竹内新『果実集』(思潮社、2014年10月05日)
竹内新『果実集』を読みながら、私は思わず首をかしげてしまった。妙な違和感がある。たとえば、「桃源郷」。
どのことばにも「意味」はある。「意味」を書こうとしているのだな、と感じる。「意味」への指向が強すぎて、閉ざされていると感じる。竹内の「頭」のなかでは「意味」が正確に動いているのだろうけれど、その動きは外へ動いてこない。竹内の「頭」のなかだけで完結しようとしている。「氾濫する時間」「絶境の最中」と書かれているが「氾濫」が見えない。「絶境」が見えない。「沈黙」「歓喜」「怠惰」「勤勉」も見えない。あふれてくるものがない。
詩の定義はいろいろあるだろうけれど、私は簡単に言うと「余剰」が詩だと思っている。「過剰」でもいい。ようするに「余分」なもの。
そこまで言わなくていいんじゃない?
と、思わず笑ってしまうことば--それが詩。
「意味」を超えて、「そのひと」を感じることばと言えばいいのだろうか。「意味」を忘れて、「あ、竹内らしい」と思わず感じることば--それが竹内のことばにはない。余分なものが何もない、それが竹内の詩なのだ、簡潔で引き締まったことばの運動が竹内の詩である--そう言えば、そう言えるのだろうけれど、私は竹内については何も知らないので「あ、竹内らしい」とは感じることができなかった。
でも……。
何かを語る(書く)というのは、もうそれ自体で「余剰(余分/過剰)」なことであるはずなのに、どうして「余剰」を感じないのだろう。
「氾濫」「絶境」「沈黙」「歓喜」「怠惰」「勤勉」「威嚇」「防禦」「保障」「距離」……あ、漢字熟語ばかりだねえ。これは私の「感覚の意見」なのだが、漢字熟語は「意味」を閉じ込めている。「意味」を結晶化させている。竹内がつかっていることばでいえば「意味」を「果実」にしている。
「果実」だから、それはときとして、熟して腐るということもありそうなのだが、竹内の果実はそうなる前の、もっと「意味」の固まり(凝縮)していく過程のようなものである。実りへ向かって大きく育っていくときの、その内部で動いている秩序のような果実であって、それは--なんというか、まだ食べるには早すぎるという印象が強い。
「果実」も熟れると揺らぎが生まれる。甘いはずなのに、ちょっと毒を感じさせるぴりぴりした酸っぱさがあったりする。これ、食べても大丈夫?という不安を誘うようなものがあったりするのだが、そういう「過剰/熟れすぎ」というようなことは竹内の「果実」の場合は、どこにも見当たらない。
それだけ「清潔」ではあるのだけれど、この揺らぎ(不安を引き起こす何か)がないために、うーん、食べられない。いや、食べられることを拒んでいる、成長過程の「果実」なんだなあ、と思ってしまう。
熟して食べられて、「まずい」といわれるのはいやだなあ、という思いがまだつまっている。
ことば(詩、文学)というのは、「誤読」されるためにある。食べられて、「これは甘みが足りない」「しゃきっとした酸っぱさがない」「えぐみがなくて、芯を感じるない。子ども向けだ」と好き放題にけなされるのが文学というものだろう。
竹内のことばは、そういう読者の「好き放題」を拒絶して、竹内の「頭」のなかだけで完結をめざしている。そして実際完結している、という印象がある。
どこれこれも、「漢字熟語」が引き起こしていることのように思える。もっと手足でつかみ取った「熟語以前」のことばで書くと、印象は違ってくるのではないか。
「耳そのものになった」というのはとてもおもしろい。この詩集の中でいちばんおもしろい行だ。--それなのに、それを「沈黙体験」という奇妙な熟語がぶっこわしている。「沈黙」は仕方ない(?)かもしれないが、「体験」はつまらないねえ。「体験」では手も足も動かない。「耳」は、どう動いたの? 耳は何をしたの? 耳を澄ました? 耳をふさいだ? あるいは耳でかじった? なめた? においをかいだ? 触れた? うずくまった?
「体験」を「動詞」として言いなおすとき、たぶん、そこから余剰が生まれる。「果実」を突き破って動くものがはじまるように思う。
私は、そういう「余剰」を読むのが好きだ。「余剰」を「誤読」していくのが好きだ。好き勝手ができない竹内の詩は窮屈だ。
「意味」はとてもよくわかる。「描写」のなかに「目」で見たものが見える。でも、それはほんとうに「目」で見たものなのか。たとえば「全身」。これは「目」で見るというよりも「頭」で整理したことば。花梨の「全身」なんて、ふつうに言う? 「異臭」も変だなあ、と私は思う。「異臭」では、なんのことかわからない。ガスの吐き気をもよおす匂いとうんこが腐ってあまくなったような匂い、匂い感じる前につんつん鼻の奥を突き刺されて苦しくなる感じ--では、まったく違う。異臭に触れて、竹内の「肉体(どの器官)」がどう動いたかがわからないと、「竹内のことば」を読んでいる気がしない。竹内の「肉体」が見えてこない。ことばは肉体なのに、竹内はことばを「頭」に整理して、整理することが詩だと思っているようだ。
私が思わず首をかしげてしまったのは、詩集から竹内の「肉体」が感じられなかったからだ。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
竹内新『果実集』を読みながら、私は思わず首をかしげてしまった。妙な違和感がある。たとえば、「桃源郷」。
百回目でやっと
林は途切れて水源になる
夢が導いていったのは沈黙の山
氾濫する時間が
絶境の最中に流れて
明るく熟しているところ
数百年危うく保たれている光の果実
悲しみと憂いに包まれた
小さく静かな歓喜
怠惰に隣り合う
ささやかな勤勉
威嚇と防禦が箱庭に埋葬されて
百年保障の穏やかな日常
そこでは鶏と犬の声で
生活の距離を計っている
どのことばにも「意味」はある。「意味」を書こうとしているのだな、と感じる。「意味」への指向が強すぎて、閉ざされていると感じる。竹内の「頭」のなかでは「意味」が正確に動いているのだろうけれど、その動きは外へ動いてこない。竹内の「頭」のなかだけで完結しようとしている。「氾濫する時間」「絶境の最中」と書かれているが「氾濫」が見えない。「絶境」が見えない。「沈黙」「歓喜」「怠惰」「勤勉」も見えない。あふれてくるものがない。
詩の定義はいろいろあるだろうけれど、私は簡単に言うと「余剰」が詩だと思っている。「過剰」でもいい。ようするに「余分」なもの。
そこまで言わなくていいんじゃない?
と、思わず笑ってしまうことば--それが詩。
「意味」を超えて、「そのひと」を感じることばと言えばいいのだろうか。「意味」を忘れて、「あ、竹内らしい」と思わず感じることば--それが竹内のことばにはない。余分なものが何もない、それが竹内の詩なのだ、簡潔で引き締まったことばの運動が竹内の詩である--そう言えば、そう言えるのだろうけれど、私は竹内については何も知らないので「あ、竹内らしい」とは感じることができなかった。
でも……。
何かを語る(書く)というのは、もうそれ自体で「余剰(余分/過剰)」なことであるはずなのに、どうして「余剰」を感じないのだろう。
「氾濫」「絶境」「沈黙」「歓喜」「怠惰」「勤勉」「威嚇」「防禦」「保障」「距離」……あ、漢字熟語ばかりだねえ。これは私の「感覚の意見」なのだが、漢字熟語は「意味」を閉じ込めている。「意味」を結晶化させている。竹内がつかっていることばでいえば「意味」を「果実」にしている。
「果実」だから、それはときとして、熟して腐るということもありそうなのだが、竹内の果実はそうなる前の、もっと「意味」の固まり(凝縮)していく過程のようなものである。実りへ向かって大きく育っていくときの、その内部で動いている秩序のような果実であって、それは--なんというか、まだ食べるには早すぎるという印象が強い。
「果実」も熟れると揺らぎが生まれる。甘いはずなのに、ちょっと毒を感じさせるぴりぴりした酸っぱさがあったりする。これ、食べても大丈夫?という不安を誘うようなものがあったりするのだが、そういう「過剰/熟れすぎ」というようなことは竹内の「果実」の場合は、どこにも見当たらない。
それだけ「清潔」ではあるのだけれど、この揺らぎ(不安を引き起こす何か)がないために、うーん、食べられない。いや、食べられることを拒んでいる、成長過程の「果実」なんだなあ、と思ってしまう。
熟して食べられて、「まずい」といわれるのはいやだなあ、という思いがまだつまっている。
ことば(詩、文学)というのは、「誤読」されるためにある。食べられて、「これは甘みが足りない」「しゃきっとした酸っぱさがない」「えぐみがなくて、芯を感じるない。子ども向けだ」と好き放題にけなされるのが文学というものだろう。
竹内のことばは、そういう読者の「好き放題」を拒絶して、竹内の「頭」のなかだけで完結をめざしている。そして実際完結している、という印象がある。
どこれこれも、「漢字熟語」が引き起こしていることのように思える。もっと手足でつかみ取った「熟語以前」のことばで書くと、印象は違ってくるのではないか。
それは
果実に残された
沈黙体験の一つ
耳そのものになった干し柿に
芭蕉も子規もかなわない (「干し柿」)
「耳そのものになった」というのはとてもおもしろい。この詩集の中でいちばんおもしろい行だ。--それなのに、それを「沈黙体験」という奇妙な熟語がぶっこわしている。「沈黙」は仕方ない(?)かもしれないが、「体験」はつまらないねえ。「体験」では手も足も動かない。「耳」は、どう動いたの? 耳は何をしたの? 耳を澄ました? 耳をふさいだ? あるいは耳でかじった? なめた? においをかいだ? 触れた? うずくまった?
「体験」を「動詞」として言いなおすとき、たぶん、そこから余剰が生まれる。「果実」を突き破って動くものがはじまるように思う。
私は、そういう「余剰」を読むのが好きだ。「余剰」を「誤読」していくのが好きだ。好き勝手ができない竹内の詩は窮屈だ。
北風に落下し
春風の中で全身を茶色に
香りを異臭に変えて
時間に抗ううちに黒ずみ
硬直したまま
土の中へ腐朽してゆく (「花梨」)
「意味」はとてもよくわかる。「描写」のなかに「目」で見たものが見える。でも、それはほんとうに「目」で見たものなのか。たとえば「全身」。これは「目」で見るというよりも「頭」で整理したことば。花梨の「全身」なんて、ふつうに言う? 「異臭」も変だなあ、と私は思う。「異臭」では、なんのことかわからない。ガスの吐き気をもよおす匂いとうんこが腐ってあまくなったような匂い、匂い感じる前につんつん鼻の奥を突き刺されて苦しくなる感じ--では、まったく違う。異臭に触れて、竹内の「肉体(どの器官)」がどう動いたかがわからないと、「竹内のことば」を読んでいる気がしない。竹内の「肉体」が見えてこない。ことばは肉体なのに、竹内はことばを「頭」に整理して、整理することが詩だと思っているようだ。
私が思わず首をかしげてしまったのは、詩集から竹内の「肉体」が感じられなかったからだ。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。