詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵『侮蔑の時代』(14)

2014-10-06 11:26:54 | 詩集
粒来哲蔵『侮蔑の時代』(14)(花神社、2014年08月10日発行)

 「裸身」は都会から疎開してきた子供をいじめる、ということが書いてある。気に食わない。「女の子の前で奴を裸にすること。そして皆ではやしたてること」を考え、それを実行に移すのだが。

  奴の裸身が日に光った--と奴はとっさに水に跳び込んだ。奴
の光る裸身は水を切った。
 奴は頭をもたげ体をくねらせ両手で水を掻き切った。波紋が浮か
び、奴の美しい脚にけられて水は左右に裂けて流れた。おれ達はこ
の時奴の裸身に蛇体を見た。それは皮を剥がれて水に捨てられた縞
蛇が脂を滴らせたまま水を裂いて泳ぐ姿そのものだった。奴の裸身
は水を掻き切って対岸に着きそのまま藪に消えた。おれ達の中に声
を出す者はいなかった。

 見下していたもののなかに、自分たちにはない力を感じる。「おれ達」はだれひとりとしてクロールができない。けれど「奴」はクロールで池を泳いで渡る。その能力に「おれ達」は驚く。このとき「能力」とは「肉体」そのものである。しかも、その「肉体」というのは裸の、むき出しの「肉体」である。
 蛇をつかまえ、皮を剥ぐ。そういう乱暴をしたあと蛇を水に放り込む。蛇は死なずに泳いでいく。そのときの「裸の力」。生きていく力。
 死ねない力かもしれない。
 生きているものは、なかなか死なない。死ねないのである。死なないということよりも、死ねないということに、畏怖する。--こういうことは、生き物をいたぶるということをした人間ならだれでも感じることかもしれないが、その「死ねない」ものが、ふと美しく見える。
 「死ねない」は、見たくはなかった。見てしまった。そのときから、ひとは「死ねない」に魅せられてしまう。「死ねない」を、どうことばにしていいかわからないからだ。起きていることが、想像を超えている。想像できない美しさが、そこにある。絶対の美。

 それから以後何時の間にかおれ達は奴の輩下になっていたが、そ
れは少しもおかしくはなかった。隣町の奴らと喧嘩をする時は、お
れ達は前々からの股肱の臣みたいな顔で奴の後ろに坐っていた。奴
の右手があがればおれ達は拳をにぎり喊声をあげ、敵陣に突っ込ん
だ。その時髪を逆立ててまっ先に敵将とわたり合う奴の後ろ姿に、
おれ達は見た。--あの日くねくねと光る尻を見せながら湖水を裂
いて泳いだ美しい裸身を--。

 敗北の愉悦のようなものも、ここにはある。
 ひとはいつでも「裸身」にこそ敗北する。無防備でも「死なない」のではなく、無防備ゆえに「死ねない」ものに敗北し、敗北することが「死ねない力」を共有するような、酔ったような感覚。

 粒来は、この詩集で無惨に死んで行くものを何回か描いている。そして、その無惨に死んで行くもののかたわらで、死んでいったものの「怨念」のようなものを引き継いで生きるいのちを書いている。
 その引き継いだものは「死にながら/死ねない何か(力)」であると思う。なぜ「死ねない」のか。そう考える時、また「怨念」ということばが、ふと思い浮かぶ。
 だが、「怨念」ということばは、この「裸身」に書かれていることとは少し違う。少し違って、少し通い合う。通い合うように感じるのは、そこに「蛇」が出てくるからである。「蛇」は事実であると同時に、「比喩」にもなっている。蛇のしぶとさ、しつこさは「事実」であると同時に、「頭」ではなく、もっと違った「肉体」のどこかに働きかけてくるものがある。「比喩」と意識しないで、そのまま「事実」へ吸い込まれていくような、狂った感覚のようなものがある。
 この詩にもし「蛇」が登場していなかったら、この詩は、印象が弱くなる。
 蛇をいたぶって、皮を剥いで、水に放り込む。蛇が逃げていく。そのとき、一瞬、ぞっとするようなものが「肉体」に流れる。裸身でクロールで逃げる「奴」を見た時、そこにはぞっとするような感覚ではなく、美しいという感じがあふれる。「くねくねと光る尻」のその美しさ。蛇が人間にかわると、「ぞっとする感じ」が「まぶしい愉悦」にかわる。そして、そのとき蛇も「美しい」ものにかわる。
 この変化を何と呼んでいいのかわからないが、この詩は、そのことを書いている。

粒来哲蔵詩集 (現代詩文庫 第 1期72)
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話のいちばん華やかなところで彼は

2014-10-06 01:15:32 | 
話のいちばん華やかなところで彼は

話のいちばん華やかなところで彼は
私ではなく別な男の名前を出した。
一瞬、私は顔が硬くなるのを感じた。
窓を背にして座っているので私の顔は暗くなり、
反作用のように目が光ったかもしれない。
見られただろうか。
視線の縁だけ動かして彼を見ると
目をそらした。見てはいけないものを見たように、

見られてしまったのだ。
わかってしまうと、私は大胆になった。
平気になった。
逃げる視線を追った。
かれは、もう二度と視線がぶつかるようなことはしない。

名前を出した男の笑い種にしようと舌を動かすが、
声がうわずっている。
状況がいりくんだことろで、同じことばを二度言った。
唇の端に唾の泡がたまりはじめている。
テーブルの周りではむやみに手を動かす人がいた。
コップを上げたり、下げたりしている。
話のいちばん華やかなところだ、
声を出さずに、私に向かって口を動かしている。


*



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鍋山ふみえ「葉月」、陶山エリ「葬列」

2014-10-06 00:14:10 | 現代詩講座
鍋山ふみえ「葉月」、陶山エリ「葬列」(現代詩講座@リードカフェ、2014年10月01日)
 2篇の作品が話題になった。鍋山ふみえ「葉月」は陶山エリの作品から刺戟を受けて書いたもの。陶山のことばの動きが「生理的」なので、それを真似てみた。けれど、「知的」になった、とは本人のことば。

葉月 鍋山ふみえ
                        
一、月酔い   

伸びていく伸びていく草叢のたけ高い草の背にのってひろがる稲田のかがやきを目指して下方にするするするすべる滑り台舌からのぼる伸びていくのびていく夢の背丈は伸びる膝を折ってのばしている

球体のそとがわを走る曲がるカーブするしないななめになんどめか納戸に籠って抜けだしてゆく傾斜面にのびる水滴風船を横たえてよこたてに立てたり置いたりんりんりんどうの鈴虫が鳴くちょうじゅうちゅうぎょ今しがた夜が明ける

はしる走るはしばしからきこえる虫の声肥えた虫はいないいないいないばあ店の独り者の秋の夕暮れ苫屋こそ影を慕いて陰に走る影を踏んで狗の足音ここまで追って来た置いて来たきたきた着たきり雀きりぎりすそれっきり北

  二、月地図 

けやきが枝をひろげ多数垂れている葉垂れて影を落とす道のはばひろい道行このままママになるならいま一度広げて通る影と日向の満ちたみちからからの空が見えるとおる通りのさきざきにはギザギザはが落ちている

歩きながら脱け出ていくぬけでていくぬけがらに出くわす蝉しみじみとゼミの帰り道跨いで歩くかなたまで駅を発っていくタチアオイたつままに此方には来ないとかなたから届く独居ひとのいちにち

 受講生の感想は、

<受講生1>ことばが重なっていて、頭のいい人の書く詩だなあ、と思った。
      「葉月」は「八月」。とても好き。
<受講生2>ことばが動いていくように見えて止まっている。
      すんなり入ってくるところと、止まって読み返さないと入ってこないところ
      がある。
      人をはぐらかしている。
      「タイトル」がいい。こんないいタイトルはつけられない。
<受講生3>陶山さんの詩と違って、ことばが知的に尻取りみたいに書いてある。
      尻取りがきちんと書いてある。
      お経みたいなことば(ちょうじゅうちゅうぎょ)など途中途中がとてもおも
      しろい。
<受講生4>タイトルがいい。いちばん最後の連が素敵。

 「音」についておもしろいという意見がでたので、どの部分の「音」がいちばん好きか聞いてみた。

<受講生1>カーブするしないななめになんどめか納戸に籠って
<受講生2>追って来た置いて来たきたきた着たきり雀きりぎりすそれっきり北
      最後の「北」がおもしろい。
<受講生3>通りのさきざきにはギザギザはが落ちている
<受講生4>最後の連。

 私も「カーブするしないななめになんどめか納戸に籠って」が好きなのだが、なぜそこがおもしろいかというと意味の違うことばがぶつかっていること(なんどめ、納戸)、「な」の繰り返しのなかに「め」が割り込んできて(ななめ、なんどめ)、音にゆらぎ(揺れ)がある。そして、その揺れ「な行」「ま行」と隣接しているので、ほかの音の繰り返しよりも微妙に感じる。声の「音楽」を感じる。声に出したくなる美しさがある。
 受講生のひとりが指摘している「北」を含む部分も好きだ。これは受講生の指摘する通りに、最後の「北」が意表をつていて、刺激的だ。「来た」「着た」は動詞。「きり」はいくつかに分類できるが「切り」という動詞を感じさせる。それに対して「北」は動詞とは無縁の名詞であるところが刺激的なのだと思う。
 「さきざきにはギザギザはが」は音の変化が「は」のアクセントをのぞくと、とてもわかりやすい。「はが落ちている」の「が」は九州では破裂音で読まれるので「が行」も人つながりになっているかもしれない。
 最後の「連」は「かなたまで駅を発っていくタチアオイたつままに此方には来ないとかなたから届く」が贅沢な感じ。「此方」は「こなた」と読む。「彼方」「此方」の意味の対比と類似の音、そしてその音のなかにある共通音「た」が「発つ」「立つ(タチ、アオイ)」と同音意義の動詞のなかでも変化するところがとてもいい。
 「なんどめ」「納戸」のように、「意味」が完全に違ったものがぶつかるとさらにおもしろくなるのだが、「発つ」「来る」「彼方」「此方」という対のことばが「意味」をつくりすぎているかもしれない。人工的な味が強い。
 でも、とてもおもしろい。

 詩を読んでいる過程で、鍋山は「りんりんりんどう」の部分は島倉千代子の歌を思い出して書いたというような説明があった。ひとりが「お経みたい」といった「ちょうじゅうちゅうぎょ」の説明では、ちょっとおもしろいことがあった。
 漢字(意味)を説明しようとして、鍋山がちょっとつっかかってしまった。「鳥」のあと言いよどんだので、私が「鳥・獣・虫・魚」じゃないかな、と補足して、確かめた。私も、黙読したときにはどこでどう区切って読んでいいのかわからなかったが、音を聞いて「鳥・獣・虫・魚」と漢字がひらめいた。そのやりとりのなかで、そうか、鍋山は「音」を「生理的」つかみ取って詩を書くタイプではなく、鍋山自身が言ったように「知的」に音を操作するタイプの詩人なのだろう、と思った知識を書いて、それを音にしていく。音を「肉体」からではなく、知識からひっぱりだすというべきか。。
 「伸びていく」ではじまる一連目は、たまたま受講生も「おもしろい」とは指摘しなかったが、音の繰り返しの練習というか、音を「意味」を主体にして動かしている(知的操作)が目立つからかもしれない。



葬列 陶山エリ

やんごとなき身分のひとの死のやんごとなき舌先がラ行を巻き込まぬよう施すよう袖口も脂身も影も伏し目がちに行進するペンギンの薄暗い街全体が遺影となったあのペンギンの名前を知らない突風に黒い背中をまくられつづいていく葬列についていくまだらのあしあとにまにあうよう

やんごとなき身分のひとが死んだそのひとの行き先を歩幅を知らない最後尾のペンギンについていく岬のいちばん突き出した部分から薄墨いろを滲み出させているまだ哀しみは若いだろうとやんごとなき身分のひとの角質は哀しみとは無関係に剥がれかけからかいたいのかかかわりたいのかかみあわないまま岬の一部となりかけている黒い背中に触れぬよう肺を膨らみを真似るようあのペンギンの名前を知らない

肺のやんごとなき和音に耐えるふぇるまーたのふかみどりに沈みゆく葬列をふりかえる突風やんごとなき連なりについていくやんごとなき鎖骨へ降りそそぐ脂粉に気づかれぬようやんごとなき巻き爪をらせんをのぞくようついていく黒いらせんめがけまき散らす盛大にペンギンせなかしふんあぶらみあんじょうすいこまれていきなはれ

 受講生の第一印象(感想)。(受講生1、2……は、鍋山の詩の感想の1、2と同一人物ではありません。単なる発言順)

<受講生1>いやなタイトル。「あんじょう……いきなはれ」が気になる。
<受講生2>「いきなはれ」がおもしろいけれど、気になる。
<受講生3>何回か読み返さないとついていけない。イメージ、意味がつかめない。
      古典をめざしているのかな? 古典には句読点がない。
      考えながら読まないといけない。
<受講生1>ペンギンの行列を葬列と言っていると思うが、それだけを書いた方がいいの
      では。
<受講生4>陶山さんがことばの風呂敷を広げると、そこからなんでも出てくるようでお
      もしろい。

 音はどこがおもしろいだろうか。

<受講生1>ふぇるまーたのふかみどりに沈みゆく葬列をふりかえる
<受講生2>あんじょうすいこまれていきなはれ
<受講生3>ふぇるまーたのふかみどりに沈みゆく葬列をふりかえる
      「ふ」のつづきがおもしろい。
<受講生4>「やんごとなき」からはじまり、関西弁でおわるところかな。
      せなかしふんあぶらみあんじょうすいこまれていきなはれ
      ことばに勢いがある。
<受講生2>剥がれかけからかいたいのかかかわりたいのかかみあわない
      ここもおもしろい。

 意味がつかめないという感想が最初にでたので、音と意味について聞いてみた。あることばをおもしろいと感じるとき、「意味」は考えるのだろうか。

<受講生1>意味は考えない。
<受講生2>意味は考えないが、イメージは思い浮かべる。
陶山    好きに読んで、という感じ。

 詩の読み方はいろいろある。
 「意味」は重要な要素かもしれないけれど、私は「意味」をあまり考えない。何かわからないけれど、そこに音があって、その音にひかれて読みはじめる。意味はあとから考える。(意味はいつでも捏造できると考えている。)
 この詩の場合、ペンギンが登場する。葬列ということばが行列を思い起こさせる。ペンギンが並んで歩いている姿をなんとなく思い浮かべる。ペンギンの行列に何か意味があるかどうかはわからないけれど、それは考えない。
 (陶山はテレビで見たコマーシャルが詩を書くきっかけになったという。)
 意味よりも、そのペンギンの行列というイメージをひっかきまわしていくペンギンの行列とは無関係な何かの噴出、噴出してくるときの音がおもしろい。ペンギンのイメージを破っていく瞬間が楽しい。
 1連目の「遺影」や「黒い背中」は「葬列」そのものかもしれない。「袖口」や「伏目がちの行進」は黒い喪服の袖口、ずらりと並んだ喪服の列、葬列そのものだけれど、2連目の「角質」ということばがとてもおもしろい。「哀しい」と音が重なり合うのだけれど、「哀しみ」とは無関係だ。(無関係ということばも出で来るが……。)私は、踵の「角質」を思い出し、愉快な気分になる。踵の角質が、剥がれていく。向けていく。ペンギンの足にも角質があるだろうか。人の後ろをうつむき加減で歩いていると、前の人の踵が見えるものだが葬列のペンギンも、前のペンギンの踵の角質を見るだろうか。どうでもいいのだが、人間の肉体が感じるものが、そこにふいに紛れ込んできて、その瞬間に何かがわかったと錯覚する。ペンギンだって、葬列のときはうつむく。前のペンギンの踵を見る、角質に気づく……と思ってしまう。あの葬列のとき、私はペンギンだったか、と思ったりもする。
 ほかにもいろいろな肉体が出で来るが、3連目の「巻き爪」が印象に残る。「角質」のように、「正しいものじゃない」何かが、「間違っている」何かが、ふいに侵入してくる。
 それは「葬列」にふさわしいとは言えない。異質。そこにあることば全体を異化することばだ。一種の「笑い」かもしれない。その「笑い」の音楽が、陶山のことばのなかに隠れている。動いている。「笑い」を「意味からの解放」ととらえ直すと、陶山の詩のことばが別な形で見えてくるだろう。「意味からの解放」を「意味の拒絶」ととらえ直し、さらに「意味」を「自己以外のものが自己(陶山)に強いてくる言語形式」と言いなおすこともできる。「意味」を「流通する言語形式」と言いなおすこともできる。そう考えると、陶山の書いている「ことば」は「現代詩」の最前線にいることがわかる。
 でもまあ、こんな面倒くさい「嘘(でっちあげた意味)」はどうでもいい。こんなことは、どうでもいいことだから、「あんじょういきなはれ」で充分なのだ。

 「意味」ではなく、「音」のことに関して話していたとき、私は書き出しの「ラ行」の部分が、ほかの「音」とは違っている気がして、ここはよくないというようなことを言ったのだが、この「ラ行」にはちゃんと「意味」があった。人が死ぬと、舌が巻いてしまうのだという。喉をふさぐ形になるのか。それを防ぐために、死後、舌をひっぱるというようなことも陶山は説明した。そうか、そういう「意味」があったのか。私は、そういうことはまったく想像しなかった。
 また「やんごとなき」の繰り返しも、私は気になった。「やんごとなき」のなかの「音」が散らばるようにして詩の中で別のことばになり、それが「和音」になるとおもしろいと思うが、それは私の音楽観であって、まあ、余分なことではあるな……。

 この日、たまたま「現代詩手帖」編集部の藤井一乃さん(池井昌樹の『冠雪富士』を編集した)がリードカフェに来て、詩の講座に同席した。陶山の作品に対して「いい詩ですね」と感嘆していた。
 詩の「意味」について語り合っていたとき、藤井さんの意見を聞いてみた。「意味というよりも、本気度を読む」ということだった。「本気度」というのは「本気で書きたいと思っているかどうか」ということ、という補足説明があった。「テクニックで書いた詩よりも、本気度が感じられる詩を大切にしている」ということだった。

*

 次回は10月28日(水曜日)16時-18時。「リードカフェ」(福岡市中央区)。問い合わせは、書肆侃侃房、田島安江さん(「書肆侃侃房」で検索してください)か、谷内(panchan@mars.dti.ne.jp)へ。

詩集 アーケード
鍋山ふみえ
梓書院

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