粒来哲蔵『侮蔑の時代』(15)(花神社、2014年08月10日発行)
「花蟷螂」については最近感想を書いた気がする。そのときの感想とは違ったことを書きたい。(どんな感想を書いたかも、私はよく覚えていないのだが……。だから、同じことを書くかもしれないが。)
ふと「花蟷螂」を粒来と置き換えて読みたくなる。粒来といっても私の知っているの粒来は「詩のことば」だけなので、それは「粒来の詩」という意味である。
ときどきだれかが(たとえば私のような者が)、粒来の詩について何か書こうとする。実際に書きはじめる。そうすると、そこに「寓話」のようなものを感じる。真実と虚構の複雑に組み合わさったことばに出合う。そして、虚構の部分にかみついてしまって、「虚(むなしい)」そのものを味わうと(事実、真実がみつからないと)、もう二度と何かを書こうとしなくなる。--そういうふうに読むことができる。
粒来の詩は、読者によって「好み」が分かれてしまう。「虚構」を書いていると感じてしまうと、繰り返し読みたくないという気持ちになるかもしれない。「虚構」というのはどんなに複雑に組み合わせてみても「虚構」というひとつのものにくくられてしまう。「真実」は無数にあるが、「虚構」というのは「ひとつ」である。「真実」をより明確にするための「方法(方便)」という「抽象的定義」のなかにおさまってしまう。
ふーん、粒来は、だれそれの批評(感想)をそういうふうに読んでいるのか。そう感じているのか、と余分なことを考えながら、私は詩を読むのだが……。
そのあとが、実は、わからない。
先に引用した部分のつづきだが、
このことばが、私の「論理感覚」では理解できない。
「従って」は「それゆえに」と言いかえることができと思う。つまり「理由(原因)」と結びつきながら「結論(?)」を述べるときに「従って」ということばをつかうと思う。私はそういう「論理」を生きている。
ところが、粒来の「従って」では、「理由」と「結論」の関係がわからない。
一度花蟷螂(粒来の詩)を襲い、それが「空疎(まずい/つまらない)」と感じたものは、二度と花蟷螂を襲わない。そうであるなら、花蟷螂は襲われる心配がないのだから何もしなくてもいい。(だれかの感想が「つまらない」と言っているからといって、それが繰り返されるわけではないのだから、ほっておけばいい。)
でも、花蟷螂は「本来は三角形であるべき顔貌をも複雑な多角形に変容させている」。この「変容させている」の「させている」は何? なぜ? なぜ、「変容させる」必要がある?
襲われたいのか。餌として食べられたいのか。つまり、読まれたいのか、読まれ、読むことで満足してもらいたいのか。
こんなに食欲をそそるように「複雑に」しているのに(読みごたえがあるように「虚構」に念を入れて工夫しているのに)、いろんな味をもりこんで、どんな味でも味わえるようにしているのに(いろいろな事実、真実がより明確に見えるようにしているに)、だれも食べに来ない。複雑さ自身が、粒来自身にも不愉快になるくらいだ--というのか。
そう読めば、たしかに「従って」でいいのかもしれないが。(「従って」を納得するためには、「花蟷螂=粒来の詩」という「虚構」を組み込む必要があるかもしれない。)
この「従って」は、何か、ありきたりの(流通言語)の「論理」ではとらえられない「矛盾(あいまいな/混沌とした/余分なものがからみついた)ことばである。そして「矛盾」しているからこそ、そこに粒来にしか書けない「虚構」ではなく「真実」があるはずなのだが、どうも私にはつかみきれない。
「従って」が、この詩のキーワードだぞ、と覚えておくことしかできない。(いつか、「従って」がどんなふうに動くが見えてくるかもしれない。それまでは、待つしかない、と私は思っている。)
詩は、このあと次のように展開する。
「花蟷螂(粒来の詩)」は「虚構」がふんだんである。その構造を粒来自身は「美しい」と思いたい。
「しかし」(「従って」とは逆の論理の運動をさそうことば)、どうも「虚構」は「虚飾」であり、それが見苦しいと言えば見苦しい、と感じもする、ということかな?
おもしろいなあ、と思うのは、ここに「自身を見ると」と「見る」という動詞が出てくることである。
「見る」ってどうやって?
揚げ足取りの「つっこみ」ではないが、いや、揚げ足取りかもしれないが、花蟷螂はどうやって自分を見る? 鏡をつかって? 昆虫が鏡なんか見る?
この「見る」は花蟷螂の「動詞」ではない。粒来自身の「動詞」である。粒来が花蟷螂になっている。(そんなことは、いちいちいわなくてもわかっていることかもしれないが、粒来が花蟷螂になっているという「論理的証拠」が「見る」という動詞である。)そして、その動詞が、「絶望」ということばをひっぱりだしている。
そして、そこに「従って」が隠れている。
自分自身の姿を見る、そこに夜鷹まがいの自分を見出す、「従って(それゆえに)」自身の「絶望は深まる」。
最初に引用した部分にあった「従って」は、どうも、「位置」を間違えている。
ほんとうは、
なのだろう。
このあと、詩はさらにつづき、花蟷螂が絶望して死ぬ。死ぬとは「虚構」をつくりだすことをしなくなるという意味でもある。
で、虚構をつくらなくなったとき、真実(花蟷螂の体)は消えて、彼を動かしていた虚構そのものが、捕食者(読者)のあいだ(空間)に残る。読者は、虚構だけをだきしめ、虚構こそが真実であったと知る、ということか。
そうであるなら、これは「復讐」だね。
絶望は「従って」復讐の形で果たされる。
ここにも「怨念」という誤解を招きそうだが、絶対に書いておくぞ、という執念のようなものを感じる。
今回の粒来の詩集のことばは、「迫力」が違う。いままでの詩集で私が感じ取れずにきただけなのかもしれないが。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
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「花蟷螂」については最近感想を書いた気がする。そのときの感想とは違ったことを書きたい。(どんな感想を書いたかも、私はよく覚えていないのだが……。だから、同じことを書くかもしれないが。)
時折花蟷螂を襲う者もいるにはいるが、大抵は彼の虚の部分の真
白い虚飾の襞々を噛んでその空疎を味わうと、二度と襲ってくるこ
とはないという。
ふと「花蟷螂」を粒来と置き換えて読みたくなる。粒来といっても私の知っているの粒来は「詩のことば」だけなので、それは「粒来の詩」という意味である。
ときどきだれかが(たとえば私のような者が)、粒来の詩について何か書こうとする。実際に書きはじめる。そうすると、そこに「寓話」のようなものを感じる。真実と虚構の複雑に組み合わさったことばに出合う。そして、虚構の部分にかみついてしまって、「虚(むなしい)」そのものを味わうと(事実、真実がみつからないと)、もう二度と何かを書こうとしなくなる。--そういうふうに読むことができる。
粒来の詩は、読者によって「好み」が分かれてしまう。「虚構」を書いていると感じてしまうと、繰り返し読みたくないという気持ちになるかもしれない。「虚構」というのはどんなに複雑に組み合わせてみても「虚構」というひとつのものにくくられてしまう。「真実」は無数にあるが、「虚構」というのは「ひとつ」である。「真実」をより明確にするための「方法(方便)」という「抽象的定義」のなかにおさまってしまう。
ふーん、粒来は、だれそれの批評(感想)をそういうふうに読んでいるのか。そう感じているのか、と余分なことを考えながら、私は詩を読むのだが……。
そのあとが、実は、わからない。
従って花の側の真白い花蟷螂は、本来は三角形で
あるべき顔貌をも複雑な多角形に変容させている。この在り様も彼
自身にはきわめて不愉快だ。
先に引用した部分のつづきだが、
従って
このことばが、私の「論理感覚」では理解できない。
「従って」は「それゆえに」と言いかえることができと思う。つまり「理由(原因)」と結びつきながら「結論(?)」を述べるときに「従って」ということばをつかうと思う。私はそういう「論理」を生きている。
ところが、粒来の「従って」では、「理由」と「結論」の関係がわからない。
一度花蟷螂(粒来の詩)を襲い、それが「空疎(まずい/つまらない)」と感じたものは、二度と花蟷螂を襲わない。そうであるなら、花蟷螂は襲われる心配がないのだから何もしなくてもいい。(だれかの感想が「つまらない」と言っているからといって、それが繰り返されるわけではないのだから、ほっておけばいい。)
でも、花蟷螂は「本来は三角形であるべき顔貌をも複雑な多角形に変容させている」。この「変容させている」の「させている」は何? なぜ? なぜ、「変容させる」必要がある?
襲われたいのか。餌として食べられたいのか。つまり、読まれたいのか、読まれ、読むことで満足してもらいたいのか。
こんなに食欲をそそるように「複雑に」しているのに(読みごたえがあるように「虚構」に念を入れて工夫しているのに)、いろんな味をもりこんで、どんな味でも味わえるようにしているのに(いろいろな事実、真実がより明確に見えるようにしているに)、だれも食べに来ない。複雑さ自身が、粒来自身にも不愉快になるくらいだ--というのか。
そう読めば、たしかに「従って」でいいのかもしれないが。(「従って」を納得するためには、「花蟷螂=粒来の詩」という「虚構」を組み込む必要があるかもしれない。)
この「従って」は、何か、ありきたりの(流通言語)の「論理」ではとらえられない「矛盾(あいまいな/混沌とした/余分なものがからみついた)ことばである。そして「矛盾」しているからこそ、そこに粒来にしか書けない「虚構」ではなく「真実」があるはずなのだが、どうも私にはつかみきれない。
「従って」が、この詩のキーワードだぞ、と覚えておくことしかできない。(いつか、「従って」がどんなふうに動くが見えてくるかもしれない。それまでは、待つしかない、と私は思っている。)
詩は、このあと次のように展開する。
花蟷螂は彼自身を美しいと思いたい。しかし眼瞼から垂れて互い
に風に鳴っている小片体が、更に頬につながり口辺を覆い、やや長
すぎる頸一面を安物の白粉状の細粉がぼろぼろ剥がれ加減でへばり
つく--という夜鷹まがいの自身を見ると、彼の絶望は深まるばか
りだ。
「花蟷螂(粒来の詩)」は「虚構」がふんだんである。その構造を粒来自身は「美しい」と思いたい。
「しかし」(「従って」とは逆の論理の運動をさそうことば)、どうも「虚構」は「虚飾」であり、それが見苦しいと言えば見苦しい、と感じもする、ということかな?
おもしろいなあ、と思うのは、ここに「自身を見ると」と「見る」という動詞が出てくることである。
「見る」ってどうやって?
揚げ足取りの「つっこみ」ではないが、いや、揚げ足取りかもしれないが、花蟷螂はどうやって自分を見る? 鏡をつかって? 昆虫が鏡なんか見る?
この「見る」は花蟷螂の「動詞」ではない。粒来自身の「動詞」である。粒来が花蟷螂になっている。(そんなことは、いちいちいわなくてもわかっていることかもしれないが、粒来が花蟷螂になっているという「論理的証拠」が「見る」という動詞である。)そして、その動詞が、「絶望」ということばをひっぱりだしている。
そして、そこに「従って」が隠れている。
自分自身の姿を見る、そこに夜鷹まがいの自分を見出す、「従って(それゆえに)」自身の「絶望は深まる」。
最初に引用した部分にあった「従って」は、どうも、「位置」を間違えている。
ほんとうは、
夜鷹まがいの自身を見る(見出す)。「従って」彼の絶望は深まるばかりだ。
なのだろう。
このあと、詩はさらにつづき、花蟷螂が絶望して死ぬ。死ぬとは「虚構」をつくりだすことをしなくなるという意味でもある。
虚飾をこそぎ落として、痩せぎすな一匹の、さりげない蟷螂となっ
て横たわる。
やがて数多の捕食者が集まって来て花蟷螂を噛み砕くが、その時
彼らの蝟集まる空間を、うす紅色に染まった風が、さわさわと渡っ
ていく。
で、虚構をつくらなくなったとき、真実(花蟷螂の体)は消えて、彼を動かしていた虚構そのものが、捕食者(読者)のあいだ(空間)に残る。読者は、虚構だけをだきしめ、虚構こそが真実であったと知る、ということか。
そうであるなら、これは「復讐」だね。
絶望は「従って」復讐の形で果たされる。
ここにも「怨念」という誤解を招きそうだが、絶対に書いておくぞ、という執念のようなものを感じる。
今回の粒来の詩集のことばは、「迫力」が違う。いままでの詩集で私が感じ取れずにきただけなのかもしれないが。
粒来哲蔵詩集 (現代詩文庫 第 1期72) | |
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。