山本テオ『尻尾笑傅』(私家版、2015年10月28日発行)
山本テオ『尻尾笑傅』はタイトルにある通り、「尻尾」をテーマにした詩集。巻頭は「夢のしっぽ」。
こういう短い詩。ことばが、途中から、とぎれとぎれになる。うーん、夢のなかで起きていることを再現しようとすると、思い出せる部分が断片になってしまう。それが、このぽつりぽつりというリズムかな? 「先っぽ」というひとつのことばが「先っ/ぽ」と分断されると、それまで見てきたものが全部消える感じ、夢から覚める感じ。しかも「ぽ」という無意味な「音」だけになって終わるところが、とてもいいなあ。
一か所、その「分断」のなかに「七色の」というひとつながりのことばがある。ここから何を思う? 私は猫を思った。「七回生まれ変わる」と言われているせいかな?
で、私は「尻尾」の持ち主が猫だとばかり思って読んでいって、詩集の最後、「はじまり」で、ぎゃっと叫んでしまった。
えっ、犬?
私は犬が好きで、実際に飼ってもいるのだが、好きすぎて「犬」と思わなくなっているのか、犬に尻尾があると意識したことがなかった。意識が消えてしまっている。人間を見るみたいに「顔」しか見ていないということなのかもしれない。
犬だったのか、と、それこそ「最後」を「はじまり」として元にもどって読み直す。そうすると「テイルはんの告白」の最後の方、
とある。「洋服」を来ている犬は見かけるが、猫は見かけない。だから、ここで犬と気づくべきなのかもしれないが、「テイル」が語っているのだから、それはもう動物ではなく「人間」。「テイル」が比喩なのだから「着るもん(洋服)」も比喩。だから、この「テイル」が猫であってもかまわないと、私は思う。
だいたい、
という書き出しの「関西弁」。犬が関西弁を話す? 関西弁を話すなら猫だな。犬はちゃんとした標準語を話す。
と、思うのは、私だけだろうか。
犬は意思の疎通ができる。だから標準語。
関西弁というのは「わがまま」で「自分、自分、自分」というばっかりで、何を言っているかわからない。猫そっくり。
と思うのは、私が猫が嫌いだからだろうか。
うーん、変なところで、私の「好み」が出てしまったなあ。「地」が出てしまったなあ、と思った。私の「地」なんか、感想を書かなければ、そのまま隠しておけるのだけれど、隠すほどのこともないし、むしろ「猫嫌い」を知ってもらった方が助かるので、こうやって書いているのだが……。
そうか、詩を読む(ことばを読む)ということは、作者のことがわかるというよりも、自分の何か(「地」、つまり奥底にあるもの)を確かめることなんだなあ、と改めて思った。
でもねえ。たとえば「テイルさんの告白」。尻尾を「三本目の手」と書いたあと、
と書かれると「猫の手も借りたい」という慣用句を思い出さない?
どうしたって、「テイルさん」は猫だなあ。
で、ちょっと、あっちへ行ったりこっちへ来たり。「地」が出るというか、自分が出てしまう、自分を出してしまうということについて。同じ「テイルさんの告白」の最後の方、
ここに山本テオの「テオ」が出てくる。軽いだじゃれ、笑い話のようだが、これがこの詩集の「性質」なのだろう。
互いに「地」を出し合って、そうだったんだ、と笑えばいいのだろう。
山本テオ『尻尾笑傅』はタイトルにある通り、「尻尾」をテーマにした詩集。巻頭は「夢のしっぽ」。
つかみそこね 壁の隙間に
消え て いっ た 七色の
先っ
ぽ
こういう短い詩。ことばが、途中から、とぎれとぎれになる。うーん、夢のなかで起きていることを再現しようとすると、思い出せる部分が断片になってしまう。それが、このぽつりぽつりというリズムかな? 「先っぽ」というひとつのことばが「先っ/ぽ」と分断されると、それまで見てきたものが全部消える感じ、夢から覚める感じ。しかも「ぽ」という無意味な「音」だけになって終わるところが、とてもいいなあ。
一か所、その「分断」のなかに「七色の」というひとつながりのことばがある。ここから何を思う? 私は猫を思った。「七回生まれ変わる」と言われているせいかな?
で、私は「尻尾」の持ち主が猫だとばかり思って読んでいって、詩集の最後、「はじまり」で、ぎゃっと叫んでしまった。
昨日は空き缶が落ちていた場所に
今日は一本の尻尾が落ちていた
白い毛は汚れているが猟奇的な感じはしない
猿のものか犬のものか聞かれたら犬だが
ちぎれてしまった以上もはや何者でもないだろう
こうして旅は始まるものだ
やがて
アスファルトから立ち上がり
飛び跳ねるのか転がるのか知らないが
それなりにどこかへ行くだろう
都会の舗道にはあらゆるものが落ちている
えっ、犬?
私は犬が好きで、実際に飼ってもいるのだが、好きすぎて「犬」と思わなくなっているのか、犬に尻尾があると意識したことがなかった。意識が消えてしまっている。人間を見るみたいに「顔」しか見ていないということなのかもしれない。
犬だったのか、と、それこそ「最後」を「はじまり」として元にもどって読み直す。そうすると「テイルはんの告白」の最後の方、
着るもんにええあんばいの穴を開けまして、穴から出しまして、こないな具合にちょろちょろ動かして見てもらいますとな、たいてたいていのお人は歯ぁだしてえらい喜びはりますねん、
とある。「洋服」を来ている犬は見かけるが、猫は見かけない。だから、ここで犬と気づくべきなのかもしれないが、「テイル」が語っているのだから、それはもう動物ではなく「人間」。「テイル」が比喩なのだから「着るもん(洋服)」も比喩。だから、この「テイル」が猫であってもかまわないと、私は思う。
だいたい、
いやぁ、かなわんわぁ、あれほどいうたのにそんなにびっくりしはってからに、
という書き出しの「関西弁」。犬が関西弁を話す? 関西弁を話すなら猫だな。犬はちゃんとした標準語を話す。
と、思うのは、私だけだろうか。
犬は意思の疎通ができる。だから標準語。
関西弁というのは「わがまま」で「自分、自分、自分」というばっかりで、何を言っているかわからない。猫そっくり。
と思うのは、私が猫が嫌いだからだろうか。
うーん、変なところで、私の「好み」が出てしまったなあ。「地」が出てしまったなあ、と思った。私の「地」なんか、感想を書かなければ、そのまま隠しておけるのだけれど、隠すほどのこともないし、むしろ「猫嫌い」を知ってもらった方が助かるので、こうやって書いているのだが……。
そうか、詩を読む(ことばを読む)ということは、作者のことがわかるというよりも、自分の何か(「地」、つまり奥底にあるもの)を確かめることなんだなあ、と改めて思った。
でもねえ。たとえば「テイルさんの告白」。尻尾を「三本目の手」と書いたあと、
例えば両手で煮えたぎった鍋を持ちながら、さらにもう一本の手で豆腐をすくったりできることが自慢といえばそうですが、
と書かれると「猫の手も借りたい」という慣用句を思い出さない?
どうしたって、「テイルさん」は猫だなあ。
で、ちょっと、あっちへ行ったりこっちへ来たり。「地」が出るというか、自分が出てしまう、自分を出してしまうということについて。同じ「テイルさんの告白」の最後の方、
私がきっぱりとこれは手ですと申し上げましても納得していただけず、たいていは尻尾だ、いや手だ、尾だ、手だ、手尾だ、と押し問答になるのが辛いものですから、
ここに山本テオの「テオ」が出てくる。軽いだじゃれ、笑い話のようだが、これがこの詩集の「性質」なのだろう。
互いに「地」を出し合って、そうだったんだ、と笑えばいいのだろう。