中谷泰士『桜に偲ぶ』(新・北陸現代詩人シリーズ)(2015年07月30日発行)
中谷泰士『桜に偲ぶ』に「世界の声には音程がある」という魅力的なタイトルの詩がある。
断定がここちよい。「……いけない/ならない」の繰り返しが断定を強めている。
三行目の「倍音」は、その声がひとつではないということを語っている。したがって世界には複数の声があることになる。「音程」を聞くだけではなく、中谷は複数の音を聞き、それが「倍音」になっていることに気がつく。「声」から「音程」へ、「音程」から「倍音」へとことばが動くとき、耳が動き、耳がこころになっていく。ものの見方(聞こえ方)が違ってくる。そこに発見がある。
こういう詩を読むと、私は、その声の発見が音程の発見、倍音の発見へと加速し(?)、さらに新しい音を発見することを期待するのだが、中谷はちょっとまじめすぎて、ことばを暴走させない。立ち止まらせてしまう。そのためにせっかくの「倍音」が「倍音」ではなく、別々の「音」になってしまう。分離してしまう感じがする。それが残念である。
どういうことか。
実は、いま引用した三行の前に、「声」が「音程」に、「音程」が「倍音」にかわる瞬間のことが書かれているのだが、それが「瞬間」ではなく「時間の経過」になっているというか、余分なものを迂回しているために「瞬間」が「瞬間」でなくなっているところがある。「瞬間」を否定してしまっているために、せっかくの「音楽」が耳には聞こえてこない。「楽譜」を見ているような感じになる。「倍音」を「楽譜」に書いて確かめているような感じだ。
その、問題の一連目。
書いてある「状況」はとてもよくわかる。
私が疑問を感じるのは、「おそらくは」「偶然」「だろう」という「断定」から遠いことばである。「事実」かどうかわからないから(中谷は声を聞いているだけだから)、その「わからない」ことを「正確」に「推測」している。その「推測」の「時間」のなかに中谷が割り込んできてしまう。「頭」が割り込んできてしまう。
「声」「音程」「倍音」を聞いたのは、耳そのもの。耳と音が一体になって「瞬間」をつくりだしている。その「一体としての瞬間」を中谷は、わざわざ「分離」している。それが、どうも、私にはおもしろくない。
「おそらくは」「偶然」「だろう」を消してみると、詩は、どうかわるか。
読む人によって印象は違うかもしれないが、私は、ない方がことばが早く動いているように感じられる。そして、そのスピードに誘われて、そこで起きていることに引き込まれる。「おそらく……だろう」という構文では、そこで起きていることよりも、それを聞いている(想像している)中谷の姿の方が見えてきて、かんじんの中谷の体験したものが間接的になる。読者(私)は「できごと」と「一体」になるのではなく、中谷と一体になってしまう。
詩というのは、もちろん書いた人(詩人)と一体になる体験だけれど、詩人と一体になるだけではなく、書かれていることと一体にならないことには、真に詩人と一体になったとは言えない。
せっかく「時間が同じ」と「同じ」ということばをつかっているのだから、その「同じ」を強く掴み取らないといけない。
「別れた時間が同じ」というのは、表面的には「別れた瞬間(たとえば午後五時ちょうど)」が「同じ」という意味だが、これを「同じ時間」と読み替えてみると、とてもおもしろくなる。それまで「いっしょに遊んでいた人間が別れる」という「経過そのものとしての時間」が「同じ」になる。そして、そういう「ひとの肉体をとおして動いている時間」が「同じ」だからこそ、「声」が「倍音」になる、ということがおきる。「倍音」の「秘密」のようなものが「同じ時間」の「同じ」のなかに見えてくる。
「いっしょに楽しく遊ぶ」という「同じ楽しさ」をしてきたから「倍音」になる。公園で遊んでいるこどもの「さようなら」と、むずかしい商談がもつれ、もう一度会って話をつめることを決めたおとなの「さようなら」では「倍音」という現象はおきない。
「同じ時間」だからこそ、「倍音」がおきる。
知らないひとの「肉体」が体験する「同じ時間」が「倍音」を引き起こすのである。
これをさらに押し進めて考えると。
「倍音」を聞いたとき、ひとは「個別の音」のなかにある「同じ時間(同じ経験/同じ感情)」を聞くのである。「音」そのものではなく「音の奥にあるもの/音を生み出す何か」を聞くのである。それは「耳」で聞き取るのだけれど、「耳」だけではなく「こころ」で聞くということでもある。「耳」と「こころ」が「ひとつ(一体)」になって、「音のなかの来歴」を掴み取るのだ。
そうであるからこそ、
と最初に引用した三行のように「耳」の体験が「心」で言い直されるのである。
とてもおもしろいことを書いているはずなのに、それを邪魔することばが多い。きっと中谷は真面目すぎるのだろう。推測したことを「違っている」と言われるのを心配しているのだろう。他人を気づかってことばを動かしては詩にならない。他人を突き破ってしまわないと詩とは言えない。他人を突き破って、その衝撃で自分自身も変わってしまう。生まれ変わる。それが詩である。「推測」なんかしていてはいけない。
*
谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4400円)と同時購入の場合は4500円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。
中谷泰士『桜に偲ぶ』に「世界の声には音程がある」という魅力的なタイトルの詩がある。
世界の声には音程がある
それが美しいときは 耳を澄まさなくてはいけない
声に倍音を聴いたとき 心打たれなくてはならない
断定がここちよい。「……いけない/ならない」の繰り返しが断定を強めている。
三行目の「倍音」は、その声がひとつではないということを語っている。したがって世界には複数の声があることになる。「音程」を聞くだけではなく、中谷は複数の音を聞き、それが「倍音」になっていることに気がつく。「声」から「音程」へ、「音程」から「倍音」へとことばが動くとき、耳が動き、耳がこころになっていく。ものの見方(聞こえ方)が違ってくる。そこに発見がある。
こういう詩を読むと、私は、その声の発見が音程の発見、倍音の発見へと加速し(?)、さらに新しい音を発見することを期待するのだが、中谷はちょっとまじめすぎて、ことばを暴走させない。立ち止まらせてしまう。そのためにせっかくの「倍音」が「倍音」ではなく、別々の「音」になってしまう。分離してしまう感じがする。それが残念である。
どういうことか。
実は、いま引用した三行の前に、「声」が「音程」に、「音程」が「倍音」にかわる瞬間のことが書かれているのだが、それが「瞬間」ではなく「時間の経過」になっているというか、余分なものを迂回しているために「瞬間」が「瞬間」でなくなっているところがある。「瞬間」を否定してしまっているために、せっかくの「音楽」が耳には聞こえてこない。「楽譜」を見ているような感じになる。「倍音」を「楽譜」に書いて確かめているような感じだ。
その、問題の一連目。
きれいな声が聞こえた
銀杏の葉が色づく夕暮れに
さようなら サヨウナラ
別れの練習をしているような よくとおる女の子の声
さようなら サヨウナラ
応えるように 別のほうから声変わりする前の男の子の声
おそらくは
二人はいっしょに居たのではなかった
別々の友だちと遊んで
偶然 別れた時間が同じだったのだろう
書いてある「状況」はとてもよくわかる。
私が疑問を感じるのは、「おそらくは」「偶然」「だろう」という「断定」から遠いことばである。「事実」かどうかわからないから(中谷は声を聞いているだけだから)、その「わからない」ことを「正確」に「推測」している。その「推測」の「時間」のなかに中谷が割り込んできてしまう。「頭」が割り込んできてしまう。
「声」「音程」「倍音」を聞いたのは、耳そのもの。耳と音が一体になって「瞬間」をつくりだしている。その「一体としての瞬間」を中谷は、わざわざ「分離」している。それが、どうも、私にはおもしろくない。
「おそらくは」「偶然」「だろう」を消してみると、詩は、どうかわるか。
きれいな声が聞こえた
銀杏の葉が色づく夕暮れに
さようなら サヨウナラ
別れの練習をしているような よくとおる女の子の声
さようなら サヨウナラ
応えるように 別のほうから声変わりする前の男の子の声
二人はいっしょに居たのではなかった
別々の友だちと遊んで
別れた時間が同じだったのだ
読む人によって印象は違うかもしれないが、私は、ない方がことばが早く動いているように感じられる。そして、そのスピードに誘われて、そこで起きていることに引き込まれる。「おそらく……だろう」という構文では、そこで起きていることよりも、それを聞いている(想像している)中谷の姿の方が見えてきて、かんじんの中谷の体験したものが間接的になる。読者(私)は「できごと」と「一体」になるのではなく、中谷と一体になってしまう。
詩というのは、もちろん書いた人(詩人)と一体になる体験だけれど、詩人と一体になるだけではなく、書かれていることと一体にならないことには、真に詩人と一体になったとは言えない。
せっかく「時間が同じ」と「同じ」ということばをつかっているのだから、その「同じ」を強く掴み取らないといけない。
「別れた時間が同じ」というのは、表面的には「別れた瞬間(たとえば午後五時ちょうど)」が「同じ」という意味だが、これを「同じ時間」と読み替えてみると、とてもおもしろくなる。それまで「いっしょに遊んでいた人間が別れる」という「経過そのものとしての時間」が「同じ」になる。そして、そういう「ひとの肉体をとおして動いている時間」が「同じ」だからこそ、「声」が「倍音」になる、ということがおきる。「倍音」の「秘密」のようなものが「同じ時間」の「同じ」のなかに見えてくる。
「いっしょに楽しく遊ぶ」という「同じ楽しさ」をしてきたから「倍音」になる。公園で遊んでいるこどもの「さようなら」と、むずかしい商談がもつれ、もう一度会って話をつめることを決めたおとなの「さようなら」では「倍音」という現象はおきない。
「同じ時間」だからこそ、「倍音」がおきる。
知らないひとの「肉体」が体験する「同じ時間」が「倍音」を引き起こすのである。
これをさらに押し進めて考えると。
「倍音」を聞いたとき、ひとは「個別の音」のなかにある「同じ時間(同じ経験/同じ感情)」を聞くのである。「音」そのものではなく「音の奥にあるもの/音を生み出す何か」を聞くのである。それは「耳」で聞き取るのだけれど、「耳」だけではなく「こころ」で聞くということでもある。「耳」と「こころ」が「ひとつ(一体)」になって、「音のなかの来歴」を掴み取るのだ。
そうであるからこそ、
世界の声には音程がある
それが美しいときは 耳を澄まさなくてはならない
声に倍音を聴いたとき 心打たれなくてはならない
と最初に引用した三行のように「耳」の体験が「心」で言い直されるのである。
とてもおもしろいことを書いているはずなのに、それを邪魔することばが多い。きっと中谷は真面目すぎるのだろう。推測したことを「違っている」と言われるのを心配しているのだろう。他人を気づかってことばを動かしては詩にならない。他人を突き破ってしまわないと詩とは言えない。他人を突き破って、その衝撃で自分自身も変わってしまう。生まれ変わる。それが詩である。「推測」なんかしていてはいけない。
桜に偲ぶ―中谷泰士詩集 (新・北陸現代詩人シリーズ) | |
中谷泰士 | |
能登印刷出版部 |
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谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
panchan@mars.dti.ne.jp
へメールしてください。
なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4400円)と同時購入の場合は4500円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。