粒来哲蔵『侮蔑の時代』(20)(花神社、2014年08月10日発行)
「乳の川・乳の海」を読むと、どうしても「水子」ということばが浮かんでくる。こどもを抱いて育てることのかなわなかった女の姿を思い浮かべてしまう。あるいは出産はしたが、何らかの事情でこどもを亡くしてしまった女の姿を思い浮かべる。
妊娠した(出産した)証が、乳房に残っている。肉体は、「現実」にはすぐには追いつけない。乳を飲むこどもがいないのなら乳はいらない。乳房の中の乳はいらない。けれど、「現実」がそうであったとしても、乳房(乳)は、それが必要とされるということを「覚えている」。それは個人的な「覚え」なのか、女の「覚え」なのか、自然の「覚え」なのか、よくわからないが、きっと区別はできない。そして「肉体」で「覚えている」ことというのは、忘れることができない。ついつい(?)、覚えていることにしたがって動いてしまう。
そして、その覚えていることが、「現実」を「違うもの」にかえていく。現実が肉体に変更を迫る前に(時間の経過が女の乳房から張りを奪い、乳を奪い去る前に)、女の肉体が現実に、こんなふうに変わってしまえ、と迫る。そして、それを「女の現実」に変えてしまうのだ。自分の欲している現実はこれだと現実に要求をつきつける。
たとえば、ほとばしった乳が地面にこぼれる。そのとき、その地面はほんとうに「砂」であったかもしれないが、こぼれた乳によって「砂」であることが、より強く見えてくる。一瞬、乳は流れるが、砂に消えてしまう。女の現実を、まるで存在しないかのように消してしまう「砂」。
これがアスファルトだったら、こういう具合にはいかない。
女の無念さが「砂」を欲望する。砂によって女の「無念」が浮かび上がる、より鮮明になることを必要とするのだ。
女は乳をほとばしらせ、地面にこぼしたくはない。けれど、もし、こぼすとするならば、それは一時はささやかな流れとなって流れるが、その流れを吸い取ってしまう「砂」の上でなければならない。そうでなければ、女の肉体が覚えている無念のようなものを伝えられない。
「覚えていること/覚えているもの」は、使うことができる。使える。そして、それを使うというのは、現実を「使う(動かす)」ということであり、乳をこぼす女は、いま「大地」を「砂」に動かして使っているのである。
ひとりの女が、そんなふうに「大地」の「現実」を「砂」にかえる。それを見て、別な女たちが集まってくる。集まって、乳をこぼす。そうすると、砂に吸い込まれて消えたはずの乳が、乳を吸い込んでしまったはずの砂の現実が、また変わっていく。
女たちは「現実」をそんなふうに変えてしまう。乳は流れ、海にまでたどりつかなければならない。海にたどりついたら、沈んでいる漁船の舳にぶつからなければならない。その漁船は、女の男がのっていた船かもしれない。男は赤ん坊の父親だったかもしれない。そういう男の記憶に触れて、それからいくつもの細い流れになって、海の中へ広がっていかなければならない。
この現実は、女にとっては「必然」である。その「必然」の欲望にしたがって、現実の海は姿を変える。それが女には「見える」。女の「肉体」はその「見える」を「覚えている」。「覚えている」から、「見える」ように動かすのである。ほとばしる乳をつかって。女がいま自在に使える「肉体」である乳を使って、現実を動かしていく。
これが自分の欲している現実だとうめく。
この強い本能(肉体が覚えている真実)が「現実」をさらに変えていく。
これは女の「肉体」が「覚えている」ことだ。こどもが乳を求めている。その「桃色の小さな爪」。「水子」の場合、その爪を女が見ることはないかもしれない。見なくても「肉体」は「覚えている」。「水子」は実際には女の乳を求めるという「現実」を生きなかった。けれど、女の「肉体」は「覚えている」。「覚えている」から、いま、そこに「ある」ものとして「ことば」つかって、「現実」にする。
「赤子」が「どこの誰のでもない、それでいてどこの誰のでもある」とき、女もまた「誰でもなく、同時に誰でもある。乳をこどもにのませる、こどもが乳を飲むのを見る「女」になっている。それは「肉体」が「覚えている」女である。実際に、乳を飲ませたこととがなくても、妊娠したときから「肉体」が「覚えている」女の生き方であり、こどもとの関係である。
「覚えている」からこそ、現実をその「覚えている」ことへ向けて作り替えるのだ。作り替えるしか、生きる実感が持てない。
乳は最初からあまっていて、ほとばしり出たのではない。赤子もを思うとき、乳房がみなぎり、乳がほとばしり出たのだ。そして、それが赤子呼び出し、赤子に乳をのませ、そのことがさらに女の乳房の力をみなぎらせる。
女と赤子の、切断不能のつながりが、本能のように動く。本能が現実を変えていく。本能が変えていく現実をことばで追うとき、そこに詩が生まれる。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
「乳の川・乳の海」を読むと、どうしても「水子」ということばが浮かんでくる。こどもを抱いて育てることのかなわなかった女の姿を思い浮かべてしまう。あるいは出産はしたが、何らかの事情でこどもを亡くしてしまった女の姿を思い浮かべる。
女は張った乳房を押さえていたが、いくら押さえても乳は洩れか
かっていた。女は怺え切れず乳首を圧す手を放したから、乳は奔る
ようにして砂に吹きこぼれた。こぼれた乳はすぐには砂に吸われず、
幾分かはささやかな流れとなって一時は砂を割ったがやがて消えた。
妊娠した(出産した)証が、乳房に残っている。肉体は、「現実」にはすぐには追いつけない。乳を飲むこどもがいないのなら乳はいらない。乳房の中の乳はいらない。けれど、「現実」がそうであったとしても、乳房(乳)は、それが必要とされるということを「覚えている」。それは個人的な「覚え」なのか、女の「覚え」なのか、自然の「覚え」なのか、よくわからないが、きっと区別はできない。そして「肉体」で「覚えている」ことというのは、忘れることができない。ついつい(?)、覚えていることにしたがって動いてしまう。
そして、その覚えていることが、「現実」を「違うもの」にかえていく。現実が肉体に変更を迫る前に(時間の経過が女の乳房から張りを奪い、乳を奪い去る前に)、女の肉体が現実に、こんなふうに変わってしまえ、と迫る。そして、それを「女の現実」に変えてしまうのだ。自分の欲している現実はこれだと現実に要求をつきつける。
たとえば、ほとばしった乳が地面にこぼれる。そのとき、その地面はほんとうに「砂」であったかもしれないが、こぼれた乳によって「砂」であることが、より強く見えてくる。一瞬、乳は流れるが、砂に消えてしまう。女の現実を、まるで存在しないかのように消してしまう「砂」。
これがアスファルトだったら、こういう具合にはいかない。
女の無念さが「砂」を欲望する。砂によって女の「無念」が浮かび上がる、より鮮明になることを必要とするのだ。
女は乳をほとばしらせ、地面にこぼしたくはない。けれど、もし、こぼすとするならば、それは一時はささやかな流れとなって流れるが、その流れを吸い取ってしまう「砂」の上でなければならない。そうでなければ、女の肉体が覚えている無念のようなものを伝えられない。
「覚えていること/覚えているもの」は、使うことができる。使える。そして、それを使うというのは、現実を「使う(動かす)」ということであり、乳をこぼす女は、いま「大地」を「砂」に動かして使っているのである。
ひとりの女が、そんなふうに「大地」の「現実」を「砂」にかえる。それを見て、別な女たちが集まってくる。集まって、乳をこぼす。そうすると、砂に吸い込まれて消えたはずの乳が、乳を吸い込んでしまったはずの砂の現実が、また変わっていく。
砂上の乳はやがて細い流れとなり、砂を割って海に入った。乳の
流れは浜辺に沈んだ漁船の舳に当って少し淀んでから細流となり、
浜潮を白く濁してから拡散していった。
女たちは「現実」をそんなふうに変えてしまう。乳は流れ、海にまでたどりつかなければならない。海にたどりついたら、沈んでいる漁船の舳にぶつからなければならない。その漁船は、女の男がのっていた船かもしれない。男は赤ん坊の父親だったかもしれない。そういう男の記憶に触れて、それからいくつもの細い流れになって、海の中へ広がっていかなければならない。
この現実は、女にとっては「必然」である。その「必然」の欲望にしたがって、現実の海は姿を変える。それが女には「見える」。女の「肉体」はその「見える」を「覚えている」。「覚えている」から、「見える」ように動かすのである。ほとばしる乳をつかって。女がいま自在に使える「肉体」である乳を使って、現実を動かしていく。
これが自分の欲している現実だとうめく。
この強い本能(肉体が覚えている真実)が「現実」をさらに変えていく。
砂浜の上を夕雲の翳が行き来し始めた。女達の集合体は霞んでも
う見えにくくなっていたが、それでも乳の川は更に流れて沖にまで
達していた。乳の川の白い流れは拡散して海に入り、そのあえかな
甘い香りが波頭を包んでいた。--と、海の底から一本のか細い手
が伸びて乳に触れた。すると後から後からわれもわれもという恰好
で桃色の小さな爪をつけた数本の指が、手が、乳の流れを手繰り寄
せた。
これは女の「肉体」が「覚えている」ことだ。こどもが乳を求めている。その「桃色の小さな爪」。「水子」の場合、その爪を女が見ることはないかもしれない。見なくても「肉体」は「覚えている」。「水子」は実際には女の乳を求めるという「現実」を生きなかった。けれど、女の「肉体」は「覚えている」。「覚えている」から、いま、そこに「ある」ものとして「ことば」つかって、「現実」にする。
--赤子達だった。どこの誰のでもない、それでいてどこの
誰のでもある赤子の手が、乳の水を掬い始めた。唇をすぽめて吸い
取る者、手に受けてまず鼻をつけ唇をつけ、ぴしゃぴしゃと己れが
頬をうつ者など様々だった。あまたの赤子が一斉に唇をとがらせて
乳を吸った。
「赤子」が「どこの誰のでもない、それでいてどこの誰のでもある」とき、女もまた「誰でもなく、同時に誰でもある。乳をこどもにのませる、こどもが乳を飲むのを見る「女」になっている。それは「肉体」が「覚えている」女である。実際に、乳を飲ませたこととがなくても、妊娠したときから「肉体」が「覚えている」女の生き方であり、こどもとの関係である。
「覚えている」からこそ、現実をその「覚えている」ことへ向けて作り替えるのだ。作り替えるしか、生きる実感が持てない。
もはや失われた記憶の中では再生不可能と見えた女達
の乳房は、赤子の口から洩れた甘美なため息の靄に包まれて甦りつ
つあった。砂上の女達はその声を聞いていた。そして微笑みながら
小さく吾が子の名を呼んだ。
乳は最初からあまっていて、ほとばしり出たのではない。赤子もを思うとき、乳房がみなぎり、乳がほとばしり出たのだ。そして、それが赤子呼び出し、赤子に乳をのませ、そのことがさらに女の乳房の力をみなぎらせる。
女と赤子の、切断不能のつながりが、本能のように動く。本能が現実を変えていく。本能が変えていく現実をことばで追うとき、そこに詩が生まれる。
蛾を吐く―詩集 | |
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