詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

仲田有里「詩6篇」ほか

2014-10-10 11:03:21 | 詩(雑誌・同人誌)
仲田有里「詩6篇」ほか(「妃」16、2014年10月05日発行)

 仲田有里「詩6篇」は文体がおもしろい。味気ないというか、そっけないというか、詩らしくないところがおもしろい。「共同生活」を引用する。

あの人の疲れた顔を見た時、
生温かかった共同生活の感覚が
甦りました

コップを片付ける
スプーンを片付ける
眠たい時は寝る

日々は淡々と過ぎていくだろうと
思っていたけれど
そしてそうなることに
恐怖を感じていたけれど
やはり私は人間で
感情が湧く

 最後の「感情」というのはどういう感情か。うれしいとか、悲しいとか、退屈とか、怖いとか。考えるとわからないのだけれど、わからなさのなかに、「わかる」ものがある。「誤読」をさそうものがある。
 「淡々」ということばが出てくるが、「生活」はたいてい「淡々」としているものだ。そして「感情」もたぶんそれにシンクロするように「淡々」としているだろうなあ。はっきりとことばにはできないけれど、そのはっきりしないものが動く、湧く。感情は大抵の場合、自分にもはっきりしないものだ。全部がはっきりしていたら、きっと疲れてしまう。ぼんやりしているから疲れずに感情といっしょにいられる、というようなものだ。
 2連目。「コップを片付ける/スプーンを片付ける」はしなければならないこと。別にしなくてもいいかもしれないけれど、いつかはそうするだろうという日常。「眠たい時は寝る」はしなければならないことなのか、したいことなのかよくわからない。「眠たい」というのは「眠りたい」だから「したい」ことなのかもしれないけれど、たいていの場合は激しい欲望というよりも「淡々」としている。「そろそろ寝るか」くらい。コップやスプーンを片付けるのと差がない。「日常」に組み込まれてしまっている欲望だ。「したい」という、繰り返しやってくる感情だ。
 こういうことを大げさにせずに、ただ「淡々」と書いている。
 このリズムがとてもいい。
 ことばをうごかすもの、その力には「意味(理念)」というようなものもあるが、そうではなくてリズム、音の響きというものもある。そしてリズムとか音というのは、どうしてそれが「いい」か、説明ができない。この「意味(理念/思想)」はすばらしい、生きていく時の指針になる、この「理念」によって世界の問題が明確に把握できるようになる--というような具合に「説明」できない。ただ、なんとなくこの音がいいなあ。このことばの動きが自然でいいなあ、というくらいにしか説明できない。
 面倒くさいことに、仲田の詩(音)は「かっこいい」とは言えない。たとえば田村隆一の詩ならば「言葉なんか覚えるんじゃなかった」という1行には「かっこよさ」がある。そんなふうに言ってみたら「かっこいい」だろうなあ、と思わせる響きがある。仲田の詩には、申し訳ないがそういう「見栄え」のよさがない。「淡々」としている。でも、その「淡々」がなかなかいい。この響き「いいなあ」と思う。直感的に思う。直接的に思う。
 そして、この「淡々」のなかには、やはり「思想(肉体)」があるのだと感じる。ゆるぎない何か。確実な何か。それを私は、「理念」のことばで「説明」できないけれど、不思議と安心する。「淡々」としている、その「淡々」のなかには嘘はないと感じる「日常の暮らし」そのもの、きょうがあること、毎日を成り立たせる「ほんとう」があるという感じ。それが気持ちがいい。
 詩は、嘘を書くものなのだけれど(嘘を書くのが詩だと私は思っているが)、この正直な「淡々」というのは、現代では「嘘」なのかもしれないなあ、嘘の衝撃を隠し持っているのかもしれないなあ。どうしても「過激」になってしまうのが、いまのことばだからね。

 「車」は、もう少し何か言いたくなる詩である。この詩について、感想を書きたいなあ、と感じさせる。

彼と駅で待ち合わせをして、
彼が乗ってきた車でドライブする。
彼の車は古くて小さくて白い。
彼は駅の周りを2回まわる。
それは間違えて。

千年に一度の猛暑ではなくて
良かったその年。
私の口から出る言葉。

自販機でジュースをそれぞれ
買って飲む。

私は彼を私の役に立つか立たないか点検する。
それは私の私の中の喜びではない。

何枚かの葉っぱが
尖端に詰まってしまって
出てこられないような不安に
大抵の人は傷つかないけれど
手や足の先のようなものが
切れるように痛んだのなら
可愛そうに思う

 最終連に「意味」がありそう。最終連がいちばん詩っぽい感じがするのだが、それよりも私はそれ以前の連がおもしろい。「意味」がなさそうなところが、とても気に入っている。こんな具合に「無意味」を「淡々」と書けない。どうしても最終連のような、何かが「詰まっている」感じ、ことばになりきれていな何か「未生」のことばが詩だと思い、そういうものをめざしてしまいがちになるのだが……。
 あ、脱線?
 ええっと。どこに感心したかというと。

それは間違えて。

それは私の中の喜びではない。

 2回出てくる「それは」がいい。何かを見て、いったんそれを切断し、それから「それは」で接続する。そのときの切断/接続は「それは」ということばがあまりにも平凡すぎるので「切断/接続」を感じさせないのだが、そのほとんと感じさせない感覚がいい。
 詩を書くくらいだから、仲田には明確な何かがあるはずだ。ことばにしたいものがあるはずだ。しかし、その「何か」を「書く」という感じをほとんど感じさせない。淡々としている。
 駅の周りを2回まわった。それは単に間違えたからと理由をつけくわえる。何でもないことなのだが、「あっ、間違えたのだ」と気づくそのときの、一瞬の動きが「それは」のなかにある。彼が役立つかどうか点検する、それは私の喜びではないと気づく。その一瞬の、気づくときの「違和」のようなものが、とても自然に出ている。
 そして、それが「肉体」のように、目に見える。
 だれかと話していて、一瞬、その相手のなかで「間」があって、動く(何かに気がついて、その気づいたことを気づかれまいと装う時の感じ)。そういうものが「それは」と言いなおす瞬間に見えてくる。見える。
 これは、おもしろいなあ。傑作だなあ、と感じる。

 田中庸介「塩漬けにされた鯖と彼女」はとても変な詩である。タイトルがだいたい変なのだが、その変なもののなかに明るいリズムがある。明確なリズムがある。

異形の者
についてまだ私は書いていない
蜜のような快楽
についても私は書いてこなかった
天変地異
について私は書いていないし
塩漬けにされた鯖
について私はまだ何も書いていない

しかし私は
キャリーについて考える

 なんだろう。「接続」と「切断」が奇妙。「異形の者」「蜜のような快楽」「天変地異」「塩漬けにれた鯖」には何の関係もないように見える。けれど、それが「について/書く(書いていない)」というひとつの動詞(動詞なので「書く」という原形を補った)で統合される。そうすると、そこに「接続」ができる。その「接続」は、しかし、無関係なものによって「切断」されつづける。
 こういう文体は、まあ、「流通言語」の常識からいうと、いったい何? 何書いている? 意味わかんない、で処理されておしまいのものだけれど。
 私はやっぱりおもしろいなあ、と感じる。気持ちいいなあ、と感じる。
 「意味」ではないものに、私は反応している。
 それは何かというとことばのリズム、歯切れのよさ。「音楽」だね。ことばの「音楽」。それは、音韻の響きあい(和音)というものとは別のものなのだけれど。そして「音」を指摘することでは説明できない「音楽」なのだけれど。
 こういう歯切れのいい音を聞くと、この人は「頭がいい」と、私は感じてしまう。ことばを音として明確に把握して、その音の明確さを「肉体」で整理できる本能のようなものをもっている。「頭がいい」は「本能がいい」という意味なんだけれど。
 この音の「統一」のつづきとして、「キャリーについて考える」ということばが出てくるのだが、この「について」の位置が絶妙だね。1連目とは「ずれ」がある。それなのに「について」があるので1連目と「接続」してしまう。「転調」の一種だね。
 で、(というのは変な、便利な接続詞)
 「キャリー」は私は、オカルト映画「キャリー」(シシー・スペイシクのブスさ加減が大好き)を思い出したのだが、

しかし私は
キャリーについて考える
キャリーバッグをごろんごろん引きずって
人々はどこへ行くんだろう

 と続くのだ。
 びっくりした。
 「キャリーについて考える」が55ページ(左ページ)、それをめくって「キャリーバッグ」(56ページ)と続くというページ構成もおもしろさに拍車をかけている。
 とんでもない「飛躍(切断)」がありそうで、そうではなく、かといってべたべたの「接続」でもない。ことばが、歯切れのいいまま、どこまでも動いて行く。
 この軽快さは、やっぱり、詩のもの。
 「理念」はない、と書くと田中に叱られるかもしれないけれど、「理念」を感じさせず、ことばを読むことがおもしろい、そのことばのなかにもっといっしょにいたいと思わせるのは、詩(文学)の楽しみだ。



 「妃」と言えば、私にとっては田中と同時に高岡淳四なのだが、高岡の詩がないのは残念。田中と同じように「頭のいい(正直な本能)」のことばに接することができなかったのはとても悔しい。次号は書くのかな?


詩誌「妃」16号
長谷部 裕嗣,田中 庸介,仲田 有里,瓜生 ゆき,大崎 清夏,倉石 信乃,山田 航,後藤 理絵,宮田 浩介,広田 修,管 啓次郎,鈴木 ユリイカ
妃の会 販売:密林社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

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小倉金栄堂の迷子

2014-10-10 00:35:31 | 
小倉金栄堂の迷子

 真白な光がテーブルの中央に集中して落ちると、周りを囲んだ顔が鏡のように光った。顔の表面で迷っていた影が消し飛ばされ、どの顔からも表情が消えた。陰影がなくなると、眼、鼻、唇の形だけになり、顔というものは意外と同じものだと気づかされた。
 向かい側、真っ正面の男がページをめくるために手を動かす。その隣の女も同じようにページをめくる。すると背後にエッジの強い影が走り、その際立った黒いものの動きが、さらに顔の違いを奪い去るので、読書会は仮面をかぶった集団の密会のようになった。
 時間が経つに連れ、白い光は強くなり、開いた本のページの活字に影が深くなる。それは活字を紙から押し上げるようにも見える。だんだん活字が紙から分離し、浮き上がり、光のなかを昇っていく。
 「あの光のなかで不純なものを焼きつくし、まだ開かれていない本のなかで新しく結晶するのだ」と最初に来たときに教えてくれた男が、そっと肩に手をおいて、昇っていく活字が何かはっきり見つめるようにと耳元でささやいた。

 遠い海の上を、広大な闇を鮮やかな明かりをともした船が、一直線に進んでいくのが見えた。海の上では、波がこぼれた光を砕いていた。--という行を、あしたは探さなければならない、と思った。






*



新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
なお「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)とセットの場合は2000円
「リッツッス詩選集」(作品社、4400円、中井久夫との共著)とセットの場合は4500円
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
です。

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