルなのに、その顔の情報以外のものが、視界のまわりに動いている感じがする。
なぜだろう。
何度か対話(あるいは会話)のシーンが繰り返されるうちに、カメラの切り替えがふつうの映画と違うことに気がつく。カメラが切り替わらない。ひとりの人物を写したあとカメラはずるーっという感じで次の発言者の方へ動いていく。二人の間にある空間を視線のように移動していく。二人の表情以外の、家(室内)の匂いのようなものを、そのときに引きずり込んでしまう。長廻しといえば長廻しなのだが、この話している登場人物のことば以外のものをカメラが映像として引き込む感じ、「ずるーっ」とした感じが、見ていて「肉体」にべったりからみついてくる。言いかえると、そこにいる感じになる。映画を見ているというよりも、登場人物がいる「部屋」の匂いのなかにいる感じ。役者が演技をするだけではなく、カメラは観客となって無言の演技、目撃者の演技をしている。役者を感じ取るだけではなく、役者の背後を匂いのように知らず知らずに呼吸している。
うーん、こんなこと、別に目撃者になりたくはないのに。絶対に見たいというものではないのに。こんな、べったりした感じの空気は吸いたくないのに。
子離れ(息子離れ)できない母親と、その愛情に苦しんでいる息子。その息子が交通事死亡事故を起こす。なんとかして息子を「無罪」にしたいと思い、あれこれ手を焼く母親……息子はもう30歳を超えている(40歳以上に見える)のに、なんだかうんざりしてしまう関係である。父親(母親の夫)も、少々妻に手を焼いている。母親は建築家(設計士?)で、すべてを自分のコントロール下に置きたいと思っているらしい。すべてをコントロールすることが愛情だと思っているのだろう。
そういうことを「意味」ではなく、「ずるーっ」としたカメラの動きで、観客に伝える。母親のまわりのすべてを、母親が思いどおりに「ずるーっ」と支配している。そこにあるすべてのものの上に母親が「ずるーっ」と引き延ばされている感じ。こういう人間といっしょにいると、全部がずるーっとつながっていて、独立というものがない、という感じ。いやだなあ、そんなものにおおわれたくないなあ。
警察の息子への聴取(供述調書作り)にまで口をはさんでくる。注意・助言する警官にも自分の思いのままに動かそうとする。目撃者の調書も、目撃者を買収することで書き換えさせようとする。だんだん母親が暴走するのだけれど、その暴走をカメラは暴走として表現しない。あくまで「ずるーっ」という感じ、周りを引き込みつづける感じ、「体温」がのりうつったものに変えてしまう。「体温」というのは、まあ、気持ちがいいときもあるが、逆のときもあるね。嫌いな人間だと、体温が感じられると、ぎょっとするということもあるかもしれない。このぎょっとする感じ、つながり恐怖症(つながり拒絶願望)のようなものが息子の人格にも影響して……というのがこの映画の不気味な強さになっているのだが、それを書くと「意味」になりすぎて映画を見ているというより、精神分析の実際に向き合っているようでおもしろくないので省略。
で、映像にもどって。
この「ずるーっ」とした映像が、最後にとてもいい感じに収斂する。母親が息子と息子の恋人(妻?)といっしょに被害者の遺族を訪ねる。息子はこわくて遺族両親に会うことができない。母親があれこれ話をして、家を出てくる。母親が車に乗り込むと、遺族の父が家から出てくる。それを見て、息子が車を降りて、父親に謝罪に行く。謝罪して、握手して、車にもどってくる。これをカメラが長廻しで「ずるーっ」という感じで映し出す。車の中から、後ろをふりかえり、あるいはバックミラーで息子と父親の対話を映し出す。このとき対話は聞こえない。無言である。けれど、カメラは「肉体」の動きで、そこに一種の和解(謝罪と、その受け入れ)があったことがわかる。カメラになって、そのことを体験するのだが。
この体験が、実は、観客だけではなく、母親の体験ともなっているところが、とても劇的なのだ。クライマックスなのだ。特に、バックミラーのなかの小さな映像が、とても印象的だ。母親はその小さな映像で、はじめて息子を客観的にみる。鏡に映っている姿に触れるけれど、息子には触れない。直接肉眼そのもので見るのではなく、鏡の中に姿を見る。--そこに「距離」がある。「ずるーっ」なのだけれど、「ずるーっ」にも距離を生み出す方法があるというか、「距離」を母親はやっと手に入れるのだ。それは息子も同じかもしれない。
そして、この「ずるーっ」でありながら客観的(?)というか「距離」がある、離れて見る、離れてみることでわかる何かというのは、途中で書くのを省略した息子の人格(秘密)の部分とつながる。母親は息子からその事実(秘密)を知らされるのではなく、恋人から知らされる。恋人とという鏡に映った息子は、母親が直接見ている姿とは違うのだ。人のあり方(ひとの本質)は見る人によって違う。人(他人)はみんな自分と同じように息子を見てるわけではない。彼女のとらえている息子像を他人も受け入れているわけではない。あたりまえのことだが、息子を溺愛している母にはそれがわからなかった。
「ずるーっ」した視線と、それを切断するもうひとつの視線。その交錯をこの映画は描いている。それを長廻しのカメラと鏡をつかって、最後にあざやかに印象づける。ミケランジェロ・アントニオーニ「さすらいの二人」(ジャック・ニコルソン、マリア・シュナイダー出演)のラストの格子窓をすりぬけるカメラ(映像)に匹敵する、忘れられないシーンである。どこがつながって、どこが切断しているか--「主人公(母親)」になれば、それがわかるという、生々しい映像だ。ここへたどりつくために、それまでの「ずるーっ」とした映像が必要だったのだ。最後にこのシーンだけ長廻しで撮られても、長廻しであることの必然に気がつかない。それまでのシーンがあるから、その長廻しが必然になる。
とても緊密感のある映像作品だ。
(2014年10月22日、KBCシネマ2)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/