詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大江麻衣『変化(へんげ)』

2015-10-30 10:12:22 | 詩集
大江麻衣『変化(へんげ)』(マイナビ現代詩歌セレクション17)(マイナビ出版、2015年11月01日発行)

 大江麻衣『変化(へんげ)』は文体が独特である。そこに書かれている「ストーリー」というか、ひととひととの関係、時間の流れ、つまり「事件」というものは「小説」のように明確ではない。けれど、そこで動いている「こころ」はくっきりとつたわってくる。「ストーリー」を突き破って、「こころ」が動いている。それが「わかる」。
 「恋病(こいやみ)」(注・「恋」を大江は「正字/旧字」で書いている)。

感謝も死にたい気持ちもすぐに忘れてしまう
恋の前では意味がない その人以外は

 これは恋をしたときの「こころ」をそのまま書いている。何があったかわからない。そのひとに感謝したことがある。絶望して死にたいと思ったこともある。けれど、そういう「事件/曲折(?)」はすぐに忘れてしまう。その人がいるということ、そのことだけが大事であり、過去は消えてしまう。
 で、このとき「こころ」が動いているのが「わかる」と私は書いたのだが。
 「わかる」と書きながら、実は、私はとまどっている。私は「こころ」とか「精神」とかの存在を信じていない。そんなものがあるとは思っていない。
 私は何に反応したのか。
 「忘れてしまう」という「動詞」に反応している。「忘れる」という動詞は「意識」の動きのように見えるけれど。「こころ」や「精神」が「忘れる」の「主語」のように見えるけれど、私は違うと思っている。
 そのひとに夢中になり、そのひと以外は見えなくなる。「恋闇」か。「闇」は見えなくなる、だね。その「見えない」を「忘れる」という動詞で言い直している。「見えない」ことが、何かを「遠ざける」。「過去」にする。「忘れてしまう」。
 ここには「見る」という動詞と「目」という「肉体」が動いている。その「肉体」を私は強く感じる。どんな「ストーリー(事件)」があったのか、私にはわからないが、「いま/ここ」に大江がいて、その「肉体」が恋人と向き合っていて、そのとき大江の「目」は「いま/ここ」にいる恋人だけを見つめている。それまで見てきた恋人を、どこか遠くへ遠ざけ、見えないようにしている。「忘れている」。その「目」と「肉体」の関係が、ぐいっと迫ってくる。
 これには、「恋闇」というタイトルが影響している。「恋」というタイトルなら、違ったことを感じたかもしれない。「闇」という「名詞」が含む何か、「肉体」とのつながり、「闇」のなかに含まれる「動詞(見えない)」が、そんなふうに私の「肉体」を刺戟してきたのだ。大江の「肉体」に私の「肉体」が重なって、それが「こころ」であるように錯覚して、「ストーリーをこころが突き破って動く」ということばになったのだ。
 「こころ」などない。「肉体」だけが存在する。その「肉体」の存在感を、大江のことばは「ストーリー」を無視して浮かび上がらせる。このことを逆に言うこと、「肉体」が動く。そうすると、そのあとに「ストーリー」は遅れてやってくる。
 季村敏夫は阪神大震災のあと『日々の、すみか』のなかで「出来事は遅れてあらわれる」と書いたが、それは大震災のような事件だけではなく、恋のような個人的なことがらにおいても同じなのだ。

手紙なんども読む 角度かえて読む 顔ちかづける 違う意味
になったり戻ったりする
手紙だいじにする なんども読む
毎日同じでもいらいらしない 手紙は
忘れないことが肝心なので どこにしまおうか
いつの間にか だらしない手紙書いて
みんな貸すつもりのない傘ぶらさげて 恋は一人でするもの

 手紙を何度も読む。読むたびに「出来事」があらわれてくる。体験した出来事の「意味」が遅れて「わかる」ようになる。それが「あらわれる」。
 このときの「読む」という「動だかもしれないが、「読む」が「読解(理解する)」という動詞に変化するとき、そこに「精神/意識/こころ」というものが紛れ込んでくるので、形而上学的(抽象的)に感じてしまう。しかし、、これを大江は

顔ちかづける

 という「肉体」の「動き」として言い直すことで「肉体」の方に取り戻している。「顔ちかづける」という「動き」(名詞+動詞)が、私の「肉体」に直接作用して、そうやって「読んだ」ことがあるという「肉体」がよみがえってくる。「顔ちかづける」は「目ちかづける」でもある。読むとき、そういう「動き」を「肉体」がとることがある。もし「こころ」というものがあるとしたら、それはそのときの「肉体の動き」である。
 「角度かえてよむ」は抽象的な表現で、「見る角度をかえて読む/立場をかえて読む」という具合に「精神的」に理解することもできるが、そうではなくて、実際に手紙の角度をかえて、光がよくあたるようにして、あるいはひとから隠すようにしてという具合にも読むことができる。私は「肉体」と「手紙(紙)」の具体的な「角度」として「肉体」をそわせる。
 「違う意味になったり戻ったりする」も「意味」ではなく「なる/戻る」という動詞に「肉体」をそわせてみる。「意味」が動いているのではなく、「肉体」が動いている。あるときは恋人に近づき、あるときは恋人から離れる。「戻る」は恋人のそばに近づくこともあれば、自分に戻る、恋人から離れるということにもなる。そのたびに動いているのは「こころ」ではなく「肉体」である。
 なぜ、こんなに「肉体」を感じるのか。

手紙なんども読む 角度かえて読む 顔ちかづける

 これは、ふつうは(学校作文では)

手紙「を」なんども読む 角度「を」かえて読む 顔「を」ちかづける

 と書く。「を」という助詞をつかって、対象と肉体の関係を明確にする。大江は「を」をつかっていない。それは、「手紙」と「肉体」を別個のものとは把握していないということである。手紙と肉体が一体になっている。「読む」という動詞のなかで融合している。その融合をそのまま表現している。
 「肉体」の一部が、そのとき目の前に「手紙」という存在になってあらわれてきている。「手紙」というものを「肉体」が生み出している、という感じ。(はやりのことばでいうと「手紙」を「分節している」ということになる。)それを「肉体」の方に引き寄せようとしている。「肉体」に取り戻そうとしているように見える。もう一度生まれる前の状態(未分節の状態/井筒俊彦は「無分節」と書いているが、私は「未」をつかう。つまり「誤読」する)に引き戻し、そこから「手紙に書かれている事件」を生きなおす。そのために「読む」という「動詞」(肉体の動き)が必要になってくる。「肉体」は「読む」という動詞で、そういうことをしていると感じる。
 で、

毎日同じでもいらいらしない 手紙は

 という一行、あるいは「いらいらしないということばは感情を書いているように見えるけれど、私の感覚の意見では、やっぱり「肉体」なのだ。「いらいら」としか言い表すことのできない「肉体」の内部の何かの動き。「分節」できない何かが動いている、その動いているということだけがわかる感じが「いらいら」なのだ。
 そしてこの「いらいらしない」は「いらいらする/いらいらした」という「肉体」の感覚といっしょに動いている。そういうことを覚えていて、思い出しているけれど、同時にそれを遠ざけている。「しない」は「状態」だけではなく、「するのをやめる」という積極的な動きもある。動きがあって「しない」という「状態(動詞ではなく、存在)」になる。
 この「動詞」を含んだ「肉体」の存在感、それをことばにする力はとてもおもしろい。

 私のこの感想は、いちばん書きやすい部分をとりあげて書いただけなので、大江のことばの魅力の千分の一もつかんではないと思う。その「肉体(文体/ことばの肉体)」の味は、詩を読んで確かめてくださいというしかない。
*

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