監督 黒澤明 出演 三船敏郎、加山雄三、山崎努、内藤洋子、二木てるみ
主役は三船敏郎なのか、加山雄三なのか。タイトルは「赤ひげ」だが、ストーリーは香山雄三の成長物語。1965年、50年前の映画。このころ加山雄三は「若大将」をやっていたのか。最初の方の、生意気で、とげのある感じが、「お坊っちゃま」という感じで、「適役」というのはこういうことを言うんだろうなあ、思いながら見た。(後半のメーンテーマとなる二木てるみ。二木は内藤洋子より年下なのか? 年上じゃないのか? ということも頭をかすめた。)
この映画でいちばん目を見張ったのは、赤ひげの診療所の床の美しさである。板張りなのだが、その板が磨き込まれている。黒光りをしている。ていねいにつかいこまれている。そのていねいさのなかに「暮らし」が見える。(なぜ、患者が白い着物をきているか、なぜ畳ではなく板の間なのか、ということが患者の口や、先輩医師のことばで語られるが、この部分は説明しすぎていてがっかりするが、当時はこういう状況説明を先にしてしまうのが映画の手法だったのかもしれない。)
で、この「暮らし」の、隠れたていねいさが、少しずつストーリーとして展開する。患者の、あるいはそこに身を寄せる人々の「物語」が少しずつ語られる。隠されていた「時間」が語られる。それはそれですでに一篇の映画である。ついつい、三船敏郎と加山雄三が主役であることを忘れてしまう。冒頭の診療所で、診療所の床の美しさに見とれて、そこが診療所であるということを忘れるような感じ。
そして、ストーリーが展開するに連れて、それまで見てきた「劇中劇」とでもいうべきストーリーが観客である私のなかに蓄積されるように、加山雄三のなかにも蓄積され、加山雄三が、生意気なお坊ちゃんから徐々に変わってくるのがわかる。診療所の床が美しいなどという「傍観者」的な感想がからだのなかに沈み込み、すっかり加山雄三の気持ちになって登場人物といっしょに生きている。
うーん、いい感じだなあ。
特に。
二木てるみが泥棒小僧と会話をするのを盗み聞きするシーンがいい。加山雄三は診療所の賄い小母さんといっしょに洗濯物の影に隠れて会話を聞いている。泥棒小僧は小僧で懸命に生きている。二木てるみはなんとか少年を立ち直らせたいと思っている。少年をまるで自分自身であるかのように、真剣にことばを語っている。
その二人の世界へ、加山雄三はしゃしゃりでていくわけではない。隠れたまま、それを知らないこととして、接しつづける。小母さんも同じ。知らないふりをして、しかし、なんとか手助けしようとする。ご飯を小僧のために残そうとする二木てるみに「育ち盛りなんだからもっとお食べ」といい、大食いの同僚おばさんには「そんなに食うんじゃないよ」と怒ったりする。観客には何が起きているかわかるが、二木てるみには何が起きているかわからない。
こういう「関係」が、あの床の磨き込まれた美しさなんだなあ。
床は拭き掃除を繰り返せば美しくなる。それは表面的なこと。美しくなるまで磨き込むとき、そこには美しくするということとは違う「思い」がある。清潔であることが、病人にとっては何より大事。病人のために、床をきれいにする。その積み重ねが、そこにある。その「思い」は、一見しただけでは見えない。これはしかし、見えなくていいのだ。見えないことを承知で、ひとは働いている。
加山雄三は、「見えるひと」をめざしていたのだが、最後はこの映画の多くのひとのように「見えないひと」になろうとする。「見えないひと」のために、さらに「見えないひと」になろうとする。
映画はストーリーではないのだが、そのストーリーに知らず知らず、飲み込まれていく。いいなあ、と思う。
豪華な脇役が、この映画のストーリーをストーリーではなく、ひとりひとりが生きているという次元へ私をひっぱっていくのかもしれない。杉村春子や志村喬以外に、田中絹代と笠置衆まで出てきたのには驚いてしまった。主演級の役者がみんな「見えない役」を演じて映画を支えている。いい映画にするために「見えない役者」になっている。
*
二木てるみと内藤洋子は、調べてみたら二木てるみの方が一歳年上だった。映画の中では二木が十代前半の少女、内藤が加山と結婚する娘なので、年齢とは逆の役をやっている。二木はだいたい暗い顔をしていて、貧乏人という感じがするのだが、それに拍車をかけて目を異様に光らせて登場する。泥棒小僧と出会って、少しずつこころを開いていく役なのだが、これは確かに内藤洋子にはできない、二木向きの役だね、と思った。
(「午前十時の映画祭」天神東宝4、2015年10月19日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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主役は三船敏郎なのか、加山雄三なのか。タイトルは「赤ひげ」だが、ストーリーは香山雄三の成長物語。1965年、50年前の映画。このころ加山雄三は「若大将」をやっていたのか。最初の方の、生意気で、とげのある感じが、「お坊っちゃま」という感じで、「適役」というのはこういうことを言うんだろうなあ、思いながら見た。(後半のメーンテーマとなる二木てるみ。二木は内藤洋子より年下なのか? 年上じゃないのか? ということも頭をかすめた。)
この映画でいちばん目を見張ったのは、赤ひげの診療所の床の美しさである。板張りなのだが、その板が磨き込まれている。黒光りをしている。ていねいにつかいこまれている。そのていねいさのなかに「暮らし」が見える。(なぜ、患者が白い着物をきているか、なぜ畳ではなく板の間なのか、ということが患者の口や、先輩医師のことばで語られるが、この部分は説明しすぎていてがっかりするが、当時はこういう状況説明を先にしてしまうのが映画の手法だったのかもしれない。)
で、この「暮らし」の、隠れたていねいさが、少しずつストーリーとして展開する。患者の、あるいはそこに身を寄せる人々の「物語」が少しずつ語られる。隠されていた「時間」が語られる。それはそれですでに一篇の映画である。ついつい、三船敏郎と加山雄三が主役であることを忘れてしまう。冒頭の診療所で、診療所の床の美しさに見とれて、そこが診療所であるということを忘れるような感じ。
そして、ストーリーが展開するに連れて、それまで見てきた「劇中劇」とでもいうべきストーリーが観客である私のなかに蓄積されるように、加山雄三のなかにも蓄積され、加山雄三が、生意気なお坊ちゃんから徐々に変わってくるのがわかる。診療所の床が美しいなどという「傍観者」的な感想がからだのなかに沈み込み、すっかり加山雄三の気持ちになって登場人物といっしょに生きている。
うーん、いい感じだなあ。
特に。
二木てるみが泥棒小僧と会話をするのを盗み聞きするシーンがいい。加山雄三は診療所の賄い小母さんといっしょに洗濯物の影に隠れて会話を聞いている。泥棒小僧は小僧で懸命に生きている。二木てるみはなんとか少年を立ち直らせたいと思っている。少年をまるで自分自身であるかのように、真剣にことばを語っている。
その二人の世界へ、加山雄三はしゃしゃりでていくわけではない。隠れたまま、それを知らないこととして、接しつづける。小母さんも同じ。知らないふりをして、しかし、なんとか手助けしようとする。ご飯を小僧のために残そうとする二木てるみに「育ち盛りなんだからもっとお食べ」といい、大食いの同僚おばさんには「そんなに食うんじゃないよ」と怒ったりする。観客には何が起きているかわかるが、二木てるみには何が起きているかわからない。
こういう「関係」が、あの床の磨き込まれた美しさなんだなあ。
床は拭き掃除を繰り返せば美しくなる。それは表面的なこと。美しくなるまで磨き込むとき、そこには美しくするということとは違う「思い」がある。清潔であることが、病人にとっては何より大事。病人のために、床をきれいにする。その積み重ねが、そこにある。その「思い」は、一見しただけでは見えない。これはしかし、見えなくていいのだ。見えないことを承知で、ひとは働いている。
加山雄三は、「見えるひと」をめざしていたのだが、最後はこの映画の多くのひとのように「見えないひと」になろうとする。「見えないひと」のために、さらに「見えないひと」になろうとする。
映画はストーリーではないのだが、そのストーリーに知らず知らず、飲み込まれていく。いいなあ、と思う。
豪華な脇役が、この映画のストーリーをストーリーではなく、ひとりひとりが生きているという次元へ私をひっぱっていくのかもしれない。杉村春子や志村喬以外に、田中絹代と笠置衆まで出てきたのには驚いてしまった。主演級の役者がみんな「見えない役」を演じて映画を支えている。いい映画にするために「見えない役者」になっている。
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二木てるみと内藤洋子は、調べてみたら二木てるみの方が一歳年上だった。映画の中では二木が十代前半の少女、内藤が加山と結婚する娘なので、年齢とは逆の役をやっている。二木はだいたい暗い顔をしていて、貧乏人という感じがするのだが、それに拍車をかけて目を異様に光らせて登場する。泥棒小僧と出会って、少しずつこころを開いていく役なのだが、これは確かに内藤洋子にはできない、二木向きの役だね、と思った。
(「午前十時の映画祭」天神東宝4、2015年10月19日)
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