尾花仙朔『晩鐘』(思潮社、2015年09月20日発行)
尾花仙朔『晩鐘』の最後に収録されている「百鬼夜行の世界の闇に冥府の雨が降っている--国家論詩説鈔録」は長い詩である。長いけれど「鈔録」。もっともっと言いたいことがある、言わなければならないことがある、ということだろう。その思いの強さがことばの強度そのものになっている。
「見えない」が二回繰り返されている。「見えない」けれど、尾花には「冥府の雨」が降っていることがわかる。なぜか。同じ雨を尾花が「肉体」で覚えているからである。「肉体」が思い出すのである。なぜか。いま世界が「暴虐に満ち」ているからである。「暴虐」が満ちるとき、そこには「冥府の雨が降る」。「暴虐」と「冥府の雨」は同じものである。同じものが、違った形になってあらわれている。(今風に言えば、「同じもの」が「暴虐」と「冥府の雨」ということばで「分節」されている。)
「同じもの」だけれど、違っていて、そしてその「違っている一方(冥府の雨)」が「見えない」としたら、その人には「暴虐」も見えない。これは逆に言えば、「暴虐」が見えないひとには「冥府の雨」も見えないということである。
そういうこと(ひと)に対する怒りが、ことばの奥に響いている。
この「見えない」を、どう表現するか。「見える」ように、「分節」するか。
「パレスチナ」「イスラエル」「アウシュビッツ」ということばでも、「暴虐」が見えないひとには見えないかもしれない。だが、そこでおこなわれている(おこなわれた)ことが、「暴虐」であるという「定義」はつたわるだろう。「歴史」だから。
ちろん、つたわらない相手もいる。たとえば、安倍晋三などには絶対につたわらないだろう。「歴史」を「自分独自の視点で解釈」し、共有しようとしないひとには、「歴史」はつたわらない。--そして、つたわらないからこそ、書く必要がある。「歴史」を葬ってはいけないからである。
この「暴虐」を、尾花はさらに言い換える。
これは「歴史」ではなく、「現実」。よほどのひとではない限り、ここに書かれている「無間地獄」は「現実」とわかるだろう。それが「現実」なら、「冥府の雨」もわかるだろう。
ただしこの「無間地獄」も、安倍晋三のようにそれをつくり出している人間には見えない。現実に起きていることには目を向けず、質問されても「用意した答え」以外のことばを話すつもりのない男には、自分が何をつくり出しているか、そのつくり出したものと自分とがどうつながっているかが見えない。安倍には、自分と岸を結ぶ「血のつながり」しか見えず、祖父への「気に食わない評価」をひっくりかえし、自分は「正当な政治を引き継ぐ正当な政治家である」とどこかに書き記すことしか考えていない。そのためにもう一度戦争をしたいと熱望している男には、この「現実」は見えない。
しかし、安倍ほどの自己中心的な独裁者ではない限り、次の母と娘の姿は見えるだろう。
「肉体」はつながっている。「耳」と「目」は「肉体」のどこがでつながっている。聞く、見るという動詞、聴覚、視覚はどこかでつながり、まじりあい、一つになっている。一つである。その「一つになる力(一つにする力)」、壊された肉体の惨劇、現実を目の前に出現させる。生み出す。つくり出す。人間の「肉体感覚」が「目の前」の現実を現実として存在させる。
自分の肉体が「肉親」としかつながっていると感じられない安倍のような「肉体感覚」の持ち主には、この「現実」はけっして見えない。
「目」がどこかへ行くのではなく、「目」の「前」に「どこか」を引き寄せる。「目」が自分とは切り離された他人の「肉体」を見るのではない。「目」は、目の前にある「肉体」を自分の「肉体」とつながった「いのち」として、そこに生み出している。
いや、これは、ことばの強さが、自然に「耳」と「目」をひとつにして、「現実」を引き寄せるということ。私は、尾花のことばに誘われて、そこにある「現実」に触れる。
このときのことばの強さに打ちのめされる。
顔のない少女、胸をえぐられた母の姿が、傷のない「肉体」として見える。同時に、それを目の前の顔のない少女の肉体、胸のない母の肉体が突き破る。
尾花のことばが、そういう「矛盾」を「現実」として見せてくれる。
こういう感覚の融合(耳と目の融合)がもっと書かれれば、この詩はもっと強烈になる。もっともっと書いてほしいと思う。
123ページから 124ページにかけて。
ここにも「声」「きこえる」が出てくるが、母娘の「声」のように具体的でないので、少し残念。日本の「いまの声」が書き留められると、ここの詩は「日本の歴史」になるのに、と思った。「見えない」ものを「耳」で聞き、「鼻」でにおいを嗅ぎ取り、「肌」でさわり、そこに「肉体」が浮かびあがるのに、と思った。
*
この詩の初出は、秋亜綺羅の出している「ココア共和国」だと記憶している。そこで読んだときは、尾花の詩は他の詩人たちのことばと行き来しているようには感じられなかった。そのため、強烈だけれど、なんだか硬質で生真面目すぎて、読むのがつらく感じられた。しかし、詩集になってみると、一冊がすべて尾花のことばなので、詩集全体のなかにことばが響いていく感じがする。他の詩がこの作品のことばを支え、いっそう強くしていると感じる。
詩集のなかで書かれなければならない詩なのだ。詩集のなかで、より力のありようがわかる詩なのだ。
*
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尾花仙朔『晩鐘』の最後に収録されている「百鬼夜行の世界の闇に冥府の雨が降っている--国家論詩説鈔録」は長い詩である。長いけれど「鈔録」。もっともっと言いたいことがある、言わなければならないことがある、ということだろう。その思いの強さがことばの強度そのものになっている。
冥府の雨が降っている
百日百夜とぎれなく冥府の雨が降っている
この世ではない次元空間から降る雨だから冥府の雨は目に見えない
見えないけれど暴虐が地に満ちた世界に隈なく降っている
「見えない」が二回繰り返されている。「見えない」けれど、尾花には「冥府の雨」が降っていることがわかる。なぜか。同じ雨を尾花が「肉体」で覚えているからである。「肉体」が思い出すのである。なぜか。いま世界が「暴虐に満ち」ているからである。「暴虐」が満ちるとき、そこには「冥府の雨が降る」。「暴虐」と「冥府の雨」は同じものである。同じものが、違った形になってあらわれている。(今風に言えば、「同じもの」が「暴虐」と「冥府の雨」ということばで「分節」されている。)
「同じもの」だけれど、違っていて、そしてその「違っている一方(冥府の雨)」が「見えない」としたら、その人には「暴虐」も見えない。これは逆に言えば、「暴虐」が見えないひとには「冥府の雨」も見えないということである。
そういうこと(ひと)に対する怒りが、ことばの奥に響いている。
この「見えない」を、どう表現するか。「見える」ように、「分節」するか。
自由の海の末裔パレスチナにも降っている
旧約(トーラー)の神の国の選民イスラエルにも降っている
旧約の神の国の政略は非道で無慈悲だ
地つづきの二つの民族を隔てる分離壁
さながらアウシュビッツの強制収容所を思わせる
「パレスチナ」「イスラエル」「アウシュビッツ」ということばでも、「暴虐」が見えないひとには見えないかもしれない。だが、そこでおこなわれている(おこなわれた)ことが、「暴虐」であるという「定義」はつたわるだろう。「歴史」だから。
ちろん、つたわらない相手もいる。たとえば、安倍晋三などには絶対につたわらないだろう。「歴史」を「自分独自の視点で解釈」し、共有しようとしないひとには、「歴史」はつたわらない。--そして、つたわらないからこそ、書く必要がある。「歴史」を葬ってはいけないからである。
この「暴虐」を、尾花はさらに言い換える。
ある日抗議の自爆テロ・ロケット弾が旧約の神の国をおびやかす
とすかさず見境のない空爆・ミサイルの報復に
無間地獄が出現する
この世の無間地獄に冥府の雨が降っている
これは「歴史」ではなく、「現実」。よほどのひとではない限り、ここに書かれている「無間地獄」は「現実」とわかるだろう。それが「現実」なら、「冥府の雨」もわかるだろう。
ただしこの「無間地獄」も、安倍晋三のようにそれをつくり出している人間には見えない。現実に起きていることには目を向けず、質問されても「用意した答え」以外のことばを話すつもりのない男には、自分が何をつくり出しているか、そのつくり出したものと自分とがどうつながっているかが見えない。安倍には、自分と岸を結ぶ「血のつながり」しか見えず、祖父への「気に食わない評価」をひっくりかえし、自分は「正当な政治を引き継ぐ正当な政治家である」とどこかに書き記すことしか考えていない。そのためにもう一度戦争をしたいと熱望している男には、この「現実」は見えない。
しかし、安倍ほどの自己中心的な独裁者ではない限り、次の母と娘の姿は見えるだろう。
この会話、この「声」は声を聞くだけでは内容を把握できない。つかみとれない。聞いたことを目で再現(想像)しないといけない。「耳」を「耳」だけでにしておくのではなく、「肉体」の奥で「目」につなげないといけない。「耳」を「目」にして、「いま/ここ」にないものを「いま/ここ」にあるように呼び寄せないといけない。
冥府の雨の縫目から きれぎれに
あどけない幼い娘の声がきこえてくる
《オカアサン ワタシノ顔ドコヘ
トンデ行ッタノカシラ?》
《いつでも添寝していた母娘(おやこ)だもの》
--と魂の母が応えている
《きっと吹き飛ばされたわたしの
胸乳のそばでしょうね》
「肉体」はつながっている。「耳」と「目」は「肉体」のどこがでつながっている。聞く、見るという動詞、聴覚、視覚はどこかでつながり、まじりあい、一つになっている。一つである。その「一つになる力(一つにする力)」、壊された肉体の惨劇、現実を目の前に出現させる。生み出す。つくり出す。人間の「肉体感覚」が「目の前」の現実を現実として存在させる。
自分の肉体が「肉親」としかつながっていると感じられない安倍のような「肉体感覚」の持ち主には、この「現実」はけっして見えない。
「目」がどこかへ行くのではなく、「目」の「前」に「どこか」を引き寄せる。「目」が自分とは切り離された他人の「肉体」を見るのではない。「目」は、目の前にある「肉体」を自分の「肉体」とつながった「いのち」として、そこに生み出している。
いや、これは、ことばの強さが、自然に「耳」と「目」をひとつにして、「現実」を引き寄せるということ。私は、尾花のことばに誘われて、そこにある「現実」に触れる。
このときのことばの強さに打ちのめされる。
顔のない少女、胸をえぐられた母の姿が、傷のない「肉体」として見える。同時に、それを目の前の顔のない少女の肉体、胸のない母の肉体が突き破る。
尾花のことばが、そういう「矛盾」を「現実」として見せてくれる。
こういう感覚の融合(耳と目の融合)がもっと書かれれば、この詩はもっと強烈になる。もっともっと書いてほしいと思う。
123ページから 124ページにかけて。
冥府の雨が降っている 一際しげく
日本列島に降りそそぐ
大日本帝国の忌わしい歴史の亀裂からふたたび姿を現したのだ
民から目と耳と口を奪い去る秘密の愚民政策を懐中に民主国家の土台を蹂躙する
和製「鉤十字」のゾンビが上陸してきたのだ
(略)
ああ 靖国に冥府の雨が降っている
国家権力に囚われて靖国にありながら神にもなれず故郷にも還れぬ英霊の
咽ぶ声がきこえてこないか
ここにも「声」「きこえる」が出てくるが、母娘の「声」のように具体的でないので、少し残念。日本の「いまの声」が書き留められると、ここの詩は「日本の歴史」になるのに、と思った。「見えない」ものを「耳」で聞き、「鼻」でにおいを嗅ぎ取り、「肌」でさわり、そこに「肉体」が浮かびあがるのに、と思った。
*
この詩の初出は、秋亜綺羅の出している「ココア共和国」だと記憶している。そこで読んだときは、尾花の詩は他の詩人たちのことばと行き来しているようには感じられなかった。そのため、強烈だけれど、なんだか硬質で生真面目すぎて、読むのがつらく感じられた。しかし、詩集になってみると、一冊がすべて尾花のことばなので、詩集全体のなかにことばが響いていく感じがする。他の詩がこの作品のことばを支え、いっそう強くしていると感じる。
詩集のなかで書かれなければならない詩なのだ。詩集のなかで、より力のありようがわかる詩なのだ。
尾花仙朔詩集 (現代詩文庫) | |
尾花仙朔 | |
思潮社 |
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谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
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ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4400円)と同時購入の場合は4500円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。