粒来哲蔵『侮蔑の時代』(22)(花神社、2014年08月10日発行)
「詩劇 つるんつるん」は「狂言風の一幕劇」というサブタイトルがついている。1972年に紀伊国屋ホールで実際に上演されている。(私は見ていないが。)男が女に会いに行く。(夜這いに行く。)その途中、顔を落としてしまう。そういう男が四人出てくる。ひとつだけ顔が落ちているのを見つけて、それを取り合いになるというストーリーだが、まあ、ストーリーは、どうでもいい。と書くと、粒来に申し訳ないが……。
狂言のおもしろさはストーリーよりも語り口である。わかっていることを、何度でも言う。顔をなくした。顔を探している。顔を奪い合っている……そういうことが四人の間で繰り返しことばになる。
そうすると何が起きるか。
ことばから「意味」が消える。単なる音楽になる。音の響きになる。そして、それが「肉体」として動く。私はこの「狂言」を見たわけではないが、それが目に浮かぶ。私は、ことばを聞いていない。ことばは一回聞けばわかる。何度も同じことを言っているだけだから、「意味」としては聞いていない。
このとき役者の「肉体」の方も、あまり変化はない。同じ動作の繰り返しだろう。けれど、その「肉体の動き」の方は「ことばの意味」とは違って、何度も何度も見ていたい。「ことば」も「意味」は聞きたいとは思わないが(「意味」を考えたいとは思わないが)、その「声」を聞いていたい。「肉体」のなかから出てきて、そこに「ある」声。きっと「肉体」も何度も同じ動きを繰り返すことで「肉体」から出てきて、その舞台の上に「ある」という状態になるのだと思う。
「声」が踊るように、「肉体」も踊る。「舞い」になる。
狂言だから、その動きは能の舞いのように洗練されていない。むしろ洗練から逸脱した「こっけい」がそこにある。それが「笑い」としておもしろいと同時に、能とは違った哲学としておもしろい。洗練されて形になる前の「混沌」がそのまま「形」になっているというおかしさ。
「混沌」とか「無」というのは「形」を持たない。「形」以前のものだが、それは観念で(頭で)考えるから形「以前」になるのであって、「形以前」というものなどほんとうはない。「未生の精神」というようなものもない。どんなものも「形(肉体)」をもっている。「肉体」をもっているからこそ「ある」と言える。「無がある」というのは「矛盾」した表現だが、「無」には「無の形」があり、それは「無の肉体」というものでもある。--と書いていくと、ごちゃごちゃして面倒くさいが。
端折ると。
役者の肉体が舞台の上にあって、それが動いている。落とした顔を探しているという、ありえないようなことも、それを「肉体」で動いて表現してしまえば、そこに「落とした顔を探す」という「こと」が「事実」としてあらわれてしまう。
こんな「事実」は「意味」を考えてはいけない。「顔を落とす」「顔を探す」ということに「比喩」を読み取ってはいけない。「意味」を感じ取ってはいけない。
感じ取らなければならないのは、そういうときも「肉体」があるということ。「肉体」が動けば、そこで「こと」が起きてしまうということ。
それを「意味」にしないために、「音楽」がある。「意味」とは違った「音の形式」がある。(短調/長調を持ち出せば、音楽にも「意味」があるかもしれないが……、それは省略。というか、考えないことにする。私は音痴なので……といいわけをして。)音が繰り返されると、「繰り返された」ということが「わかる」。繰り返しに出会うと、それに誘われて何かを繰り返したくなる。みぶり、てぶり。「肉体」が繰り返せるものを繰り返すように動いてしまう。「無意味」を「無意味」のまま「肉体」が吸収する。「肉体」のなかに「無意味」がたまる。それを解放するとダンス(舞い)になる。--この吸収と解放(放出)が、なんとも楽しい。
それは「不条理」を「肉体」で吸収して、遊んでしまう、ということかもしれない。「意味」とは違ったものにして、「肉体」のなかに覚え込むということかもしれない。そして、それは一種の「肉体の智恵」のようにも思える。わけのわからないこと、それを「頭」のなかにためこんでおくのではなく、声に出して、肉体を動かして、なじませる。「頭」でわけのわからないことがあったとしても、声と肉体でやりすごすという「肉体の工夫」かもしれない。泣いたり、笑ったり、怒ったりというのは、「不条理」に閉じ込められないようにするための「智恵」なのだ。「不条理」を「肉体」の奥にしまい込む「智恵」なのだ。
--と書いてしまうと、うーん、「意味」になってしまって、よくないね。
詩に戻ろう。詩から(書かれていることばから)はじめないといけなかったのだ。ことばを無視して感想を先に書いてしまったために脱線した。
詩には男が四人出てくるが、「一の男」「二の男」と数字で区別されるだけで、どう違うかはわからない。それが同じことを言うのだから、さらにわからない。わからないものを区別してもしようがないので、そのことばだけをだれが話したかを省略して引用する。
ことばが繰り返される。繰り返されると、それがどんなに「不条理」なことであったとしても、いま「繰り返された」ということが「わかる」。「意味」ではなく、何かを「繰り返した」ということが「わかる」。ひとは、「わからない」ことを繰り返すことができる。「繰り返す」ということが、ひとつの「こと」になってしまう。
これは、もしかすると逆かもしれない。
何かが起きる。しかし、それを「繰り返さない」かぎり、それは「こと」にはならない。ひとは無意識に起きた「こと」をことばにして繰り返している。ここでは、その「繰り返し」がひとりの人間の「頭」のなかでおこなわれるのではなく、四人の「肉体(声と動き)」で繰り返される。それを見ていると観客の「肉体」のなかにも、その「繰り返し」が入ってくる。役者が「肉体」で繰り返すことのできることは、観客もまた「肉体」で繰り返すことができる。観客は無意識に役者の動きにあわせて肉体を動かし、役者と一体になってしまう。
このとき大事なことは何か。「繰り返す」ということが「できる」ということ。繰り返せないことを目の前で見せられても困ってしまう。狂言は、能の舞いのように訓練しなくてもできると思える人間っぽい動きで肉体を動かす。(実際には観客はその通りにはできないが。)そして、その「台詞」もまた「繰り返し」が簡単なものでできてている。聞いてすぐわかり、聞いてすぐ真似できることば。繰り返せることば。
「繰り返すこと」でそこにある「こと」をしっかりとつかみ取るのだ。繰り返しによって、「こと」を直に体験するのだ。ことばによる繰り返しは「間接的」体験のように見えるが、実際に「肉体」と「声」を動かせば、その「こと」は自分にとって「直接」として響いてくる。
粒来の詩は散文形式が多く(それしか思い浮かばないが……)、とても粘着力のある論理でことばが動いていると思う。その粘着力というのは、実は、前に書いた「こと(ことば)」を繰り返し書くときに生まれてくる。前に書いたこと(ことば)をしっかりと受け止め、肉体で(つまり、無言で)繰り返す。そのあとで次のことばを動かす--そういう「肉体」がカランだ連続性が粘着力になっている。
この詩を読むと、粒来の粘着力のある論理というのは、何度も「声」として粒来の「肉体」を潜り抜けてきた結果としてそうなっているということが推測できる。粒来の散文詩は私にはとても読みやすく感じられるが、それは粒来のこどが「口語」を踏まえているからだ、ということが、この「狂言詩」からわかる。
口語が生きている散文、口語が呼吸している散文なのだ。肉体で書いている散文詩なのだ。
ここから書きはじめれば、粒来の詩へはまた違った接近の仕方ができるかもしれない。けれど、もう、書き終わってしまった。
でも、少しだけ。巻頭の「前書き」ともなんともしれない「目次」の前に掲げられた「青梅雨」。
ここには「質問」と「答え」が「口語」として書かれている。母と粒来がいて、「声」を出して質問し、「声」を出して答えている。そこには「質問」と「答え」以上に重要なものがある。二人の肉体がいて、そういう「応答」という「こと」が起きる。「こと」は「肉体」を必要としている。そして、その「こと」を粒来はいまことばで繰り返している。ことばで繰り返すと、その繰り返しのなかに、実際にあった「こと」が甦る。
そのときの応答は何かの答えになっているか。--これを問うことはあまり「意味」がない。そのときの答えの「正しさ」を粒来は求めていないし、この詩を読むときの私も求めていない。答えはどうでもいい。質問もどうでもいい。粒来が質問し、母親が答えるという「こと」がすべてである。その美しさは、答えを必要としていない。「意味」を必要としていない。
この口語のやりとりの中で、とてもおもしろいのは、
である。ある答えに納得できずに、さらに質問する。ここに粒来の「粘着質」があらわさているが、その「粘着質」を証明するのが「その」である。母親の答えた「青梅の種子の胚」、「その」種子に粒来はこだわっている。「その青梅」というべきところを「青梅」は省略して「その」と指示代名詞でつながっていくときの「粘着質」。
こういうことばの動きは散文に一般的にあらわれるものかもしれないが、一般的だから粒来の特徴とは言い切れないということにはならないと思う。
さらに、
の重ねてに注意するのもおもしろいかもしれない。「その」という指示代名詞でつなげるとき、粒来はそれを「連続」としてとらえるだけではなく、その「連続」を「かさねて」という重複するものとしてとらえている。
「重複」は「繰り返し」でもあるのだが、そこには「重なり」がある。粒来の「連続」は「延長」ではなく「重なり」という形であらわれる。「重なり」と「重なり」の「間」に、ことばにできなかった「こと」があらわれる。それを「肉体」が繰り返しているということになるのかもしれない。
この詩集は、ここからもう一度読み返してみる必要があるなあ。
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「詩劇 つるんつるん」は「狂言風の一幕劇」というサブタイトルがついている。1972年に紀伊国屋ホールで実際に上演されている。(私は見ていないが。)男が女に会いに行く。(夜這いに行く。)その途中、顔を落としてしまう。そういう男が四人出てくる。ひとつだけ顔が落ちているのを見つけて、それを取り合いになるというストーリーだが、まあ、ストーリーは、どうでもいい。と書くと、粒来に申し訳ないが……。
狂言のおもしろさはストーリーよりも語り口である。わかっていることを、何度でも言う。顔をなくした。顔を探している。顔を奪い合っている……そういうことが四人の間で繰り返しことばになる。
そうすると何が起きるか。
ことばから「意味」が消える。単なる音楽になる。音の響きになる。そして、それが「肉体」として動く。私はこの「狂言」を見たわけではないが、それが目に浮かぶ。私は、ことばを聞いていない。ことばは一回聞けばわかる。何度も同じことを言っているだけだから、「意味」としては聞いていない。
このとき役者の「肉体」の方も、あまり変化はない。同じ動作の繰り返しだろう。けれど、その「肉体の動き」の方は「ことばの意味」とは違って、何度も何度も見ていたい。「ことば」も「意味」は聞きたいとは思わないが(「意味」を考えたいとは思わないが)、その「声」を聞いていたい。「肉体」のなかから出てきて、そこに「ある」声。きっと「肉体」も何度も同じ動きを繰り返すことで「肉体」から出てきて、その舞台の上に「ある」という状態になるのだと思う。
「声」が踊るように、「肉体」も踊る。「舞い」になる。
狂言だから、その動きは能の舞いのように洗練されていない。むしろ洗練から逸脱した「こっけい」がそこにある。それが「笑い」としておもしろいと同時に、能とは違った哲学としておもしろい。洗練されて形になる前の「混沌」がそのまま「形」になっているというおかしさ。
「混沌」とか「無」というのは「形」を持たない。「形」以前のものだが、それは観念で(頭で)考えるから形「以前」になるのであって、「形以前」というものなどほんとうはない。「未生の精神」というようなものもない。どんなものも「形(肉体)」をもっている。「肉体」をもっているからこそ「ある」と言える。「無がある」というのは「矛盾」した表現だが、「無」には「無の形」があり、それは「無の肉体」というものでもある。--と書いていくと、ごちゃごちゃして面倒くさいが。
端折ると。
役者の肉体が舞台の上にあって、それが動いている。落とした顔を探しているという、ありえないようなことも、それを「肉体」で動いて表現してしまえば、そこに「落とした顔を探す」という「こと」が「事実」としてあらわれてしまう。
こんな「事実」は「意味」を考えてはいけない。「顔を落とす」「顔を探す」ということに「比喩」を読み取ってはいけない。「意味」を感じ取ってはいけない。
感じ取らなければならないのは、そういうときも「肉体」があるということ。「肉体」が動けば、そこで「こと」が起きてしまうということ。
それを「意味」にしないために、「音楽」がある。「意味」とは違った「音の形式」がある。(短調/長調を持ち出せば、音楽にも「意味」があるかもしれないが……、それは省略。というか、考えないことにする。私は音痴なので……といいわけをして。)音が繰り返されると、「繰り返された」ということが「わかる」。繰り返しに出会うと、それに誘われて何かを繰り返したくなる。みぶり、てぶり。「肉体」が繰り返せるものを繰り返すように動いてしまう。「無意味」を「無意味」のまま「肉体」が吸収する。「肉体」のなかに「無意味」がたまる。それを解放するとダンス(舞い)になる。--この吸収と解放(放出)が、なんとも楽しい。
それは「不条理」を「肉体」で吸収して、遊んでしまう、ということかもしれない。「意味」とは違ったものにして、「肉体」のなかに覚え込むということかもしれない。そして、それは一種の「肉体の智恵」のようにも思える。わけのわからないこと、それを「頭」のなかにためこんでおくのではなく、声に出して、肉体を動かして、なじませる。「頭」でわけのわからないことがあったとしても、声と肉体でやりすごすという「肉体の工夫」かもしれない。泣いたり、笑ったり、怒ったりというのは、「不条理」に閉じ込められないようにするための「智恵」なのだ。「不条理」を「肉体」の奥にしまい込む「智恵」なのだ。
--と書いてしまうと、うーん、「意味」になってしまって、よくないね。
詩に戻ろう。詩から(書かれていることばから)はじめないといけなかったのだ。ことばを無視して感想を先に書いてしまったために脱線した。
詩には男が四人出てくるが、「一の男」「二の男」と数字で区別されるだけで、どう違うかはわからない。それが同じことを言うのだから、さらにわからない。わからないものを区別してもしようがないので、そのことばだけをだれが話したかを省略して引用する。
おぬしらなにを、まわしよる ああ?
かおじゃ、おらたちのな。
かおじゃと。かおちゅうと おぬしたちの目や鼻のあるか
おのこと、おらたちみてえな耳や口のあるかおのことか。
かおじゃ、おらたちのな。おまえたちのではねえ、いいや
おまえたちのではけっしてねえ、おらたちのだ。
そのかおをどうするとじゃ。まわしてよ、まわして、くり
かえして、どっちがどっちともわからなくなりそうだ。そ
れで、どうするとじゃ。
だからさ、おらたちも、わからなくなりおったのじゃ、ほ
んに。
だからさ、わしたちも わからなくなりおったのじゃ、ほ
んに。
ことばが繰り返される。繰り返されると、それがどんなに「不条理」なことであったとしても、いま「繰り返された」ということが「わかる」。「意味」ではなく、何かを「繰り返した」ということが「わかる」。ひとは、「わからない」ことを繰り返すことができる。「繰り返す」ということが、ひとつの「こと」になってしまう。
これは、もしかすると逆かもしれない。
何かが起きる。しかし、それを「繰り返さない」かぎり、それは「こと」にはならない。ひとは無意識に起きた「こと」をことばにして繰り返している。ここでは、その「繰り返し」がひとりの人間の「頭」のなかでおこなわれるのではなく、四人の「肉体(声と動き)」で繰り返される。それを見ていると観客の「肉体」のなかにも、その「繰り返し」が入ってくる。役者が「肉体」で繰り返すことのできることは、観客もまた「肉体」で繰り返すことができる。観客は無意識に役者の動きにあわせて肉体を動かし、役者と一体になってしまう。
このとき大事なことは何か。「繰り返す」ということが「できる」ということ。繰り返せないことを目の前で見せられても困ってしまう。狂言は、能の舞いのように訓練しなくてもできると思える人間っぽい動きで肉体を動かす。(実際には観客はその通りにはできないが。)そして、その「台詞」もまた「繰り返し」が簡単なものでできてている。聞いてすぐわかり、聞いてすぐ真似できることば。繰り返せることば。
「繰り返すこと」でそこにある「こと」をしっかりとつかみ取るのだ。繰り返しによって、「こと」を直に体験するのだ。ことばによる繰り返しは「間接的」体験のように見えるが、実際に「肉体」と「声」を動かせば、その「こと」は自分にとって「直接」として響いてくる。
粒来の詩は散文形式が多く(それしか思い浮かばないが……)、とても粘着力のある論理でことばが動いていると思う。その粘着力というのは、実は、前に書いた「こと(ことば)」を繰り返し書くときに生まれてくる。前に書いたこと(ことば)をしっかりと受け止め、肉体で(つまり、無言で)繰り返す。そのあとで次のことばを動かす--そういう「肉体」がカランだ連続性が粘着力になっている。
この詩を読むと、粒来の粘着力のある論理というのは、何度も「声」として粒来の「肉体」を潜り抜けてきた結果としてそうなっているということが推測できる。粒来の散文詩は私にはとても読みやすく感じられるが、それは粒来のこどが「口語」を踏まえているからだ、ということが、この「狂言詩」からわかる。
口語が生きている散文、口語が呼吸している散文なのだ。肉体で書いている散文詩なのだ。
ここから書きはじめれば、粒来の詩へはまた違った接近の仕方ができるかもしれない。けれど、もう、書き終わってしまった。
でも、少しだけ。巻頭の「前書き」ともなんともしれない「目次」の前に掲げられた「青梅雨」。
--死の総量ってどのくらい?と私は母に尋ねた。そうね、青梅の
種子の胚ほどよ、--と母は答えた。じゃその胚の重さは?とかさ
ねて問うと、母は少し間を置いてから、子猫の爪ほどよ--と笑っ
て答えた。
ここには「質問」と「答え」が「口語」として書かれている。母と粒来がいて、「声」を出して質問し、「声」を出して答えている。そこには「質問」と「答え」以上に重要なものがある。二人の肉体がいて、そういう「応答」という「こと」が起きる。「こと」は「肉体」を必要としている。そして、その「こと」を粒来はいまことばで繰り返している。ことばで繰り返すと、その繰り返しのなかに、実際にあった「こと」が甦る。
そのときの応答は何かの答えになっているか。--これを問うことはあまり「意味」がない。そのときの答えの「正しさ」を粒来は求めていないし、この詩を読むときの私も求めていない。答えはどうでもいい。質問もどうでもいい。粒来が質問し、母親が答えるという「こと」がすべてである。その美しさは、答えを必要としていない。「意味」を必要としていない。
この口語のやりとりの中で、とてもおもしろいのは、
じゃその胚の重さは?
である。ある答えに納得できずに、さらに質問する。ここに粒来の「粘着質」があらわさているが、その「粘着質」を証明するのが「その」である。母親の答えた「青梅の種子の胚」、「その」種子に粒来はこだわっている。「その青梅」というべきところを「青梅」は省略して「その」と指示代名詞でつながっていくときの「粘着質」。
こういうことばの動きは散文に一般的にあらわれるものかもしれないが、一般的だから粒来の特徴とは言い切れないということにはならないと思う。
さらに、
じゃその胚の重さは?とかさねて問うと、
の重ねてに注意するのもおもしろいかもしれない。「その」という指示代名詞でつなげるとき、粒来はそれを「連続」としてとらえるだけではなく、その「連続」を「かさねて」という重複するものとしてとらえている。
「重複」は「繰り返し」でもあるのだが、そこには「重なり」がある。粒来の「連続」は「延長」ではなく「重なり」という形であらわれる。「重なり」と「重なり」の「間」に、ことばにできなかった「こと」があらわれる。それを「肉体」が繰り返しているということになるのかもしれない。
この詩集は、ここからもう一度読み返してみる必要があるなあ。
粒来哲蔵詩集 (現代詩文庫 第 1期72) | |
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