詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナンシー・マイヤーズ監督「マイ・インターン」(★★+★★)

2015-10-14 22:02:38 | 映画
ナンシー・マイヤーズ監督「マイ・インターン」(★★+★★)

監督 ナンシー・マイヤーズ 出演 ロバート・デ・ニーロ、アン・ハサウェイ

 隣の席の女性(ひとりで見に来ていて、ポップコーンを食べながら見ている)が途中ですすり泣きをはじめた。アン・ハサウェイが夫の浮気に苦悩し、ロバート・デ・ニーロに訴えるシーン。えっ、でも、この映画って、そういう映画? 泣くための映画?
 びっくりしたなあ。
 そのあともアン・ハサウェイの感情の起伏に合わせて泣いている。
 うーん、この映画はキャリアを築いた女性の恋愛苦悩映画だったのか、と私は考え込んでしまった。
 もし、そうなのだとすると、これはかなり手の込んだ「恋愛」である。アン・ハサウェイは結婚していて、こども(娘)がいる。彼女自身は誰か新しい男を好きになる、というわけではない。専業主夫(育メン?)をやっている夫が浮気をする。そのことに苦しむのであって、彼女自身が誰かを好きになって苦悩するのではない。自分のなかの、抑えきれないときめき(感情)に、自分を見失うわけではない。
 こういうときでも、やはり「恋愛」なのだろうか。女の恋愛は、いま、好きな男を獲得するということがテーマではなく、好きな男をどこまで自分につなぎとめておくか、ということがテーマになったのか。
 ほおおっ、と思った。
 で、これが「仕事」とパラレルになっている。
 アン・ハサウェイは自分でアパレルの仕事をはじめ、企業にまで育てた。拡大のスピードが速すぎて、もう彼女だけでは経営を把握しきれない。そこでCEOを雇い入れることにする。雇い入れるといってもCEOがくれば、彼女がその指揮下に入ってしまう。簡単に言うと「部下」になってしまう。これは、ようするに好きな仕事(恋人)を他人に奪われること、「失恋」に似ている。夫の浮気は、夫が恋をしたのか、相手の女が夫を奪ったのか、まあ、どっちでもいいが、夫が他人のものになるという点で、CEOとアン・ハサウェイが築き上げた会社の関係に似ている。
 こういうこと、つまり、自分が築いてきた会社をだれかに乗っ取られる(?)という苦悩は、これまでは男社会のものであった。それが女の起業家の問題になるくらいにまで女性の社会進出が進んだということを、この映画は「恋愛」と重ね合わせる形で描いているのである。
 隣の女が泣かなかったら、このことに私は気がつかなかっただろうなあ。単なるコメディーと思って映画を見つづけただろうなあ。
 ロバート・デ・ニーロがもういちど会社で働いてみる気持ちになる。自分よりはるかに若い世代といっしょに働き、とまどい、そこに「笑い」が生まれる。その「笑い」をロバート・デ・ニーロがさまざまな表情で彩って見せる。そこにもし恋愛がからんでくるとしても、ロバート・デ・ニーロをアン・ハサウェイが好きになる、というようなことだと想像していた。
 ところがねえ。映画はもっともっと「現実的」。70歳(ほんとうはもっと年を取っている?)のアン・ハサウェイに30代のアン・ハサウェイは恋などしない。ロバート・デ・ニーロにはレネ・ルッソという、それなりに年をとった女が恋をする。レネ・ルッソを登場させ(しかもセックスまで匂わせ)、アン・ハサウェイの「恋」なんか、最初から封じ込めている。
 これは、これは……。
 ロバート・デ・ニーロが出るから「古くさい」映画だとばかり思っていたが、(実際、ロバート・デ・ニーロの見せる表情の百変化は「古い」のだが)、これはこれまでのハリウッド映画の「定型」を壊したところで動いている。
 まったく新しい映画なのだ。
 マンハッタンではなく、いま急激に変化しているブルックリンを舞台にしているのも、「新しさ」を描くには重要なことなのだろう。

 それにしても。
 もし、映画館で見なかったら、つまり隣に若い女が座り、その女がアン・ハサウェイの感情の動きに合わせて泣かなかったら、このことに私は気がつかなかっただろうなあ。アン・ハサウェイはわたしの好きな女優ではないし、ロバート・デ・ニーロは嬉々として演じているが、その表情には新しいものがあるわけではないし、せいぜいが★2個の映画である。
 でも、映画館で見て、あ、そうなのか、と気づかされた。他人の見方に反応して、私自身の見方が変わってしまった。映画館で映画を見る楽しみは、こんなところにもある。
               (t-joy博多・スクリーン8、2015年10月14日)






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山本和子「扉の言葉」ほか

2015-10-14 00:39:11 | 詩(雑誌・同人誌)
山本和子「扉の言葉」ほか(「扉」5、2015年08月10日発行)

 山本和子「扉の言葉」が掲載されている「扉」には「金井教室作品集」と書かれている。山本は、金井雄二の教室で詩を学んでいるのだろう。
 その作品。

巨樹巨木を見に行く
わたしの扉が開きました
年を重ねるごとに
好奇心が生まれることに
感謝
詩を書き続ける仲間に
大感謝
なにより元気な自分に感謝
巨樹巨木にお礼まいりと
やさしいわたしになりますように
願かけをしてきます
そして怖い詩が書けますようにと

 最後の「怖い詩」がおもしろい。その二行前には「やさしいわたし」ということばがある。「やさしい」と「怖い」は反対のことばではないが、反対に近いと思う。一種の相反するものが「わたし」を中心にしてつながっている。その振幅の大きさのようなものが、きっと詩の「手がかり」というか「入り口」のようなものなんだろうなあ、と思う。
 「やさしい詩が書けますようにと」だったら、きっとおもしろくない。「やさしいわたし」が「やさしい詩」を書くと、嘘っぽい。この嘘っぽいは、ちょっと説明がむずかしい。わかりきっていて、どきっとしない、ということかもしれない。わかりきっているので、わかりきっていることを言われると、逆に警戒してしまう。身構えてしまう。それは、もしかすると「書いたひと」ではなく「読むひと」の問題かもしれないのだけれど。あ、私の問題なのかもしれないけれど。書いたひとのことばのなかに「嘘」があるというよりも、「身構える」私の何かが「嘘」を呼び寄せるのかもしない。「怖い」と、この「身構え」ができない。「身構える」前にやってくるから、「怖い」のだ。
 「怖い詩」というのは、読者が「身構える」前に、読者にとどくことば、と言い換えることができるかもしれない。そうだね、そういうことばが書きたい。私も。
 この最終行の前にも、耳を澄ますと聞こえる「声」がある。「怖い」声がある。

わたしの扉が開きました
年を重ねるごとに
好奇心が生まれることに

 この三行のうちの「扉が開く」というのは「比喩」。それは「好奇心」と言い直されている。年を重ねるごとに「好奇心が生まれ」、「わたしの扉が開く」。どこに向かって? 「知らない世界」へ向かってである。その「知らない世界」というのは「知らない」がゆえに、「怖い世界」である。
 「好奇心」とは「怖いもの見たさ」のことである。
 詩を書いていると(仲間と詩を書いていると)、だんだん、「知らない世界」が見えてくる。わっ、怖い。どきどきする。でも、不思議と楽しい。わたしも他人を(仲間を)びっくりさせてやりたい。怖がらせてみたい。
 それは「巨樹巨木」の「巨」のようなものかな? 「怖い」というのは。いままで見たことがない何か。「樹/木」を超える「巨」のようなものかな? そういものがあるのは、わかっている。けれど、まだ「肉眼」では見たことがない何か、あるいは「肉眼」でしか見ることのできない何か、かもしれない。
 読みながら、ことばが互いに呼び掛け合っている--その声が聞こえる詩である。

 「いいこと」という作品は、足を骨折したときの一日を書いている。どこにでもありそうな「一日」である。

足を骨折して
いいことがあったのか

娘が来てくれたこと
一日が長いこと
夫が食事を作ってくれること
そんなことでは
ストレスは発散しきれないが
食事制限はなし
ギブスを付けてれば痛くもなし
と 一生懸命に自分に言い聞かす

ベランダから隣の双子の赤ちゃんの
泣き声が聞こえる
窓の向こうの夕空は
丹沢の山並をくっきりと画き
赤色の残るしっとりとした中に
一個、星が見える

めしが出来たぞ

 一、二連目は「散文」的である。「詩」の要素(?)は見当たらない。三連目も、書き出しは「散文」っぽい。
 ところが、

赤色の残るしっとりとした中に

 この一行は、どう? 「しっとり」は、どう?
 「しっとり」というのは「しっとり」濡れる、ということば(慣用句)があるくらいだから、「水分」となじみやすい。「しっとり」した肌といえば、水分が保たれた肌のことだ。
 でも、夕焼けの赤の「しっとり」は、どうだろう。「水分」を含んでいるのか。たぶん違うだろう。
 なぜ、「しっとり」と山本は書いたのだろう。「しっとり」とは、どういうことを指しているのか。
 「しっとり」水分を含んだ肌、水分を保った肌、ということばにもどってみようか。「しっとり」は「保つ」ということばとつながっている。「保つ」は「安定している」であり、「落ち着いている」でもある。「保つ」は「たくさん持つ」であり、「たくさん持つ」は「充実」でもある。「充実」は「濃密」でもある。落ち着いて充実している、静かな、濃密な、赤。
 たぶん、そういうことだろなあ、と私は想像する。
 で、それではなぜ、山本には「夕焼けの赤」が、その日「しっとり/充実/濃密」としたものに見えたのか。空がたまたまそういう状態だった、と言えばそれまでだが、きっと違う。
 「娘が来てくれた」「夫が食事をつくってくれる」というのは、「家族」が「家族」としての関係を「保つ」ということかもしれない。そんなことをしなくても「家族」ではあるのだけれど、なんとなくすごしていた「家族」がいつもよりも「近く」に集まって、「家族」という関係を「濃密」にしている。この「濃密(家族の充実)」が、「しっとり」とつながっている。
 こんなことがことばになるのは、山本が「やさしい」ひとだからである。「家族」というものに、非常に敏感なひとだからである。そして、その「敏感」がそのまま「しっとり」に深い陰影を与えるのだが、この陰影の与え方は、「怖い」と言えば「怖い」。そんな言い方を私は知らなかった。そんなときに「しっとり」ということばをつかうことを知らなかった。気づかなかった。そのくせ、そういわれると、その通りと思ってしまう。ぐい、っと引き込まれた。それ以外のことばはない、と思った。そこからぬけ出せなくなってしまった。あ、怖い。

 「正直」をもって、ことばと向き合っているひとだと思った。山本の書いている作品を「現代詩」と呼ぶひとはいないかもしれない。けれど「現代詩」である必要はない。そこにはたしかな「詩」がある。それをどこまでも「正直」に動かしていけば、それでいいと思う。

朝起きてぼくは
金井雄二
思潮社

*

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