詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

カニエ・ハナ『用意された食卓』

2015-10-16 09:35:31 | 詩集
カニエ・ハナ『用意された食卓』(私家版、2015年09月30日発行)

 カニエ・ハナ『用意された食卓』に「毬」という作品がある。なぜ「毬」というタイトルなのかわからないが、わからないことはわからないままにして、勝手に「誤読」することにする。

犬の)鎖につながれて
地下室で窒息する私が
生まれるずっと前から
眠っていたひとの
傷ついた脳は
彼女に夢を見せたか(わからないが)
四十余年の長きにわたり
私たちに受動的な
仮死を
与えて、
たましいはせわしなく
日毎に入れ替わり
かろうじて「私」を保つからだは
ことあるごとに
裏切りつづける
にんげんの)鎖につながれて
犬のからだが波うつ
人間の地下室に
たった一枚の肉が
怒りのように押し寄せる

 「犬」と「私」と「眠っていたひと(彼女)」の三人(?)が出てくる。その三人の区別はかなりむずかしい。

犬の)鎖につながれて
地下室で窒息する私が

 この書き出しの二行は「犬」が「比喩」であることを語っている。この場合の「比喩」とは「いま/ここに不在」という意味である。犬の鎖につながれて「私は犬になって」地下室にいる。「犬=私」「私=犬」であり、その「比喩」を支えるのは「鎖」という「名詞」と「つなぐ」という「動詞」である。「鎖」の方がイメージしやすいかもしれないが、「つなぐ」という「動詞」の方が「肉体」に迫ってくる。
 「つながれる」は「窒息する」という「動詞」と密接に関係してくる。「つながれる」は「窒息する」へと「肉体」の状況を言い直し、拡大する。その拡大(延長)の先に「眠っていた(眠る)」「傷ついた(傷つく)」という「動詞」がつらなる。「つながれる」ことは「窒息する(閉じ込められて苦しくなる)」ことであり、そこではあらゆる「動詞」は制限され「眠った状態(動けない/動かない)」にある。動けないことによって(制限されることによって)、「傷つく」部分もある。動かず/動けず、傷つくことを「仮死」という「名詞」で言い直しているが、これは「仮姿として死ぬ」(半分死ぬ)という「動詞」、あるいは「半分生きる」という「動詞」としてとらえなおすことができる。「動詞」にしてとらえなおすとき、そこに「肉体」が共通のあり方として見えてきて……。
 「動詞」のつながりのなかで、「私」と「眠っていたひと(彼女)」の区別が、さらにあいまいになる。「私」を「彼女」と客観的(?)に言い換えたように感じられる。それは「私」を「犬」という「比喩」でとらえたことと同じである。「彼女」は「私」の「比喩」である。
 こうやって、「犬」「私」「彼女」は「私たち」になる。「私たち」という「呼び方」は「動詞」によって補強される。「動詞」のなかで「ひとつ」になる。「動詞」を通って、あるときは「犬」、あるときは「私」、あるときは「彼女」に「分節」される。
 この「私たち」の関係をカニエは

入れ替わり

 ということばで表現している。
 カニエは「たましいはせわしなく/日毎に入れ替わり」と書いているのだが、「たましい」というものの存在を私は見たことがないし、感じたこともないので、これを「肉体」と読み替える。(誤読する)。
 あるときは「犬」として自分をとらえ、あるときは「私」そのものとしてとらえ、あるときは「彼女」ととらえなおす。「犬」と「彼女」は「比喩」あるいは「別称」というものかもしれないが、単なる「名詞」の「ずれ」である。「たましい」とカニエが呼んでいるものは、私の直観の意見では、「分節の仕方(認識のあり方)」をことばでととのえる作法をもっているもののことである。ひとが「精神/意識」と呼んでいるものと似ていると思う。(私は「精神/意識」というものも、信頼していない、存在しているとは考えていないので、ちょっといいかげんな言い方になってしまうが……。)
 この「入れ替わる」という「動詞」と拮抗する(矛盾する)形で、「保つ」という「動詞」がある。「入れ替わる」は「変化」、「保つ」は「維持」である。「矛盾」である。だが、それは「矛盾」するからこそ、しっかりと結びつく。

かろうじて「私」を保つからだ

 「からだ」は「ひとつ」に「保たれている」。その「保たれたからだ」のなかで「入れ替わり」がおきる。何かが(カニエは「たましいが」と書いている)入れ替わる。入れ替わることができるのは、そこに「からだ」が「保たれている」からである。
 「犬」「私」「彼女」という「比喩」のように、「保つ/入れ替わる」は切り離せない関係にある。
 この「入れ替わり(入れ替わる)」を別な「動詞」で言い直すと「裏切る」である。「人間」なのに「犬」という「比喩」を「肉体化」するのは、人間の肉体にとっては「裏切り」である。「私」なのに「彼女」というのも「裏切り」である。(論理の「矛盾」、あるいは論理の「齟齬」である。)また「犬」にしても、「人間」になってしまうのは、「裏切り」である。自分のなかで何かを否定している。傷つけている。眠らせている。(という「動詞」が、ここでよみがえってくる。)
 こういう「入り乱れ(交錯)」をカニエはさらに言い直して、

波うつ

 という。「からだが波うつ」。「意識が」あるいは「精神が」「たましいが」と言わず「からだが」と書いているので、私はなんだか「味方」を得たような気持ちになるが、そうなのだ、「いま/ここ」にあるのは「からだ(肉体)」というものだけであり、それがさまざまな「動詞」をとおって「動く」とき、それは波のようにつながったまま変化するのである。それが「生きる」ということなのである、と思う。
 そういう状況が「からだ(肉体)」が「人間の地下室」であるという「比喩」に結晶する。
 この状況に対して、最後の二行は、カニエが「怒っている」ということ、真剣に向き合い、その状況をなんとかしたいと模索していることを表明していると思う。「怒りのように押し寄せる」とカニエは「怒り」という「名詞」の形でことばを書いているが、「肉体」に還元すると(名詞を動詞に活用させて言い直すと)、「波が押し寄せるように/怒る」ということだろう。「押し寄せる波」という「形(肉体)」になって、「肉体」が「怒る」。--そう「誤読」した。

*

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