詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

滝川ユリア『るりららら』

2014-10-16 10:28:13 | 詩集
滝川ユリア『るりららら』(土曜美術出版販売、2014年10月20日発行)

 滝川ユリア『るりららら』のタイトルになっている詩。

すべてはきっとうまくいく

わたしはきっとうまくいく

すべてはきっとうまくいく

わたしはきっとうまくいく

わたしは君を滲み出した

あなたはどこかで生きている

わたしは君が鮮明だ

わたしは君をどうしよう

あなたはわたしをうまくいく

わたしは君を る り ら ら ら

 前半の4行はおなじことばの繰り返し。そのあとの「わたしは君を滲み出した」が、すこし変。かなり、変。「てにをは」が違っているなあ、と感じる。「わたしは君が新鮮だ」も「てにをは」が変だねえ。
 前半は「てにをは」が変じゃないように見えるけれど、ほんとうは変かもしれない。「わたしはきっとうまくいく」は何気なく読んでしまうけれど、この「てにをは」はあっている? 「わたしはきっとうまくやれる」、あるいは「(すべては)わたしにはきっとうまくいく」なのかな?
 変だけれど、なんとなく、わかるね。
 何かがうまくいく、という予感。予感なのだから、それは「論理的」ではない。「論理」かもしれないけれど、まだ実現していないことなので、そこには「ぶれ」がある。「正しさ」のぶれ? うーん、よくわからないが、「ぶれ」を含めて、なんとなくわかる。
 ことばは正しくなくても、わかることがある。
 「意味」ではなくて、気持ちがわかるのかもしれない。気持ちなんて、正確に言おうとするとどうしてもどこかが違ってしまうものだから、滝川が書いているように「ぶれ」があった方が、ある意味では「正しい」のかもしれない。言い切れない何かが「気持ち」なのだから。
 「わたしは君を滲み出した」は「学校文法」では「わたしは君を滲み出させた」か「わたしから君が滲み出した」になるのかもしれないが、そういう「論理」はどうでもよくて、「わたし」と「君」との関係は「滲み出る」ときの、じわーっとした感じなのだろう。そう感じたと言いたいのだろうから、これでいいのだと思う。「わたし」(人間)から「君」(人間)が滲み出るということなんかありえないのだから、それを「正確」に言おうとすること自体が間違っている。
 逆に言うと、何か「間違い」をしないことには「正確」には言えないことを滝川は書こうとしていると言うことになる。「間違った日本語」でしか言えない「気持ち」を言おうとしていると言えばいいのか。

 こういうことばに出会ったとき、わかるなあ、と思ったり、何をデタラメを書いている。正確に書け、と言いたくなったりするけれど、そのときの私の気持ちの違いはどこにあるのか。
 私はこの詩を読んで、滝川の書いていることを「信じる」気持ちになったのだけれど、それはどうしてなのだろうか。
 私の場合は、リズムだ。ことばのリズム。ことばが「口語」として肉体のなかで動く。私は黙読しかしないが、声に出してすぐに読める、声を聞いてすぐその日本語がわかる、と感じる。そのときの、リズム。
 「わたしはきっとうまくいく」も「わたしは君を滲み出した」も「論理的」にはおかしいのだけれど、何かを言い急いだときに、こういう「乱れ」が生まれる。そういう「乱れ」を生み出している「急いでいる感じ」、「はやく言ってしまいたい」という感じが、リズムそのもののなかにある。
 それを感じて、「信じる」気持ちになる。
 「急いでいる」ときの他人の様子というのは、不思議だよねえ。そんなに急がなくてもいいのに、でも「急ぎたい」んだよねえ。「急ぐ」ことが、それを楽しむ、思う存分味わう生き方なのだ。それは「肉体」に直接伝わってくるね。何かが一生懸命、そして「むだ」に動いている。その「むだ」がおかしいし、いとおしい。

 滝川は、その「急ぎたい」気持ちが昂って、最後は「意味」にならない。

わたしは君を る り ら ら ら

 「る り ら ら ら」では何のことかわからないが、気持ちの方が先に言ってしまっているので「論理的なことば」が追いついてこないのだ。追いついてこれないのだ。
 季村敏夫は阪神大震災の後の詩集『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれる」と書いたが、それは大惨事を体験したときだけではなく、どんなときにもそうなのだ。ことばは遅れてあらわれる。気持ちが、声(音)が先に動いて、ことばが「意味」として「出来事」と重なるのは、どうしても声(音)が出た後なのだ。ときには、その声(音)が出ないときがある。阪神大震災のとき、季村は声(音)そのものをも出せなかった。
 滝川はここでは「意味」を書いていないが「音」を書いている。声が出てしまう。
 ここでこんな比較が適切なのかどうかわからないけれど、声が出るというのは、そこに「よろこび」があるからだ。季村は阪神大震災のあと、すぐには声が出せなかった。遅れて、声が出せるようになった。そして、詩になった。ところが滝川は声が出てしまう。出さずにはいられない。
 その「よろこび」のリズムが、ここにある。

 「卵のかけら」は「この世は/卵のかけらでできている」という2行からはじまる。いろんな卵がリズムに乗って登場して、その最後、

むこう向き おかあさんが 何かを洗っている
電話の卵を 洗っている
もうすぐ電話が鳴るのだろう
こんなに天気がいいのだもの

 わっ、デタラメ。
 でも、おかあさんには「電話の卵」を洗ってもらいたい。そして、電話が鳴ってもらいたい。「こんなに天気がいいのだもの」、そういう変なことがあってほしい。
 「気持ち」はここにあって、ここにはない。どこかへ出掛けて行ってしまっている。気持ちは空っぽになっている。いや、「この世」のすべてが気持ちになって広がっているのかな。
 どっちでもいい。
 笑いながら、とてもうれしくなった。

 こういう「ありきたり」のことばで、「いま/ここ」から逸脱して自由に動く「気持ち」を書く一方で、「月」には

夜の穹窿(きゅうりゅう)に
薄桃色の軌跡を描いた

 の「穹窿」のような、えっ、そんな漢字あるの? というようなむずかしいことばも出てくる。気取っている。いつもと違うことを書いている。
 そうか、「すべてはきっとうまくいく」も、ほんとうは「気取っている」のだな、ちょっとかっこつけてことばを動かしているのだね。詩は、そういう「気取り」といっしょにある。「気取る」ときのうわずった気持ち、それがことばよりも先に動いてしまう。そして、それはときには、不思議なことばに出会って、そのことばを頼りに「気持ち」を動かしてしまうこともある。ことばによって「気持ち」がつくられていく、といえばいいのか。たくさん、そういう「気持ち」をつくってしまうのではなく、突然の出会いのように、ぱっと出てくるところが、無理がなくて楽しい。

るりららら (現代詩の新鋭)
滝川 ユリア
土曜美術社出版販売

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省略して、

2014-10-16 00:31:53 | 
省略して、

その男が何を言ったのか聞きとれなかったが
連中の顔が一瞬私に向けられ
表情が消え去るように遠ざかった。
雨が降って、街頭の色が霞むような感じだ。
(私はそれを見てきたばかりだが、このことはもう書いただろうか

しばらくすると別の男が口を開いた。
「未来を分割払いで先に受け取るような」と聞こえたが
どういう意味だろう。奥で
新聞を読んでいた男が鏡の中で視線を動かした。
こういうときをごまかす決まり文句か何かだろうか。

私は私の昂奮をコントロールしなくてはいけない、
省略して省略して省略して
いちばん目立たない感情について言わなければならない。






*



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