詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

たなかあきみつ「[超高層ビルの自動エレヴェーターのように……]」

2015-10-26 10:59:12 | 詩(雑誌・同人誌)
たなかあきみつ「[超高層ビルの自動エレヴェーターのように……]」(「repure」21、2015年10月17日発行)

 たなかあきみつ「[超高層ビルの自動エレヴェーターのように……]」は何を書いているのか。タイトルは書き出しの一行を含んでいる。意味はない。(と、思う。)そう書きはじめた、というだけのことである。ということは、書くということ、あるいは書きはじめるということそのものがたなかにとっては重要であり、あとは書くことについてくる何かということになる、のかな?

超高層ビルの自動エレヴェーターのように
プロレスラーの寸足らずの耳から決壊する--すなわち脳天をキーンと南方発祥の
《白熊》アイスの純白のもろ強烈な食感とは異なり
どの動物園でも白熊たちは
万年雪のようにうす汚れて黄ばんだ毛並み、
もう《新雪》の純白は色彩として
脳内の氷雪上にしか見当たらない。

 動物園の白熊の毛の色にがっかりしているらしい。そんなことを書くのに、「超高層ビルの自動エレヴェーター」から書くというのは、どういうことだろう。めんどうくさいひとだなあと思う。エレベーターに乗って耳鳴りがする? その「キーン」が白熊アイス(鹿児島が発祥といわれる)を食べて脳天がキーンとする感じに似ている。へええ。で、そこから「白熊」つながりで動物園? 連想が貧弱。おもしろくないなあ。
 二連目は、そこから少し変化する。白熊が水のなかで氷の塊でももらって遊んでいるのをみて水族館へと連想がひろがっていくのか、あるいは単に動物園から水族館へと動いただけなのかわからないが……。

水族館の目玉のイルカショーの俊敏なドルフィンキックよりも
はるかに華麗で根腐れとは無縁の神経網のダンスを
くらげはゆうやく垂直に披露してやまない、釉薬のように
くらげの暴力性は徹底的に神経のそれぞれの先端にまで刺創にまで到達している、
あるいはロラン・バルトの指先確認でエルテ誌上の火文字の数々を参照せよ、
同時代のダンスは蛇ダンスでも相次いで文字の踵の発火するのと
同時に毛髪エクラの傘のもとタイポロジックなダンスを

 イルカショーではなく、くらげのダンス。そこから神経網、神経の先端、暴力というようなことばが動き、ロラン・バルトなんかも出てくる。「指先」だの「踵」だの、あるいは「踵の発火」だのということばは、ロラン・バルトに関係しているのかもしれない。「参照せよ」なんて、言われてしまう。
 そんなもの参照しなくてもわかるように書くのが詩なんじゃないか。
 などと言っても、まあ、はじまらないね。
 もしかすると、たなかは「ロライ・バルト」よりも「参照せよ」ということばの方を書きたかったのかもしれない。連想のつながるままにことばを動かしていく。「ゆうやく(勇躍?)」と「釉薬」のだじゃれのようなもの、「タイポロジック」という美しい響き。それがいったい何の関係がある? と誰かが質問したなら、それには応えず「……を参照せよ」と切り抜けてしまう。その「切り抜け方」を書きたいだけなのかも。
 「意味」ではなく「意味」を逸脱していく運動、「意味」を逃走していくことばの力というものを書きたいだけなのかも。
 あ、私は、そう読むということだけれど。
 ちょっとあいだの何連かをとばして。

あじさいの葉っぱに一点黒い虫がズームインするだけで
その葉っぱの動線は変わる、一挙に斜線で
光線のまぶしい葉脈をまたぐアクセント記号
あるいはサッカーボール大のキャベツの半円形の表皮から
水滴のように転がり出た青虫、色彩に忠実なら緑虫だが
色彩の鮮明度ともどもキャベツの鮮度を保証する雨の日の出来事だった、
雨に濡れた消波ブロックから爪先のレ点を逃走させずともOK!

 そうだなあ。「ズームイン(する)」ということばが出てくるが、これがたなかのことばの運動を象徴しているかもしれない。何かにズームインする。そういうとき、何かがズームアウトされるというか、ズームインしたもののまわりで全体が消えて行く。何かが拡大され、その拡大された細部にさらにズームインしていくと、全体とは違ったものが見えてくる。「葉っぱの動線は変わる」の「変わる」がポイントだ。その変化に誘われて、どこまでも「最初」から逸脱する。
 「動線」→「斜線」、「青虫」→「緑虫」への変化、さらに「色彩に忠実なら」→「色彩の鮮明度」→「キャベツの鮮度」、「雨の日」→「雨に濡れた」という尻取りをりみうした「逸脱」もある。
 この詩の書き出しの「超高層ビルの自動エレヴェーター」も「白熊」も、もうここには存在しない。もし何かが書き出しからひきつづき存在しているとしたら「自動」ということばかもしれない。エレベーターに「自動」なんてことばが必要かどうかわからない。(自動エレベーターってだいたい何? エレベーターを動かすひとののっていないエレベーターということなら、いまはみんな、そう。余程の高級ホテルならエレベーター係がのっているだろうけれど。)こういう他人(読者)にとってはどうでもいいが、筆者にとっては書き飛ばすことのできないことばは「キーワード」である。
 で、そのことばを利用して、たなかの書いている詩を「自動筆記」の詩、と呼んででみることもできるかもしれない。
 こういう詩をどう読むか。
 あら、むずかしい。
 私は、私の「好み」を探して、その「好み」にだけ反応することにする。「自動」反応。「無意識の自分探し」である。そして、こんなふうに言う。「神経網のダンス」と「暴力性(神経の暴力性/頭脳の暴力性」ということばが「ロラン・バルト」を経由して「踵の発火」につながるのがおもしろい。「踵の発火」は美しいことばだなあ。「タイポロジック」という音楽も美しいなあ。いつか剽窃してみたいなあ。「アクセント記号」「レ点(記号)」の対比も楽しい。「キャベツの半円形の表皮」は楽しい発見だ。「雨に濡れた消波ブロック」は美しい。「雨に濡れたテトラポット」よりも美しい。こういうことばを覚えておこう、と思う。
 そういう「好み」のことばのなかで私はかってにたなかに出会い、それ以外のことばのなかではすれ違ったことも気づかない。
 こういう読み方で詩を読んだことになるのか。わからない。けれど、詩にかぎらず、文学(芸術)なんて、「ここが好き」とかってに思えばそれでいいものなのだと開き直る。


ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集
たなか あきみつ
ふらんす堂


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オリビエ・アサイヤス監督「アクトレス 女たちの舞台」(★★★★)

2015-10-26 09:36:04 | 映画
監督 オリビエ・アサイヤス 出演 ジュリエット・ビノシュ、クリステン・スチュワート、クロエ・グレース・モレッツ

 三部から成り立っているだが、映像がそれぞれまったく違っているのでおもしろい。
 第一部は列車のなかからはじまる。列車の揺れでカメラが揺れる。人物が揺れる。映像が安定しない。列車を降りて車に乗ると、こんどはガラスに町の風景が映り込み、車に乗っている役者の表情がはっきりとは見えない。町の風景も車に映っている影では全体像がわからない。この映像のなかで、ジュリエット・ビノシュを育て上げた劇作家の死、彼女の出世作となった戯曲の再演(ただし、役どころは20年前とは逆。ジュリエット・ビノシュは若い秘書ではなく、若い秘書によって自殺に追い込まれた上司の役をやることになる)の話が交錯する。ジュリエット・ビノシュは何かの賞の授賞式に、劇作家のかわりに出席するのだが、そこへ昔の共演者(男)もやってくる。そういうなかで、揺れるジュリエット・ビノシュの視線、不透明なジュリエット・ビノシュの感情をそのまま映像にしたような感じだ。
 第二部は、劇作家の残した別荘(家?)と自然が舞台。映像はくっきりしている。戯曲のタイトルとなった「***の蛇」という、山を越え、谷に流れ込む雲が唯一不透明、不安定な存在だが、その不安定な流動がとても美しいというのが、なんとも不思議な矛盾として印象に残る。
 その、人間の心情などに見向きもしない自然の非情の美しさのなかで、ジュリエット・ビノシュは芝居の下稽古をする。若いジュリエット・ビノシュがやった秘書の役を、実際の若い秘書が演じる。その「演技」に、ジュリエット・ビノシュは何を見たのだろうか。自分の過去だろうか。それとも、秘書によってあぶりだされる40歳の女の「あせり」のようなものだろうか。若さの衰えと、若さをうしなうことへの絶望のようなものだろうか。若さへの嫉妬、嫉妬を感じる自分を新しく発見したかもしれない。
 瞬間瞬間に表情がかわり、声がかわるのだが、それはジュリエット・ビノシュが演じている「役柄」としての変化なのか、それともジュリエット・ビノシュの「地」なのか、感情の噴出なのか、区別がつかない。特に、怒りのシーン。「秘書(役どころ)」の態度に怒りが爆発して立ち上がり煙草を吸う。そのとき、ジュリエット・ビノシュは演じているのか。怒っているのか。
 怒っているのは、「秘書」の態度に対してなのか。「役どころ(上司)」を演じなければならないということに対してなのか。「芝居」ではなく、そういう芝居をしなければならない自分自身への怒りのように見える。
 その「怒り」は「役どころ」を超えて、現実に反映する。秘書に対する怒りとしてあらわれてしまう。ジュリエット・ビノシュには、そのつもりはないかもしれない。けれど秘書の方が、ことあるごとにぶつかってくるジュリエット・ビノシュに対して、「私へ怒りをぶつけないでくれ、私は稽古の相手をしているだけなのだ」と訴える。
 こういうことに、ジュリエット・ビノシュの若いときを演じる女優の姿、彼女へのジュリエット・ビノシュの蔑視のようなものが混じりこむ。若さへの蔑視が、かろうじてジュリエット・ビノシュの「尊厳」を支えている。熟成がジュリエット・ビノシュを支えるのではなく、他者への蔑視が彼女を支えている、ということにジュリエット・ビノシュは気づいていない。
 無言の自然を背景に、ほとんど二人だけで演じられる世界をとおして、ふたりの心理がくっきりと浮かび上がる。
 この第二部の終わりは、また、とてもおもしろい。「***の蛇」という流動する雲海のようなものを見に行くのだが、それを見る寸前に若い秘書はジュリエット・ビノシュの対応が我慢できずに、彼女のもとを去ってしまう。その秘書を探して、ジュリエット・ビノシュも「***の蛇」を見逃してしまう。見逃してしまうのだけれど、そこには人間の思惑など無視して、「***の蛇」が美しく動いている。それを映画ははっきりと映し出す。この美しさは、冷酷でさえある。
 第三部はロンドンでの芝居(の稽古)。ここでいちばんおもしろいのは、その「舞台」のセットである。会社のなかなのだが、壁がすべて透明な硝子で仕切られている。他人のやっていることが「丸見え」なのである。
 もちろん第一部でも第二部でもそれぞれの登場人物の「感情」は見えるのだが、「見える」ということが映像として「視覚化」されていない。映像に「見える」が象徴されていない。しかし、第三部ではそれが「象徴」をとおして語られる。
 ジュリエット・ビノシュは他人のすべてを見ているつもりだが、逆である。彼女には見られているつもりはなくても(自分を隠しおおせているつもりでも)、すべては他人に見られてしまっている。すべては彼女の思いとは逆に動いている。
 ジュリエット・ビノシュは若い役者に対して、一か所注文をつける。第二幕の終わり、部屋を出て行くとき「間」をおいてほしい。そうすると観客がジュリエット・ビノシュの存在に気をとめる。これに対して、若い女優は、そんな演技はしない、という。もうその段階で誰もジュリエット・ビノシュのやっている「役」のことを忘れている。見捨てている。「忘れられた存在なのだ」と宣告する。それは「役」のことか、それともジュリエット・ビノシュのことか。ジュリエット・ビノシュは自分自身のことだと受け止める。そこで映画は終わる。
 この映画には、何があったのか。この映画は何を描こうとしたのか。おそらく人間にはどうすることもできない何か、「時間」が過ぎ去っていくということを、人間はどう受け止めるべきか、ということかもしれない。「時間」は第二部の終わりの「***の蛇」のように、人間が見ていようが見ていまいが、無関係に動いていく。その動きのなかに、ときにとても美しいものがあらわれる。ただし、それを「美しい」ととらえることができるは、特別の「位置」からである。「***の蛇」ならば、その動きが見える峠。
 もし「***の蛇」のなかにいれば、何も見えず、道に迷ってしまうだろう。視界は雲にさえぎられて、わかるのは自分の「肉体」の存在だけである。それがどのようなものか、「客観化」できない。「いままでの自分」を手がかりにして、そのまま「自分」がいると思い込んでしまう。
 第二部でジュリエット・ビノシュはくっきりと描かれるが、その「くっきり」は彼女にはわからない。彼女は「***の蛇」のなかを手探りで歩いているにすぎない。
 ジュリエット・ビノシュの「思い込んでいる自分の姿」はどこにもない。ひとが(観客が/若い女優が)見るのは、ジュリエット・ビノシュをとおしてみるのは「時間」が過ぎ去ったということだけである。「時間」は過ぎ去った。
 さて、これをどう受け止めるか。何度か映画のなかに「成熟」ということばが出てくるが、受け止め方のなかに「成熟」があるということだろうか。
 もし、ジュリエット・ビノシュが自分自身を美しく見せるなら(見せたいなら)、彼女は「***の蛇」になるしかないのだ。あるとき偶然姿をみせる「時間」となって、ひとの視界を通りすぎるしかないのだ、と言っているように、私には思えた。



 この映画は脚本がすばらしい。ジュリエット・ビノシュと二人の若い役者もすばらしい。気に食わない部分があるとすれば、音楽である。うるさい。特に第二部の出だしと終わりは音楽がない方が自然の美しさが際立つと思う。音楽が「感情」をむりやり引き出そうとしているようで、ぎょっとする。黒星を4個にしたのは音楽が気に入らなかったから。
                      (KBCシネマ2、2015年10月25日)




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