詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩集「注釈」発売中

2015-10-17 10:19:19 | 詩集
読売新聞(西部版)文化面に、渡辺玄英さんが『注釈』への批評を書いてくれています。
同時に批評されている陶山エリさんは、この日記で何度か作品を紹介したことのある詩人です。
月一回の「現代詩講座@リードカフェ」で一緒に詩を学んでいる人です。
今月の講座は、10月21日(水曜日)午後6時から、福岡市中央区薬院(西鉄バス「薬院大通り」、福岡市営地下鉄「南薬院」の近く)。
講座への参加もお待ちしています。(panchan@mars.dti.ne.jp)




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カニエ・ハナ『用意された食卓』(2)

2015-10-17 10:16:56 | 詩集
カニエ・ハナ『用意された食卓』(2)(私家版、2015年09月30日発行)

 カニエ・ハナ『用意された食卓』から、もう一篇、読んでみる。「狐」。「毬」と同様、なぜ「狐」なのかわからないが気にしない。

イチジクの木立を継続し
丘陵はまだ、
秋の日差しの中で
輝いていた、両手を広げて、
残す、しかし、描ききれない、
新たに、昨日と同じ場所に座って、
薄い筆圧に
この圧倒的な
空気を描写する
ことができない、

 これは前半。
 私がこの詩を気にいっているのは「薄い筆圧に」という一行があるからなのだが、末尾の「に」が曲者である。ここで、つまずく。この「に」は何?
 「薄い筆圧」とは「弱い筆圧」のことだろうか。筆圧が弱いために書かれた「線」が「薄い」から「薄い筆圧」というのか。この「薄い筆圧」ということば自体に、何か「常套句(なじみのあることば)」をつまずかせるものがある。つまずきながら、「薄い」ということばがもっている、「弱い、小さい、はかない」というような「領域」を思う。
 そして、まず、その「薄い筆圧の領域(世界)」に、つまり、そういう世界の中「に」圧倒的な空気を「描写することができない」と読む。「圧倒的」は「薄い」と対極にあることばだろう。「圧倒的」なものは「薄い」ものを破ってしまう。破壊してしまう。だから、そこに何かを「描くことができない」。
 このとき「に」は「場所」をあらわす。
 また別なことも思う。「薄い筆圧に」のあとに「は」を補って読んでみる。「薄い筆圧」が「描かれる場所(領域/世界)」ではなく「主語」になる。「濃密な筆圧(強い筆圧/高い筆圧)」なら強い線で「描くことができる」かもしれない。けれど弱々しい筆圧(薄い筆圧)では、圧倒的なものを描くことができない。
 このとき「に」は主語を「限定」する。あるいは「手段」をあらわす。「で」と言い換えることもできる。

 どっちが正しい? 「に」は何?

 これは、しかし、あまり「意味」のない「問い」である。「答え」を出してみても、それは「正解」とは言えないし、また「間違い」とも言えない。
 それよりも、そういうことを考える瞬間、ことばが動く。ことばが動きながら、そこに「ある」ということ。あるいは、ことばが「生まれてくる」ということが「詩」なのである。
 これが「正解」、これは「間違い」ということにこだわっていては、ことばは動かない。「正解」かどうかは、それを読んだ瞬間の、その人の「あり方」そのものとかかわってくることであり、そのひとの「あり方」というのは、書かれていることばの側からは限定できないことである。書いたひと(カニエ)には書いたひとの「正解」があるかもしれないが、その「正解」にしたって、読んだひとが「違った」読み方をした瞬間には、一種の「訂正」を求められる。「正解」にこだわるとき、それを「言い直す」必要が出てくる。「いや、これは、こうこうこういう意味です」と言い直さないと、それから先に「対話(ことばのやりとり)」が不可能になる。

 脱線したかな?

 「薄い筆圧」の「薄い」ということば。この「なじみ」のない表現のなかに動いているのは何だろう。「に」について考えたあと(考えると同時に?)、そういうことも思う。「薄い」は「弱い/あいまい」という具合に読み直すことができるし、「圧倒的な」ということばの対比とも読むことができる。
 そして、この「圧倒的」ということばに目を向けると、

この圧倒的な

 「圧倒的」に「この」という「指示詞」がついていることに気がつく。「この」とは、直前に書かれた何かを指している。
 「この」は何?
 「圧倒的な」にいちばん結びつきやすいのは「輝いていた」という動詞。その「主語」は「秋の日差し」か、「イチジクの木立」か、あるいは「丘陵か」。さらには「名詞(存在)」ではなく「継続し(継続する)」という「動詞」かもしれない。
 目の前にある「世界」そのものが、からみあい、濃密(濃厚)になりながら押し寄せてくる。「そのようにしてある」という状態そのものが「この」であり、それが「圧倒的」である。つまり、「継続し」ということが「圧倒的」なのだ。世界は「継続し(連続し)」ている。そして、この一行目の「継続する」は二行目では「まだ」ということばで引き継がれてもいるのだから、「この圧倒的な」の「この」は「継続がそのようにしてある」ということを指していると読んでもいいだろうと思う。
 「そのようにしてある」「この圧倒的な/空気」。それは「描ききれない」。だから、描き「残す」。そして、その残したものと「継続する」ようにして、「新たに、(きょうも)昨日と同じ場所に座って」描こうとするのだが、「描写する/ことができない」。
 そう読むと、「薄い」と「圧倒的」ということばが向き合いながら、そこに「世界」を出現させていることが、なんとなく「わかる」。
 この「わかる」は、まあ、私の「誤読」なのだが。
 言い直すと、私は「薄い」と「圧倒的」ということばのあいだにあって、そこから秋の日差しのなかに見えているイチジクの木立だの、そのつらなりだの、丘だの、あるいは日差しそのものだのの「確かさ(強さ)」は「私の筆力(筆圧?)の弱さ(薄さ)」によって、さらに「圧倒的」になっている、というようなことを「肉体」で感じる。その「秋の光景」を自分の力では描ききれないということを、自分が覚えていることを思い出すように納得する、ということである。
 カニエの表現していることを「正確に」理解するというのではない。私は私の覚えていることを、カニエのことばをつかって動かしている。そして、そのことばにそって自分の「肉体」が動くということが「わかる」のである。

 詩はこのあと「夕暮れ(日差しの残り)」から夜へと動いていく。

光の強度によって異なる
イメージを修正する
月が消えるとき、
火を保持し
水を含浸させることにより
合成される
水の水脈
明るく、暗く、
呼ばれる
後にあるものの
すべての始まり

 カニエのことばにそって私の「肉体」が動きはじめた後なので、この後半は私には非常になじみのなる風景に見える。カニエ「狐」になって、日暮れから夜への世界の変化を見ている、のかもしれない。(タイトルに意味があるとすれば、そんなところだろう。)私は「狐」になった体験はないが、夜、月が出て、それまで隠れていた川(水)が遠くで光って流れるのを見たことがある。そんな風景を思い出した。
 ここでは「圧倒的」が「強度」と言い直されている。「薄い」と「圧倒的」は「異なる」「修正する」という「動詞」で言い直され、「消える」「保持する」と言い直され、「含浸される」「合成される」ととも言い直される。それらは「個別」の「意味」を追いかけても複雑になるだけだ。「強度の異なる」ものが向き合いながら、「そのようにしてある」ということである。それはどちらかに「統一」できない。
 「明るく」と「暗く」、「後(終わり/終わる)」と「始まり(始まる)」という対比も同じ。対極にあるものが出会い、出会うことでそこにひとつの「世界」が噴出する。
 「イメージ」ということばをカニエはつかっているが、私は「イメージ」というよりも、そこに「出会う」という「運動/動詞」を感じる。そこにある世界が動いている、その動きにカニエの肉体の鼓動が共鳴しているのを感じる。
 
*

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