粒来哲蔵『侮蔑の時代』(14)(花神社、2014年08月10日発行)
「裸身」は都会から疎開してきた子供をいじめる、ということが書いてある。気に食わない。「女の子の前で奴を裸にすること。そして皆ではやしたてること」を考え、それを実行に移すのだが。
見下していたもののなかに、自分たちにはない力を感じる。「おれ達」はだれひとりとしてクロールができない。けれど「奴」はクロールで池を泳いで渡る。その能力に「おれ達」は驚く。このとき「能力」とは「肉体」そのものである。しかも、その「肉体」というのは裸の、むき出しの「肉体」である。
蛇をつかまえ、皮を剥ぐ。そういう乱暴をしたあと蛇を水に放り込む。蛇は死なずに泳いでいく。そのときの「裸の力」。生きていく力。
死ねない力かもしれない。
生きているものは、なかなか死なない。死ねないのである。死なないということよりも、死ねないということに、畏怖する。--こういうことは、生き物をいたぶるということをした人間ならだれでも感じることかもしれないが、その「死ねない」ものが、ふと美しく見える。
「死ねない」は、見たくはなかった。見てしまった。そのときから、ひとは「死ねない」に魅せられてしまう。「死ねない」を、どうことばにしていいかわからないからだ。起きていることが、想像を超えている。想像できない美しさが、そこにある。絶対の美。
敗北の愉悦のようなものも、ここにはある。
ひとはいつでも「裸身」にこそ敗北する。無防備でも「死なない」のではなく、無防備ゆえに「死ねない」ものに敗北し、敗北することが「死ねない力」を共有するような、酔ったような感覚。
粒来は、この詩集で無惨に死んで行くものを何回か描いている。そして、その無惨に死んで行くもののかたわらで、死んでいったものの「怨念」のようなものを引き継いで生きるいのちを書いている。
その引き継いだものは「死にながら/死ねない何か(力)」であると思う。なぜ「死ねない」のか。そう考える時、また「怨念」ということばが、ふと思い浮かぶ。
だが、「怨念」ということばは、この「裸身」に書かれていることとは少し違う。少し違って、少し通い合う。通い合うように感じるのは、そこに「蛇」が出てくるからである。「蛇」は事実であると同時に、「比喩」にもなっている。蛇のしぶとさ、しつこさは「事実」であると同時に、「頭」ではなく、もっと違った「肉体」のどこかに働きかけてくるものがある。「比喩」と意識しないで、そのまま「事実」へ吸い込まれていくような、狂った感覚のようなものがある。
この詩にもし「蛇」が登場していなかったら、この詩は、印象が弱くなる。
蛇をいたぶって、皮を剥いで、水に放り込む。蛇が逃げていく。そのとき、一瞬、ぞっとするようなものが「肉体」に流れる。裸身でクロールで逃げる「奴」を見た時、そこにはぞっとするような感覚ではなく、美しいという感じがあふれる。「くねくねと光る尻」のその美しさ。蛇が人間にかわると、「ぞっとする感じ」が「まぶしい愉悦」にかわる。そして、そのとき蛇も「美しい」ものにかわる。
この変化を何と呼んでいいのかわからないが、この詩は、そのことを書いている。
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「裸身」は都会から疎開してきた子供をいじめる、ということが書いてある。気に食わない。「女の子の前で奴を裸にすること。そして皆ではやしたてること」を考え、それを実行に移すのだが。
奴の裸身が日に光った--と奴はとっさに水に跳び込んだ。奴
の光る裸身は水を切った。
奴は頭をもたげ体をくねらせ両手で水を掻き切った。波紋が浮か
び、奴の美しい脚にけられて水は左右に裂けて流れた。おれ達はこ
の時奴の裸身に蛇体を見た。それは皮を剥がれて水に捨てられた縞
蛇が脂を滴らせたまま水を裂いて泳ぐ姿そのものだった。奴の裸身
は水を掻き切って対岸に着きそのまま藪に消えた。おれ達の中に声
を出す者はいなかった。
見下していたもののなかに、自分たちにはない力を感じる。「おれ達」はだれひとりとしてクロールができない。けれど「奴」はクロールで池を泳いで渡る。その能力に「おれ達」は驚く。このとき「能力」とは「肉体」そのものである。しかも、その「肉体」というのは裸の、むき出しの「肉体」である。
蛇をつかまえ、皮を剥ぐ。そういう乱暴をしたあと蛇を水に放り込む。蛇は死なずに泳いでいく。そのときの「裸の力」。生きていく力。
死ねない力かもしれない。
生きているものは、なかなか死なない。死ねないのである。死なないということよりも、死ねないということに、畏怖する。--こういうことは、生き物をいたぶるということをした人間ならだれでも感じることかもしれないが、その「死ねない」ものが、ふと美しく見える。
「死ねない」は、見たくはなかった。見てしまった。そのときから、ひとは「死ねない」に魅せられてしまう。「死ねない」を、どうことばにしていいかわからないからだ。起きていることが、想像を超えている。想像できない美しさが、そこにある。絶対の美。
それから以後何時の間にかおれ達は奴の輩下になっていたが、そ
れは少しもおかしくはなかった。隣町の奴らと喧嘩をする時は、お
れ達は前々からの股肱の臣みたいな顔で奴の後ろに坐っていた。奴
の右手があがればおれ達は拳をにぎり喊声をあげ、敵陣に突っ込ん
だ。その時髪を逆立ててまっ先に敵将とわたり合う奴の後ろ姿に、
おれ達は見た。--あの日くねくねと光る尻を見せながら湖水を裂
いて泳いだ美しい裸身を--。
敗北の愉悦のようなものも、ここにはある。
ひとはいつでも「裸身」にこそ敗北する。無防備でも「死なない」のではなく、無防備ゆえに「死ねない」ものに敗北し、敗北することが「死ねない力」を共有するような、酔ったような感覚。
粒来は、この詩集で無惨に死んで行くものを何回か描いている。そして、その無惨に死んで行くもののかたわらで、死んでいったものの「怨念」のようなものを引き継いで生きるいのちを書いている。
その引き継いだものは「死にながら/死ねない何か(力)」であると思う。なぜ「死ねない」のか。そう考える時、また「怨念」ということばが、ふと思い浮かぶ。
だが、「怨念」ということばは、この「裸身」に書かれていることとは少し違う。少し違って、少し通い合う。通い合うように感じるのは、そこに「蛇」が出てくるからである。「蛇」は事実であると同時に、「比喩」にもなっている。蛇のしぶとさ、しつこさは「事実」であると同時に、「頭」ではなく、もっと違った「肉体」のどこかに働きかけてくるものがある。「比喩」と意識しないで、そのまま「事実」へ吸い込まれていくような、狂った感覚のようなものがある。
この詩にもし「蛇」が登場していなかったら、この詩は、印象が弱くなる。
蛇をいたぶって、皮を剥いで、水に放り込む。蛇が逃げていく。そのとき、一瞬、ぞっとするようなものが「肉体」に流れる。裸身でクロールで逃げる「奴」を見た時、そこにはぞっとするような感覚ではなく、美しいという感じがあふれる。「くねくねと光る尻」のその美しさ。蛇が人間にかわると、「ぞっとする感じ」が「まぶしい愉悦」にかわる。そして、そのとき蛇も「美しい」ものにかわる。
この変化を何と呼んでいいのかわからないが、この詩は、そのことを書いている。
粒来哲蔵詩集 (現代詩文庫 第 1期72) | |
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