財部鳥子『氷菓とカンタータ』(書肆山田、2015年10月10日発行)
どの詩について、どんな感想を書くかというのは、その日の気持ちで変わってしまう。きょうは財部鳥子『氷菓とカンタータ』の「牙刷子(はぶらし)」について書いてみる。書いてみると、私の場合は、たいてい途中で感想がかわる。書くこと、実際にことばを動かすことで、最初に読んだときには気がつくかなかったことに気がつく。そうすると、新しく気がついたことにことばがひっぱられて動いてしまう。
財部は、密偵であった父(阿形大尉)と、その日誌について書いている。
「日記」の部分を私は暗号とは思わずに読んだ。とてもおもしろい。申し訳ないが、財部が書いている財部自身のことばよりも詩を感じた。
「水道の栓をひねる。カーッと音がして水が出ない。」この描写の強さに引き込まれる。「カーッと音がして」という具体的な音が強い。耳が覚める。(目が覚めるという言い方があるから、耳が覚めるといういいかたがあってもいいだろう。)「カーッ」は何かを吐き出そうとしている。水道管の中で何かが目覚めようとしている、という感じもする。いかにも汚いホテルでありそうなことである。
そのあとの「満州人たちは牙刷子を片手に陸続と枯野をよぎっていくところだ。」の「牙刷子」はとても奇妙である。奇妙であるからこそ、財部はそれを「暗号」と理解し、次の連で「解読」しているのだが、私はそのまま「歯ブラシ」と思ってみる。昔、歯ブラシは木の枝の先端を細かくほぐしたものだったから、まあ、そういうものを噛んで歩いているのだろうと思った。そこから生々しい人間の「暮らし(暮らしの智恵)」が見えてきて、「肉体」が刺戟される。
その様子を見ながら、財部の父は唐辛子を噛んでいる。歯ブラシがないので、唐辛子で歯を磨いている。うーん、塩で歯を磨くは聞いたことがある。いや、それを聞いて、実際に磨いたこともある。そうか、塩の代わりに、唐辛子か……。しかし、殺菌にはなるかもしれないが、ちょっと厳しいかもしれない。次の行に「涙」が出てくるが、それこそ涙が出てくるかもしれない。辛すぎて。これも「暮らしの智恵」かもしれない。
ほんとうかどうかわからないが、唐辛子を噛んで歯を磨こうとしている人間が見えてくる。水道の「カーッと音がして」が強くて具体的なために、そのあとのことも「強い」まま迫ってくる。「カーッと音がして」という描写がなかったら、きっと歯磨きのこととは思わずに、「暗号」に違いないと思ったかもしれない。けれど「カーッと音がして」があるばかりに、「暗号」ではなく「事実」の描写のように思ってしまう。そう思いたい。
しかし、財部は冷静である。私のように、読みたいように読むわけではない。まず「日記」に書かれていることは「暗号」であると判断する。「密偵」なのだから、ふつうのひとと同じように「日記」を書くわけではない。読まれたら困るから。
で、
「汚いホテル」は「赤いホテル」、そしてその赤は「赤匪」の赤。
そうであるなら、(ここから、私はちょっと財部とは違う読み方をする)、「唐辛子」は「赤匪」をあらわしているかもしれない。「唐辛子」は「赤い」からね。
満州人は「歯ブラシ」を持って野を行く。その「歯ブラシ」はたしかに「銃」かもしれない。そういうひとの群れを見ながら、父親は何をするか。
つかまえた(?)赤匪のひとりを「噛んで」、つまり歯で噛むように傷つけながら、何か情報を引き出そうとしているのかもしれない。そういうことは楽しい仕事ではない。いやな気持ちに襲われるだろう。そのために、涙が出てくる……。
「暗号」ということばを財部が書かなかったら、そんなふうには読まなかったと思うが、暗号に誘われて、私は私なりにかってに読み直してまうのである。
「暗号」は一種の「比喩」である。財部は「歯ブラシ」を「銃」の「比喩」として読んでいる。「銃」を持たない(持っているかもしれないが、野を行く人たちが持っている銃とは形が違うのだろう)父は、「歯ブラシ(銃)」の代わりに唐辛子を噛む。
この唐辛子を財部がどう読んだか、よくわからない。何の比喩(暗号)として読んだのか、具体的に言い直していない。「解読」していない。
「暗号」という財部の詩的に誘われて、私は「唐辛子」は「赤匪」の比喩であると読み、その後の「噛む」と「清掃をする」という動詞に誘われてしまう。財部は実際に父を知っているし、中国大陸での体験もあるのだから、財部の読みの方が正しいのだろうけれど、私はスパイ映画などで見聞きしたことを、そこに重ね合わせてしまう。つまり、自分の読みたいように、自分に「わかる」ように読んでしまう。「わかる」というのは、自分が覚えていることを思い出すことなのである。
そして、そう読んだあと、私は財部の父の「日記」を「日記(事実)」ではなく「詩(文学)」として読んでいるということに気がつく。
私は何を読むときでも、ことばを詩として読んでしまっているのだろうなあ、と思うのである。「事実」を読み取るのではなく……。
そして、そうか、私は間違っているのか。でも、間違っているということが、妙に楽しいなあ、と思うのである。「現実」ではなく「文学」なんだから、こう読んでもいいだろうなあ、と思うのである。こういう読み方は財部にとっては迷惑かもしれないけれど。
詩には、まだつづきがある。その部分が、またおもしろい。
「歯ブラシ」から歯、「犬歯」が呼び出される。そして、犬歯を欠いている(穴がある)という「肉体」が呼び出され、そこに財部は自分自身の歯の欠落(歯の痛み)を重ねている。そこに「赤い唐辛子」が呼び出される。
このとき「赤い唐辛子」とは何?
財部は、やはり書いていない。
大陸で知り合ったひとびと、その人たちに日本人が与えてきた苦痛のことか。そういう苦痛を思い出し、自分の痛みに重ね合わせるということ、重ね合わせ日本人として反省するということか。
私は、ここでも、財部の「思い」を無視して、自分の「妄想」を押し広げてみたい。「誤読」を拡大したい。
「唐辛子を噛む」というのは、「口から血を流す」ということかもしれない。歯を折られたら、血が出る。父は、誰かの歯を折って口から血を流させたことがあったかもしれない。同じように誰かから歯を折られ口から血を流すことがあったかもしれない。そのときの「血の赤」が「唐辛子の赤」であり、そのときの「痛み」が「唐辛子を噛んだときの痛み(刺戟)」かもしれない。
歯が折れて抜けたあとの、歯茎の穴。それは「折られたときの苦痛」であると同時に「折ったときのいやな記憶」かもしれない。ふたつは、分けることができない。どちらかだけを思い出すことはできない。
この分離不能の哀しみが「憂愁」と呼ばれるものかもしれない。
財部が引用している父の「日記」がそんなことを感じさせる。「日記」に書いてある「事実」はわからないが(解読できないが)、わからないからこそ、詩として読んだときにおもしろい。わからないから詩なのだ。
そして、わからないから詩であるのなら。
私が財部の作品を読みながら「わからない」と感じた部分、財部が「唐辛子」を何の比喩と解読したのか、その語られなかった(?)部分にこそ、財部の詩があることになる。その詩に近づく手がかりを他の作品に見つけることができるか--これは私の明日の課題だ。
*
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どの詩について、どんな感想を書くかというのは、その日の気持ちで変わってしまう。きょうは財部鳥子『氷菓とカンタータ』の「牙刷子(はぶらし)」について書いてみる。書いてみると、私の場合は、たいてい途中で感想がかわる。書くこと、実際にことばを動かすことで、最初に読んだときには気がつくかなかったことに気がつく。そうすると、新しく気がついたことにことばがひっぱられて動いてしまう。
財部は、密偵であった父(阿形大尉)と、その日誌について書いている。
二十六歳の父の残したノートのページは黄変してけば立ってい
た。八十年前のブルーのインキの文字は、石積みの大きな廃墟
のように砕けた不確かな文字で命がけの何かを告げていた。
「余は青堆子(チントイツ)城外の汚いホテルに宿泊した。
朝起きて水道の栓をひねる。カーッと音がして水が出ない。
仕様ことなしに窓を覗くと満州人たちは牙刷子を片手に陸続
と枯野をよぎっていくところだ。空になにかがとよもしてい
る朝にいじらしい。
余は唐辛子をたくさん噛んで歯の清掃をしようとした。
憂愁の涙で空はみるみる曇っていった」
この暗号文は非常に難解である。
「汚いホテル」とは蓋し「赤いホテル」、赤匪のひそむホテルの
ことだと思われる。
「唐辛子」とはすなわち「牙刷子」、歯ブラシのことであろう。
しかし、枯野を過って行く彼らは「牙刷子」ではなく、銃を持
っていたのに相違ない。
陸続と赤匪の群れは集結しはじめていた。
当時、阿形大尉は青堆子軍閥の規模偵察に従事していた。
「日記」の部分を私は暗号とは思わずに読んだ。とてもおもしろい。申し訳ないが、財部が書いている財部自身のことばよりも詩を感じた。
「水道の栓をひねる。カーッと音がして水が出ない。」この描写の強さに引き込まれる。「カーッと音がして」という具体的な音が強い。耳が覚める。(目が覚めるという言い方があるから、耳が覚めるといういいかたがあってもいいだろう。)「カーッ」は何かを吐き出そうとしている。水道管の中で何かが目覚めようとしている、という感じもする。いかにも汚いホテルでありそうなことである。
そのあとの「満州人たちは牙刷子を片手に陸続と枯野をよぎっていくところだ。」の「牙刷子」はとても奇妙である。奇妙であるからこそ、財部はそれを「暗号」と理解し、次の連で「解読」しているのだが、私はそのまま「歯ブラシ」と思ってみる。昔、歯ブラシは木の枝の先端を細かくほぐしたものだったから、まあ、そういうものを噛んで歩いているのだろうと思った。そこから生々しい人間の「暮らし(暮らしの智恵)」が見えてきて、「肉体」が刺戟される。
その様子を見ながら、財部の父は唐辛子を噛んでいる。歯ブラシがないので、唐辛子で歯を磨いている。うーん、塩で歯を磨くは聞いたことがある。いや、それを聞いて、実際に磨いたこともある。そうか、塩の代わりに、唐辛子か……。しかし、殺菌にはなるかもしれないが、ちょっと厳しいかもしれない。次の行に「涙」が出てくるが、それこそ涙が出てくるかもしれない。辛すぎて。これも「暮らしの智恵」かもしれない。
ほんとうかどうかわからないが、唐辛子を噛んで歯を磨こうとしている人間が見えてくる。水道の「カーッと音がして」が強くて具体的なために、そのあとのことも「強い」まま迫ってくる。「カーッと音がして」という描写がなかったら、きっと歯磨きのこととは思わずに、「暗号」に違いないと思ったかもしれない。けれど「カーッと音がして」があるばかりに、「暗号」ではなく「事実」の描写のように思ってしまう。そう思いたい。
しかし、財部は冷静である。私のように、読みたいように読むわけではない。まず「日記」に書かれていることは「暗号」であると判断する。「密偵」なのだから、ふつうのひとと同じように「日記」を書くわけではない。読まれたら困るから。
で、
「汚いホテル」は「赤いホテル」、そしてその赤は「赤匪」の赤。
そうであるなら、(ここから、私はちょっと財部とは違う読み方をする)、「唐辛子」は「赤匪」をあらわしているかもしれない。「唐辛子」は「赤い」からね。
満州人は「歯ブラシ」を持って野を行く。その「歯ブラシ」はたしかに「銃」かもしれない。そういうひとの群れを見ながら、父親は何をするか。
つかまえた(?)赤匪のひとりを「噛んで」、つまり歯で噛むように傷つけながら、何か情報を引き出そうとしているのかもしれない。そういうことは楽しい仕事ではない。いやな気持ちに襲われるだろう。そのために、涙が出てくる……。
「暗号」ということばを財部が書かなかったら、そんなふうには読まなかったと思うが、暗号に誘われて、私は私なりにかってに読み直してまうのである。
「暗号」は一種の「比喩」である。財部は「歯ブラシ」を「銃」の「比喩」として読んでいる。「銃」を持たない(持っているかもしれないが、野を行く人たちが持っている銃とは形が違うのだろう)父は、「歯ブラシ(銃)」の代わりに唐辛子を噛む。
この唐辛子を財部がどう読んだか、よくわからない。何の比喩(暗号)として読んだのか、具体的に言い直していない。「解読」していない。
「暗号」という財部の詩的に誘われて、私は「唐辛子」は「赤匪」の比喩であると読み、その後の「噛む」と「清掃をする」という動詞に誘われてしまう。財部は実際に父を知っているし、中国大陸での体験もあるのだから、財部の読みの方が正しいのだろうけれど、私はスパイ映画などで見聞きしたことを、そこに重ね合わせてしまう。つまり、自分の読みたいように、自分に「わかる」ように読んでしまう。「わかる」というのは、自分が覚えていることを思い出すことなのである。
そして、そう読んだあと、私は財部の父の「日記」を「日記(事実)」ではなく「詩(文学)」として読んでいるということに気がつく。
私は何を読むときでも、ことばを詩として読んでしまっているのだろうなあ、と思うのである。「事実」を読み取るのではなく……。
そして、そうか、私は間違っているのか。でも、間違っているということが、妙に楽しいなあ、と思うのである。「現実」ではなく「文学」なんだから、こう読んでもいいだろうなあ、と思うのである。こういう読み方は財部にとっては迷惑かもしれないけれど。
詩には、まだつづきがある。その部分が、またおもしろい。
あの「嗤うべき荒唐無稽の風土」で父は誰かと喧嘩して犬歯を
折っている。その記述をみつけたとき、わたしは彼の口腔の状
況がたちまち分かった。口のなかは幾つかの小さな穴のある笛
のようなものだ。穴は一つ一つ蛇に塞がれている。いやあれは
蛆虫かもしれない。
わたしも口腔にそのような空洞を一つならず持っていて、痛み
に耐えられないときがあり、無意味な赤い唐辛子を待っている。
「歯ブラシ」から歯、「犬歯」が呼び出される。そして、犬歯を欠いている(穴がある)という「肉体」が呼び出され、そこに財部は自分自身の歯の欠落(歯の痛み)を重ねている。そこに「赤い唐辛子」が呼び出される。
このとき「赤い唐辛子」とは何?
財部は、やはり書いていない。
大陸で知り合ったひとびと、その人たちに日本人が与えてきた苦痛のことか。そういう苦痛を思い出し、自分の痛みに重ね合わせるということ、重ね合わせ日本人として反省するということか。
私は、ここでも、財部の「思い」を無視して、自分の「妄想」を押し広げてみたい。「誤読」を拡大したい。
「唐辛子を噛む」というのは、「口から血を流す」ということかもしれない。歯を折られたら、血が出る。父は、誰かの歯を折って口から血を流させたことがあったかもしれない。同じように誰かから歯を折られ口から血を流すことがあったかもしれない。そのときの「血の赤」が「唐辛子の赤」であり、そのときの「痛み」が「唐辛子を噛んだときの痛み(刺戟)」かもしれない。
歯が折れて抜けたあとの、歯茎の穴。それは「折られたときの苦痛」であると同時に「折ったときのいやな記憶」かもしれない。ふたつは、分けることができない。どちらかだけを思い出すことはできない。
この分離不能の哀しみが「憂愁」と呼ばれるものかもしれない。
財部が引用している父の「日記」がそんなことを感じさせる。「日記」に書いてある「事実」はわからないが(解読できないが)、わからないからこそ、詩として読んだときにおもしろい。わからないから詩なのだ。
そして、わからないから詩であるのなら。
私が財部の作品を読みながら「わからない」と感じた部分、財部が「唐辛子」を何の比喩と解読したのか、その語られなかった(?)部分にこそ、財部の詩があることになる。その詩に近づく手がかりを他の作品に見つけることができるか--これは私の明日の課題だ。
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