北川透『現代詩論集成1』(12)(思潮社、2014年09月05日発行)
Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
十一 蒼ざめたvie と自然回帰 三好豊一郎覚書
「希望」という作品を取り上げて、北川は「なぜ、陽の照る麦畑の農夫や、リボンの少女や、快活な若者など、いかにも新体詩的なレベルの修辞よる希望を語らなければならなかったのか」と書いている。そして、また「おそらくここにあるのは宗教的文脈である」とも書いている。ここでいう「宗教的文脈」というのは「政治的文脈」に対しての発言である。
「荒地」の詩人は北川には「政治的文脈」のことばを語った詩人であり、そのなかにあって三好豊一郎は異質である--というのが北川の論点のポイントであると思って読んだ。そうか、宗教的か……。たしかに、
そういう気はするが、肝心のキリスト教、カソリックというものについて私は考えたことがないので、ほんとうかどうかよくわからない。
そういう「宗教的文脈」とは別に、北川はたいへん興味深い指摘をしている。一九五二年版の『荒地詩集』に掲載されている作品(「春の祭り」)について触れている部分。
あ、と私は声を上げてしまう。傍線を引いて何度も読み直してしまったのだが、そうか「観念語」か。
もし、その視点に立つのなら、先に北川のあげている「老いたる農夫」「貧しい清純な少女」「勤勉なる若者」「無辜の犠牲」「地上の苦役」「萬人の苦悩」「悲惨と哀訴の涙」は、どうだろうか。「老いたる農夫」「貧しい清純な少女」「勤勉なる若者」は「実在」するように見える。特に「老いたる農夫」はどこにでもいるように見える。しかし、そのあとの「清純な少女」「勤勉なる若者」の「清純」や「勤勉」は「実在物」というよりも「観念」の世界にいる存在のように思える。「清純」「勤勉」というのは「もの」ではなく「価値判断」だからである。「無辜の犠牲」「地上の苦役」「萬人の苦悩」「悲惨と哀訴の涙」も「観念」が浮き彫りにする「事実」であるように思える。つまり「観念語」という具合に。
言いかえると、三好には「宗教的文脈」はなく、最初から「観念的文脈」だけがあったということにならないか。観念が「老いたる農夫」「貧しい清純な少女」「勤勉なる若者」というような「実在物」を持ち出してくるとき、その「観念」は「宗教」と似通ってくるに過ぎないのではないのか。ほんとうは「宗教的」ではなかったのではないのか。
「詩人の内面などをもはや通過せず」というのなら、それは「宗教的」ではないだろう。内面を欠いた宗教はないと、私は思う。「出自」を「宗教」と結びつけるのは、何か、三好の「観念」を、鮎川の「理念」とは区別するための方便のようにも感じられる。
北川はまた、こう書いている。
とてもおもしろいなあ。
「ことばが作者の内面的な根底を欠いて」いると、北川は再び「内面」ということばを用い、それを「欠いて」いると繰り返している。そうであるなら、そのことばは「宗教的」ではありえない、と私も再び書いておこう。
「宗教」には「外形」もあるだろうけれど、もっぱら「内面」の問題である。三好の詩は、彼がどんな「宗教」を信仰していようが「宗教的文脈」とは関係がないのだと思う。「観念的」ではあっても、「宗教的」とは私には思えない。
北川の指摘したいことと、私が感じ取ったことは違うかもしれないが、北川の文章を読みながら、私はそう考えた。
そもそも三好は「観念語」はつかっているが、「観念」というものとも無関係なのかもしれない。
そういうことよりも、
これが、「荒地以後」のひとつの「ことばの状況」を語っているように思える。--というようなあいまいなことではなく、私自身の「体験」に即して言えば。
私が「荒地」の詩(あるいは「現代詩」)を書きはじめ、読みはじめたたのは1970年代である。その当時の「現代詩」(あるいは、過去の「荒地」の詩)を読み、そこに出てくる「漢字熟語」の多さにびっくりした。知らないことばなのに、表意文字の力なのだろう、「漢字」の「意味」がところどころわかる。そのところどころわかるものが「連想」でかってに「意味」を捏造する。(まあ、簡単に言うと、意味を調べずに「誤読」して、勝手に、「意味」を納得する。)漢字には不思議な力があるなあ、と感じ、それをそのままつないでいって、自分でもわけのわからない詩をでっちあげる。漢字熟語がとびまわると過激な感じがして、あ、「現代詩」と思い込むことができた。
こういうとき、その観念語の「出自」は、あちこちの哲学書(?)だったり、辞書だったり、誰かの作品だったりする。そして、それを暴走させるのは「宗教」ではなく、たとえば熟語の音のなかにあるリズム、音楽というようなものであると私は思う。なんといっても「意味」もわからずに、このことばはなんとなくかっこいい、見栄えがする、この漢字熟語とこの漢字をぶつけると、いままでとは違ったものがでてきそう。そういう「カン」(感性?)のようなものが、ことばを動かす。
それは「観念」ですらない。
へええ、三好もそういう具合に詩を書いていたのか。
北川の指摘していることは私の書いていることとは違うかもしれないけれど、私はそんなふうに思ってしまった。
で、それと関係がないような、あるような。
詩には「実感」とは無関係に動くものがある。あることばに触れて、そこから「連想」が暴走し、次々にことばを増殖させていく。そのことばの運動、そのときのリズム、音の響き(広がり)、そういうものを頼りに詩を書くことがある。それを頼りに書かれた詩があると思うことがある。
音に対する直感的な好みが、ことばを動かすことがある。
詩は、「実感」ではなく、むしろ「でたらめ」なものでもある、とも思うのだ。現実をどこかで破壊していく、不埒なことばの運動であるとも思う。「意味」なんて、最初から考えているわけではない。書いているうちに、適当に生まれてくるものだと思う。
問題は、そういう「でたらめ」を詩であると言ってしまったとき、ひとつ困る(?)ことがある。
詩は「真実」を語るもの、という「定義」と折り合いがつかない。
このことを強引に「荒地」の問題と結びつけていうと、「荒地」を統一している(?)「理念」と折り合いがつかなくなる。「荒地の理念」に合致するもの、「理念」で社会の問題を切り開いていく、「理念」で人間の可能性をつかみ取るということを「詩の本質」ととらえる視点と折り合いがつきにくい。どうしても「理念」を掲げて、それにそった作品を高く評価し、「理念」を掲げない作品を傍流に位置づけるというヒエラルキーのようなものができてしまう。ヒエラルキーの導入で、「折り合い」をつけてしまうということがおきるように思う。
これは私の印象であって、不適切な表現かもしれないが、北川は鮎川信夫を頂点として「荒地」の詩人の「分布図」を書いているように感じてしまう。私は三好の詩よりも鮎川の詩、田村の詩をおもしろいと思うけれど、その私の感じている印象が、北川の描いている(?)ヒエラルキーのなかに組み込まれることには、何か、抵抗したいなあ、という気持ちがする。
どう説明していいのかわからないのだけれど。
北川が三好のつかっていることばに触れながら「宗教的」と呼んだものと、鮎川のことばに触れて「理念」と呼んだものの関係について、結論を急がないで、と注文をつけたくなる。
私が北川の文章を読みきれていないだけなのだろうけれど。
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Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
十一 蒼ざめたvie と自然回帰 三好豊一郎覚書
「希望」という作品を取り上げて、北川は「なぜ、陽の照る麦畑の農夫や、リボンの少女や、快活な若者など、いかにも新体詩的なレベルの修辞よる希望を語らなければならなかったのか」と書いている。そして、また「おそらくここにあるのは宗教的文脈である」とも書いている。ここでいう「宗教的文脈」というのは「政治的文脈」に対しての発言である。
「荒地」の詩人は北川には「政治的文脈」のことばを語った詩人であり、そのなかにあって三好豊一郎は異質である--というのが北川の論点のポイントであると思って読んだ。そうか、宗教的か……。たしかに、
《老いたる農夫》とか《貧しい清純な少女》とか《勤勉なる若者》というような、いささか素朴すぎる修辞がでてくる理由は理解できない。《無辜の犠牲(いけにえ)》とか《地上の苦役》、《萬人の苦悩》、《悲惨と哀訴の涙》というようなことばも、キリスト教やカソリックのようなものを、背景に置いてみて、はじめて意味をもつものであろう。( 243ページ)
そういう気はするが、肝心のキリスト教、カソリックというものについて私は考えたことがないので、ほんとうかどうかよくわからない。
そういう「宗教的文脈」とは別に、北川はたいへん興味深い指摘をしている。一九五二年版の『荒地詩集』に掲載されている作品(「春の祭り」)について触れている部分。
ここから受ける印象は、何よりも漢字の圧倒的な洪水ということである。そして、そのようにあふれ出ててくる漢字とは、詩人の内面などをもはや通過せず、どこか別のところを出自としていることばであろう。( 247ページ)
しかし、これは漢字の洪水なのだろうか。ここで用いられている漢字が、具体的な実在物を支持することばであることが少なく、そのほとんどが観念語であることに注意すべきだであろう。漢字の洪水と見えたものは、観念語の洪水であったのである。( 248ページ)
あ、と私は声を上げてしまう。傍線を引いて何度も読み直してしまったのだが、そうか「観念語」か。
もし、その視点に立つのなら、先に北川のあげている「老いたる農夫」「貧しい清純な少女」「勤勉なる若者」「無辜の犠牲」「地上の苦役」「萬人の苦悩」「悲惨と哀訴の涙」は、どうだろうか。「老いたる農夫」「貧しい清純な少女」「勤勉なる若者」は「実在」するように見える。特に「老いたる農夫」はどこにでもいるように見える。しかし、そのあとの「清純な少女」「勤勉なる若者」の「清純」や「勤勉」は「実在物」というよりも「観念」の世界にいる存在のように思える。「清純」「勤勉」というのは「もの」ではなく「価値判断」だからである。「無辜の犠牲」「地上の苦役」「萬人の苦悩」「悲惨と哀訴の涙」も「観念」が浮き彫りにする「事実」であるように思える。つまり「観念語」という具合に。
言いかえると、三好には「宗教的文脈」はなく、最初から「観念的文脈」だけがあったということにならないか。観念が「老いたる農夫」「貧しい清純な少女」「勤勉なる若者」というような「実在物」を持ち出してくるとき、その「観念」は「宗教」と似通ってくるに過ぎないのではないのか。ほんとうは「宗教的」ではなかったのではないのか。
「詩人の内面などをもはや通過せず」というのなら、それは「宗教的」ではないだろう。内面を欠いた宗教はないと、私は思う。「出自」を「宗教」と結びつけるのは、何か、三好の「観念」を、鮎川の「理念」とは区別するための方便のようにも感じられる。
北川はまた、こう書いている。
それにしても、これらの個別に取り出してみれば、かなり過激なことばも、どういうわけか田村隆一のような観念の屹立性を感じさせない。漢字の字面が威嚇しているだけで、衝撃力を欠いているのである。それが洪水の印象ともなっているのであるが、その理由は、ことばが作者の内面的な根底を欠いて、ただ、平面的に自己増殖していくところにあるだろう。漢字による観念語の連想で次なる観念語が生まれており、その無限のような連鎖が作品行為なのだ。( 248ページ)
とてもおもしろいなあ。
「ことばが作者の内面的な根底を欠いて」いると、北川は再び「内面」ということばを用い、それを「欠いて」いると繰り返している。そうであるなら、そのことばは「宗教的」ではありえない、と私も再び書いておこう。
「宗教」には「外形」もあるだろうけれど、もっぱら「内面」の問題である。三好の詩は、彼がどんな「宗教」を信仰していようが「宗教的文脈」とは関係がないのだと思う。「観念的」ではあっても、「宗教的」とは私には思えない。
北川の指摘したいことと、私が感じ取ったことは違うかもしれないが、北川の文章を読みながら、私はそう考えた。
そもそも三好は「観念語」はつかっているが、「観念」というものとも無関係なのかもしれない。
そういうことよりも、
漢字による観念語の連想で次なる観念語が生まれており、その無限のような連鎖が作品行為なのだ。
これが、「荒地以後」のひとつの「ことばの状況」を語っているように思える。--というようなあいまいなことではなく、私自身の「体験」に即して言えば。
私が「荒地」の詩(あるいは「現代詩」)を書きはじめ、読みはじめたたのは1970年代である。その当時の「現代詩」(あるいは、過去の「荒地」の詩)を読み、そこに出てくる「漢字熟語」の多さにびっくりした。知らないことばなのに、表意文字の力なのだろう、「漢字」の「意味」がところどころわかる。そのところどころわかるものが「連想」でかってに「意味」を捏造する。(まあ、簡単に言うと、意味を調べずに「誤読」して、勝手に、「意味」を納得する。)漢字には不思議な力があるなあ、と感じ、それをそのままつないでいって、自分でもわけのわからない詩をでっちあげる。漢字熟語がとびまわると過激な感じがして、あ、「現代詩」と思い込むことができた。
こういうとき、その観念語の「出自」は、あちこちの哲学書(?)だったり、辞書だったり、誰かの作品だったりする。そして、それを暴走させるのは「宗教」ではなく、たとえば熟語の音のなかにあるリズム、音楽というようなものであると私は思う。なんといっても「意味」もわからずに、このことばはなんとなくかっこいい、見栄えがする、この漢字熟語とこの漢字をぶつけると、いままでとは違ったものがでてきそう。そういう「カン」(感性?)のようなものが、ことばを動かす。
それは「観念」ですらない。
へええ、三好もそういう具合に詩を書いていたのか。
北川の指摘していることは私の書いていることとは違うかもしれないけれど、私はそんなふうに思ってしまった。
で、それと関係がないような、あるような。
詩には「実感」とは無関係に動くものがある。あることばに触れて、そこから「連想」が暴走し、次々にことばを増殖させていく。そのことばの運動、そのときのリズム、音の響き(広がり)、そういうものを頼りに詩を書くことがある。それを頼りに書かれた詩があると思うことがある。
音に対する直感的な好みが、ことばを動かすことがある。
詩は、「実感」ではなく、むしろ「でたらめ」なものでもある、とも思うのだ。現実をどこかで破壊していく、不埒なことばの運動であるとも思う。「意味」なんて、最初から考えているわけではない。書いているうちに、適当に生まれてくるものだと思う。
問題は、そういう「でたらめ」を詩であると言ってしまったとき、ひとつ困る(?)ことがある。
詩は「真実」を語るもの、という「定義」と折り合いがつかない。
このことを強引に「荒地」の問題と結びつけていうと、「荒地」を統一している(?)「理念」と折り合いがつかなくなる。「荒地の理念」に合致するもの、「理念」で社会の問題を切り開いていく、「理念」で人間の可能性をつかみ取るということを「詩の本質」ととらえる視点と折り合いがつきにくい。どうしても「理念」を掲げて、それにそった作品を高く評価し、「理念」を掲げない作品を傍流に位置づけるというヒエラルキーのようなものができてしまう。ヒエラルキーの導入で、「折り合い」をつけてしまうということがおきるように思う。
これは私の印象であって、不適切な表現かもしれないが、北川は鮎川信夫を頂点として「荒地」の詩人の「分布図」を書いているように感じてしまう。私は三好の詩よりも鮎川の詩、田村の詩をおもしろいと思うけれど、その私の感じている印象が、北川の描いている(?)ヒエラルキーのなかに組み込まれることには、何か、抵抗したいなあ、という気持ちがする。
どう説明していいのかわからないのだけれど。
北川が三好のつかっていることばに触れながら「宗教的」と呼んだものと、鮎川のことばに触れて「理念」と呼んだものの関係について、結論を急がないで、と注文をつけたくなる。
私が北川の文章を読みきれていないだけなのだろうけれど。
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