たなかあきみつ「[超高層ビルの自動エレヴェーターのように……]」(「repure」21、2015年10月17日発行)
たなかあきみつ「[超高層ビルの自動エレヴェーターのように……]」は何を書いているのか。タイトルは書き出しの一行を含んでいる。意味はない。(と、思う。)そう書きはじめた、というだけのことである。ということは、書くということ、あるいは書きはじめるということそのものがたなかにとっては重要であり、あとは書くことについてくる何かということになる、のかな?
動物園の白熊の毛の色にがっかりしているらしい。そんなことを書くのに、「超高層ビルの自動エレヴェーター」から書くというのは、どういうことだろう。めんどうくさいひとだなあと思う。エレベーターに乗って耳鳴りがする? その「キーン」が白熊アイス(鹿児島が発祥といわれる)を食べて脳天がキーンとする感じに似ている。へええ。で、そこから「白熊」つながりで動物園? 連想が貧弱。おもしろくないなあ。
二連目は、そこから少し変化する。白熊が水のなかで氷の塊でももらって遊んでいるのをみて水族館へと連想がひろがっていくのか、あるいは単に動物園から水族館へと動いただけなのかわからないが……。
イルカショーではなく、くらげのダンス。そこから神経網、神経の先端、暴力というようなことばが動き、ロラン・バルトなんかも出てくる。「指先」だの「踵」だの、あるいは「踵の発火」だのということばは、ロラン・バルトに関係しているのかもしれない。「参照せよ」なんて、言われてしまう。
そんなもの参照しなくてもわかるように書くのが詩なんじゃないか。
などと言っても、まあ、はじまらないね。
もしかすると、たなかは「ロライ・バルト」よりも「参照せよ」ということばの方を書きたかったのかもしれない。連想のつながるままにことばを動かしていく。「ゆうやく(勇躍?)」と「釉薬」のだじゃれのようなもの、「タイポロジック」という美しい響き。それがいったい何の関係がある? と誰かが質問したなら、それには応えず「……を参照せよ」と切り抜けてしまう。その「切り抜け方」を書きたいだけなのかも。
「意味」ではなく「意味」を逸脱していく運動、「意味」を逃走していくことばの力というものを書きたいだけなのかも。
あ、私は、そう読むということだけれど。
ちょっとあいだの何連かをとばして。
そうだなあ。「ズームイン(する)」ということばが出てくるが、これがたなかのことばの運動を象徴しているかもしれない。何かにズームインする。そういうとき、何かがズームアウトされるというか、ズームインしたもののまわりで全体が消えて行く。何かが拡大され、その拡大された細部にさらにズームインしていくと、全体とは違ったものが見えてくる。「葉っぱの動線は変わる」の「変わる」がポイントだ。その変化に誘われて、どこまでも「最初」から逸脱する。
「動線」→「斜線」、「青虫」→「緑虫」への変化、さらに「色彩に忠実なら」→「色彩の鮮明度」→「キャベツの鮮度」、「雨の日」→「雨に濡れた」という尻取りをりみうした「逸脱」もある。
この詩の書き出しの「超高層ビルの自動エレヴェーター」も「白熊」も、もうここには存在しない。もし何かが書き出しからひきつづき存在しているとしたら「自動」ということばかもしれない。エレベーターに「自動」なんてことばが必要かどうかわからない。(自動エレベーターってだいたい何? エレベーターを動かすひとののっていないエレベーターということなら、いまはみんな、そう。余程の高級ホテルならエレベーター係がのっているだろうけれど。)こういう他人(読者)にとってはどうでもいいが、筆者にとっては書き飛ばすことのできないことばは「キーワード」である。
で、そのことばを利用して、たなかの書いている詩を「自動筆記」の詩、と呼んででみることもできるかもしれない。
こういう詩をどう読むか。
あら、むずかしい。
私は、私の「好み」を探して、その「好み」にだけ反応することにする。「自動」反応。「無意識の自分探し」である。そして、こんなふうに言う。「神経網のダンス」と「暴力性(神経の暴力性/頭脳の暴力性」ということばが「ロラン・バルト」を経由して「踵の発火」につながるのがおもしろい。「踵の発火」は美しいことばだなあ。「タイポロジック」という音楽も美しいなあ。いつか剽窃してみたいなあ。「アクセント記号」「レ点(記号)」の対比も楽しい。「キャベツの半円形の表皮」は楽しい発見だ。「雨に濡れた消波ブロック」は美しい。「雨に濡れたテトラポット」よりも美しい。こういうことばを覚えておこう、と思う。
そういう「好み」のことばのなかで私はかってにたなかに出会い、それ以外のことばのなかではすれ違ったことも気づかない。
こういう読み方で詩を読んだことになるのか。わからない。けれど、詩にかぎらず、文学(芸術)なんて、「ここが好き」とかってに思えばそれでいいものなのだと開き直る。
*
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たなかあきみつ「[超高層ビルの自動エレヴェーターのように……]」は何を書いているのか。タイトルは書き出しの一行を含んでいる。意味はない。(と、思う。)そう書きはじめた、というだけのことである。ということは、書くということ、あるいは書きはじめるということそのものがたなかにとっては重要であり、あとは書くことについてくる何かということになる、のかな?
超高層ビルの自動エレヴェーターのように
プロレスラーの寸足らずの耳から決壊する--すなわち脳天をキーンと南方発祥の
《白熊》アイスの純白のもろ強烈な食感とは異なり
どの動物園でも白熊たちは
万年雪のようにうす汚れて黄ばんだ毛並み、
もう《新雪》の純白は色彩として
脳内の氷雪上にしか見当たらない。
動物園の白熊の毛の色にがっかりしているらしい。そんなことを書くのに、「超高層ビルの自動エレヴェーター」から書くというのは、どういうことだろう。めんどうくさいひとだなあと思う。エレベーターに乗って耳鳴りがする? その「キーン」が白熊アイス(鹿児島が発祥といわれる)を食べて脳天がキーンとする感じに似ている。へええ。で、そこから「白熊」つながりで動物園? 連想が貧弱。おもしろくないなあ。
二連目は、そこから少し変化する。白熊が水のなかで氷の塊でももらって遊んでいるのをみて水族館へと連想がひろがっていくのか、あるいは単に動物園から水族館へと動いただけなのかわからないが……。
水族館の目玉のイルカショーの俊敏なドルフィンキックよりも
はるかに華麗で根腐れとは無縁の神経網のダンスを
くらげはゆうやく垂直に披露してやまない、釉薬のように
くらげの暴力性は徹底的に神経のそれぞれの先端にまで刺創にまで到達している、
あるいはロラン・バルトの指先確認でエルテ誌上の火文字の数々を参照せよ、
同時代のダンスは蛇ダンスでも相次いで文字の踵の発火するのと
同時に毛髪エクラの傘のもとタイポロジックなダンスを
イルカショーではなく、くらげのダンス。そこから神経網、神経の先端、暴力というようなことばが動き、ロラン・バルトなんかも出てくる。「指先」だの「踵」だの、あるいは「踵の発火」だのということばは、ロラン・バルトに関係しているのかもしれない。「参照せよ」なんて、言われてしまう。
そんなもの参照しなくてもわかるように書くのが詩なんじゃないか。
などと言っても、まあ、はじまらないね。
もしかすると、たなかは「ロライ・バルト」よりも「参照せよ」ということばの方を書きたかったのかもしれない。連想のつながるままにことばを動かしていく。「ゆうやく(勇躍?)」と「釉薬」のだじゃれのようなもの、「タイポロジック」という美しい響き。それがいったい何の関係がある? と誰かが質問したなら、それには応えず「……を参照せよ」と切り抜けてしまう。その「切り抜け方」を書きたいだけなのかも。
「意味」ではなく「意味」を逸脱していく運動、「意味」を逃走していくことばの力というものを書きたいだけなのかも。
あ、私は、そう読むということだけれど。
ちょっとあいだの何連かをとばして。
あじさいの葉っぱに一点黒い虫がズームインするだけで
その葉っぱの動線は変わる、一挙に斜線で
光線のまぶしい葉脈をまたぐアクセント記号
あるいはサッカーボール大のキャベツの半円形の表皮から
水滴のように転がり出た青虫、色彩に忠実なら緑虫だが
色彩の鮮明度ともどもキャベツの鮮度を保証する雨の日の出来事だった、
雨に濡れた消波ブロックから爪先のレ点を逃走させずともOK!
そうだなあ。「ズームイン(する)」ということばが出てくるが、これがたなかのことばの運動を象徴しているかもしれない。何かにズームインする。そういうとき、何かがズームアウトされるというか、ズームインしたもののまわりで全体が消えて行く。何かが拡大され、その拡大された細部にさらにズームインしていくと、全体とは違ったものが見えてくる。「葉っぱの動線は変わる」の「変わる」がポイントだ。その変化に誘われて、どこまでも「最初」から逸脱する。
「動線」→「斜線」、「青虫」→「緑虫」への変化、さらに「色彩に忠実なら」→「色彩の鮮明度」→「キャベツの鮮度」、「雨の日」→「雨に濡れた」という尻取りをりみうした「逸脱」もある。
この詩の書き出しの「超高層ビルの自動エレヴェーター」も「白熊」も、もうここには存在しない。もし何かが書き出しからひきつづき存在しているとしたら「自動」ということばかもしれない。エレベーターに「自動」なんてことばが必要かどうかわからない。(自動エレベーターってだいたい何? エレベーターを動かすひとののっていないエレベーターということなら、いまはみんな、そう。余程の高級ホテルならエレベーター係がのっているだろうけれど。)こういう他人(読者)にとってはどうでもいいが、筆者にとっては書き飛ばすことのできないことばは「キーワード」である。
で、そのことばを利用して、たなかの書いている詩を「自動筆記」の詩、と呼んででみることもできるかもしれない。
こういう詩をどう読むか。
あら、むずかしい。
私は、私の「好み」を探して、その「好み」にだけ反応することにする。「自動」反応。「無意識の自分探し」である。そして、こんなふうに言う。「神経網のダンス」と「暴力性(神経の暴力性/頭脳の暴力性」ということばが「ロラン・バルト」を経由して「踵の発火」につながるのがおもしろい。「踵の発火」は美しいことばだなあ。「タイポロジック」という音楽も美しいなあ。いつか剽窃してみたいなあ。「アクセント記号」「レ点(記号)」の対比も楽しい。「キャベツの半円形の表皮」は楽しい発見だ。「雨に濡れた消波ブロック」は美しい。「雨に濡れたテトラポット」よりも美しい。こういうことばを覚えておこう、と思う。
そういう「好み」のことばのなかで私はかってにたなかに出会い、それ以外のことばのなかではすれ違ったことも気づかない。
こういう読み方で詩を読んだことになるのか。わからない。けれど、詩にかぎらず、文学(芸術)なんて、「ここが好き」とかってに思えばそれでいいものなのだと開き直る。
ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集 | |
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ふらんす堂 |
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谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
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