詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

エドワード・ベルガー監督「ぼくらの家路」(★★★★)

2015-10-04 20:00:30 | 映画
監督 エドワード・ベルガー 出演 イボ・ピッツカー、ゲオルグ・アームズ、ルイーズ・ヘイヤー

 育児を放棄した母親と二人のこどものストーリーだが、兄の行動をカメラはひたすら追っている。弟の世話をし、母親のことを気にかけている。幼いときから、弟の世話をするんだよ、と言い聞かされてきたのだろう。世話をしつづける過程で身につけてきた「暮らし方(生き方)」の強さがある。何もできない弟を助けないことには、弟は生きていけないということを知って、そう知った分だけ強くなっている。そして、ここで身につけた「強さ」が、いわば「あだ」のように働いている。母親さえも、彼にとっては「弱者」なのである。少年が支えなければ生きていけない。
 あ、つらいねえ。
 なんといっても、こども。母親に甘えたい。どんなにつらくても、母親が大好き。そして、母親も自分のことを大好きと信じ込んでいる。
 その少年が、預けられた施設をぬけ出し、弟といっしょに母親を探し回る。幼い弟を世話しながら、必死に街をさまよう。母の友だちは誰だったか、母の愛人は誰だったか、どこで働いていたか、覚えていることを思い出しながら訪ね歩く。その「肉体」の動きに、ひっぱりこまれる。「全身」で考え、「全身」で動く。その「真剣」に引きずり込まれる。ほかのものが見えなくなる。
 あ、逆だ。その「真剣」が照らし出す「社会」が見えてきて、ぞっとして、思わず少年になってしまうと言えばいいかもしれない。少年から見た「社会」の「絶望的な奇妙さ」が見えてくる。
 誰一人、少年たちに「親身」にならない。母親の昔の愛人(レンタカーの経営者)が少し親切なくらい。ほかの人たちは「自分のこどもではない」から関係ない、と冷たく突き放している。夜の街をさまよっている、駐車場の壊れた車のなかで眠っている、その姿を見かけても、だれも「どうしたのか」とは問わない。何か手助けできることはないのか、とは問わない。母のアパートの住人たちも、まるで少年がいないかのように振る舞っている、というか、まったく姿をあらわさない。
 うーん。
 「こどもは地域の宝」ということばが昔は日本にあったが、(最近では地域でこどもを見守る、という温かさは日本からも消えてしまったが)、ヨーロッパではどうなんだろう。そういう「地域の力」というものは、世界から消えてしまったのか。
 そんなことはないだろう、と思う。
 この映画は、少年の目から見た「世界」に限定しているのである。
 少年は、すでに、なんというか「自立」している。他人と接するとき「垣根」を持っている。それは少年が施設に入ったときに「いじめ」にあうシーンに象徴されている。「自立」が「すました」感じ、ひとりだけ「いい子」の感じになってあらわれる。それが嫌われる。みんな、だれかに甘えたい。その欲望を抱えて苦しんでいる。少年だけが「甘え」から「自立」しているように見える。幼い弟を世話しつづけてきた過程で身につけた「自立」である。
 それが、ある意味で、「おとな(地域)」を遠ざける。少年が「遠ざけた」街が、少年のまわりでくりひろげられる。それが、この映画だね。
 で、その少年が、どういう「目」で街を見ていたか。
 これは映画の途中はなかなかわからなかった。母親を探す「真剣」しか見えなかったから。
 ところが、ラスト。母親がアパートに帰っている。再会する。電話の話をする。そのとき、少年は母親が嘘をついていることを知る。それからの「目つき」の変化がすごい。「甘え」が消え「信頼」が消える。「自立」に拍車がかかる。母親が信頼に足る人間なのかどうかを見据える。顔が、がらりと変わるのである。
 そうか、少年は、母親以外の人間(社会)を、こういう目で見ていたのか。「おとな」の目をして、社会を見ていたのか。相手を見ながら、相手がどういう人間であるかを「判断」する。そういう目をしていたのか。だからこそ、大人たちは少年に声をかけられなかったのかもしれない。
 弟といっしょのシーン、弟を世話するときの目しかこころに残っていないかったが、これがほんとうの少年の目だったのだ。(施設でけんかするとき、施設のひとと話すとき、あるいは母親の友だちを訪ね歩くとき、そういえば、こういう目をしていた、と少しずつ思い出すのだが……。)
 最後、少年は、母を棄てる。母からも「自立」する。そして施設へもどることを決意する。弟をいっしょにつれていく。施設は嫌い。そこには「愛情」がない。しかし、そこには「嘘」もない。母親のように「嘘」をつかない。その「嘘のなさ」に少年は「自立」のすべてをかける。
 とても厳しい映画だ。
                      (2015年10月04日、KBCシネマ1)




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光冨郁埜「光る鱗」

2015-10-04 11:49:16 | 詩(雑誌・同人誌)
光冨郁埜「光る鱗」(「狼」26、2015年09月発行)

 光冨郁埜「光る鱗」を読みながら「わかる」と「わからない」の違いについて考えた。光冨の詩は行のはじまり、行のおわりがふぞろい。一行の中央がそろうように書かれているように見える。その形を再現するのは手数がいるので、ここでは行頭をそろえた形(ふつうの詩の形)で引用する。
 一連目。

一枚ずつわたくしの鱗を剥がしていくように
分かってもらえないならばと ひとつひとつ壊していくように
東の地に七月の風が 見えない海から吹かれて
北の玄関に吊り下げた 手首のように
鉄琴の音が生まれたときと同じ波として聞こえてきます

 冒頭の二行は印象的で、もっと「読みたい」という気持ちになる。しかし、それにつづく三行は、読む気持ちがそがれてしまう。文体が最初の二行と次の三行では違いすぎているように私には思える。
 冒頭の二行には、粘着質のものがある。「剥がしていく」が「壊していく」という動詞で引き継がれるので、「鱗を剥がす」ことが「わたくしを壊す」ことだと「わかる」。この「わかる」は、そういう読み方が「正しい(光冨の書こうとしていることを正確に把握している)」というよりも、私の気持ちが「そう読みたい」と言っているということである。「誤読」が暴走する、ということだ。
 「わたしくし」が「魚」だと仮定して、何かの理由で自分の「うろこ」を一枚ずつはがしている。なぜそんなことをするかというと、「あいて(男?)」が「わたくし」を理解してくれないからだ。「ほんとうのわたくし(鱗の下の、わたくしの内部)」をわかってもらうために、「わたくしの外側(外部)」を剥がしていく。それは「わたくし」を「壊す」ことになるのだが、たとえ「わたくしの外形(外部)」が壊れてとしても「内部」をわかってもらいたいという気持ちが、「剥がす」から「壊す」への、動詞の変化のなかにある。
 そのつづき。「外部」が壊れたあと、「内部」はどのように存在しつづけることができるか、ということを、同じ粘着力のある文体で「読みたい」。
 ところが「文体」がまったく違ってしまって、「読みたい」という気持ちが消える。
 一行目の「鱗」は「海」に、さらにそれが「波」へと変化しながら「わたくし」の存在を少しずつととのえる。「鱗」から私は「魚」を思った。それは「わたくし」の「比喩」である。その「比喩」が「海」「波」と呼応することで、より「魚」を明確にする……はずなのだが、明確になったという「実感」がぜんぜん感じられない。「魚」「海」「波」をつないでいるのは「頭」であって「肉体」ではないからだ。
 このことを「比喩」の別な形から見ていくと。
 冒頭の「比喩」は「剥がしていくように」「壊していくように」。これは「動詞+ように」という一種の「直喩」である。四行目の「手首のように」は「名詞+ように」というかたちの「直喩」である。どこが違うかというと「ように」ということばが「動詞」とつながっているか「名詞」とつながっているか、ということ。「動詞」とつながっているときは、「肉体」がその「比喩」にしたがって動く。けれど「名詞」とつながっているときは「肉体」が動かない。「手首」という「肉体」をあらわすことばがそこにあるのだけれど、「動詞」ではないので「肉体」がどう動いていいか、わからない。「目」で「名詞」があるということを確認するだけだ。(そこには「目」は書かれていないが、次の行の「聞こえてきます」が「耳」を刺激するので、私はここでは「目」が書かれているのだと確信する。つまり、「手首」が見える。)
 この「手首のように」から「手首を切る」(自殺の試み)を読むとき、最初に読んだ「壊していく」が重なる。そして、「わたくし」が「鱗(魚)」「海」「波」なのに対して、「わかってもらいたいひと(?)」が「東の地」の「地」であることも想像できるのだが、これはあくまで「頭」で「考えた」ことであって、「肉体」を動かして感じることではない。そこからは「肉体」が「覚えている」ことが動かない。「頭」が一生懸命、「事実/事件」を「婉曲的」に語ろうとしているということが「わかる」だけである。この「わかる」は「頭が疲れる」という形で「わかる」。あ、「頭」をつかって、ことばをうごかしている。「頭」で詩を書いているということが「わかる」のである。「手首」が「鉄琴」「音」という具合に、視覚が聴覚へと動いていくということがおきる。しかし、これは「肉体」の深いところでおきる感覚の融合ではなく 、「頭」でつくりあげた変化(目くらまし)である。
 二連目。

家具があるのに 収める場がないように
散らかった部屋の中央に
あなたのいないダブルベッドがかたむき
あなたを呼ぶわたくしの声なのか
ベッドのクッションに手鏡を寝かし
その弾力は生地のものなのか あなたのものなのか
聞こえない悲鳴の 夢からさめると
鏡にうつるあなたが赤子として眠っていました

 一行目に「収める場がないように」という「比喩」がある。「収める」「ない」という「動詞/用言」が「肉体」を刺激する。最終行に「赤子として」という「比喩」がある。これは一連目の「手首のように」と同じように「名詞」なので「肉体」を刺激して来ない。
 ここにいない「あなた」に何かをわかってもらいたい。そのために「わたくし」は「わたくし」を「壊す」ことさえしているのに……という「思い」は「頭」では「わかる」が、私は「肉体」では「わかる」ことができない。
 「声/悲鳴」(のど、口/耳)と「鏡」が「聞こえない(否定)」「うつる(/うつるのが見える肯定)」と「耳」「目」という形で反復されるとき、そこに「肉体」はたしかに存在はするのだが、「肉体」を動かす「動詞」が弱い。「剥がす」「壊す」というような「強さ」、能動がない。「頭部(目/耳)」を開くことで世界を受けいれるという受動しかない。
 この「比喩」の分裂が、私にはなんだか気持ちが悪い。「読みたい」という気持ちをそいでしまう。
 三連目。

あなたは頸骨を痛め
筋肉をねじらせ
わたくしは白い脚をからめます

 ここには「動詞」がある。「動詞」があると、「肉体」が動くので、おもしろい。ここに書かれているのは「記憶」なのだろうけれど、それを一連目の書き出しのように「比喩」にすると、世界はもっと生々しくなる。「比喩」というのは「事実」を隠すけれど、隠すことでよりあからさまになるものもある。
 おもしろくなるはずの詩を、光冨は「頭」で台無しにしている、と思った。未練(愛憎)というものは、粘っこいものである。もっともっと粘着力を強くして、粘着力のなかで身動きできずにもがいて死んでしまうというようなところまで「文体」が動いていくとおもしろいのに、ちょっともがいてみせては「頭」で息継ぎをしている。
 最初の二行がおもしろいだけに、読んでいてとても残念な気持ちになる。傑作になるはずの詩なのに、と悔しくなる。


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