詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

財部鳥子『氷菓とカンタータ』(2)

2015-10-23 10:14:14 | 詩集
財部鳥子『氷菓とカンタータ』(2)(書肆山田、2015年10月10日発行)

 「回文」というタイトルの詩がある。「回文」というのは私の記憶では上から読んでも下から読んでも同じ音になる文のこと。「たけやぶやけた」のように。でも、この詩には、そういう文がない。それなのに「回文」。
 どうして?

「あああ 死んだように眠ってしまった」
人は年月の半分は眠ってきたので死に真似はたやすい
爺さんは死んでいるのに生きているふりをして
雪が降ると屋根に上がって雪を下ろす
見回りの青年団が見上げて若い声で
「爺っさよ、落っちるぞー」と叫ぶのも
真実 あれは大昔の自分の若い声ではないか?

 これは一連目。前半、「爺さん」の様子が描かれている。それが誰なのかわからないが、まあ、どこにでもいる老人のひとりのように思える。その老人に、青年が声をかける。そのあとの一行、

真実 あれは大昔の自分の若い声ではないか?

 これが、おもしろい。
 財部は実際に雪下ろしをしている老人に声をかけたことがあるのか。声をかけたことはないけれど、「お爺さん、落ちるよ(気をつけて)」と思ったことがあるのだろう。たぶん、実際には声をかけていない。だけれど、心底、そう思った。こころのなかで叫んだ。その「心のなか」が「真実」ということだろう。
 「現実」と「こころのなか」が呼応している。そこに「真実」がある。
 「回文」というのは「現実」と「こころのなか」を往復する、回る、ということかもしれないなあ。

雪掻きが終わると芯から冷え込んで
布団の中に行火(あんか)を入れて体をうずめる

いままで何をしてきたのか 輝くことも
悲しいことも 爺さんはもう思い出せないけれど
忘れたことが香ってくる
忘れたことの何という甘い温かみだろう
血が酒のように温まり うと うと とする
生きているふりをして死んでいると また青年の声がした
「爺っさよ、頼むから屋根に上がるの止めてけろな」

 書かれていることは、そのまま、直につたわってくる。つたわってくるのだけれど、うーん、と思う。
 二連目、ここには「主語」が書かれていない。しかし、「爺さん(爺っさ)」が「主語」であることは、誰が読んでも同じだろう。雪掻きを終えた爺さんが布団のなかで体をあたためている。
 だけれど、「主語」がないので、その「爺さん」を「私(財部)」と読むこともできる。財部は雪掻きをした。そして体が冷えたので布団に潜り込み、行火をかかえて体をあたためている。それはまた、詩を読んでいる私(谷内)自身でもある。体の芯が「冷える」、それを布団に「うずめる」(潜り込み/あたためる)という「動詞」、「肉体の動き」を思い出して、そこに自分を重ねる。重ねることで「爺さん」の体験していることを実感する。
 「爺さん」のことなのに、「私(財部)」のこと。
 そうすると、あれっ、少し変だね。
 一連目では、「爺さん」に「落ちるよ、気をつけて」と声をかけたのが、若いときの「私(財部)」であったはずだ。
 いつのまにか財部は「爺さん」になっている。
 三連目は、それがさらに進む。
 「爺さんはもう思い出せないけれど」と書いているが、実際に、爺さんに思い出せるかどうか確認したわけではないだろう。「爺さん」になって、爺さんの気持ち、肉体が感じていることを書いている。いわば、虚構。いわば、嘘。
 けれど、嘘ではなく「真実」であると感じてしまう。

忘れたことが香ってくる
忘れたことの何という甘い温かみだろう
血が酒のように温まり うと うと とする

 この「肉体感覚」(肉体が覚えていること/思い出すこと)は、ひとに共通する。まだ完全に老人ではない(と、思っている)私にも、「予感」として納得できる。「予感」が「記憶」のように「肉体」のなかで、うずき、「甘い温かみ」を感じる。
 「香り(香る/匂う)」「甘い(甘さを感じる/甘くなる)」「温かみ(あたたかいと感じる/温まる)」「うと うと とする(半分眠る?)」。それは「爺さん」だけが感じること、体験することではなく、幼いこどもも、若い人も肉体で味わうことである。それが「覚えていること/思い出すこと」と同時に「予感」として、時間を超えて、そこにある。
 時間を超えるというのは、自分でありながら自分ではなくなること、自分の枠をこえることでもある。他人になるというよりも、人間をつないでいる「いのち」になることである。
 自分が体験していないことでも、「いのち」は体験している。体験することができる。そこでは、人間は、あるときは「爺さん」になり、あるときは「青年」になる。区別がつかない。「姿」をかえながら、「時間」を「回る」、巡回する、循環する。何度も何度も、生まれ変わる。新しく、生まれる。
 そんなことが「回文」ということばにこめられているかもしれない。
 「私(財部)」が「いのち」になって、誰かの「肉体/人生」をくぐりぬける。そのと、「時間」の「枠」も消え、「いま/過去/未来」が自在に動く。循環する。回る。その自在な動きの中に、「いのち」そのもの、詩がある。

 「遠い系譜」にも、「時間」を超える瞬間が書かれている。「自己/他者」を超え、新しく生まれる「いのち」が書かれている。

前世あなたは梨でしたか
私を覚えていませんか
梨に訊かれて
知っているその梨の香りをいいたいけれど
そのころわたしは 泣いている子供だったのか
眠ってる老人だったのか記憶にない

 「子供」「老人」の区別がつかない。「泣いている」「眠っている」の区別もつかない。けれど「香り」に「肉体」が反応する。「知っている/覚えている」。そして、思い出そうと「肉体」がうごめく。「いのち」になって、生まれ変わろうとする。

やがて白い皿に 白い果肉を盛って
フォークとナイフを煌かせ 梨を食べている
朔太郎さんのように
前世にのめりこんで背中を見せて

 財部は「梨を食べる」という「肉体」をとおして、朔太郎と「肉体の回文」をやっている。こっちから見たら財部、あっちから見たら朔太郎、いやこっちから見たら朔太郎で、あっちから見たら財部。どっちから見ても、同じ。
 いや、それは違うよ、財部は「梨」になって生まれ変わり、「梨」の「肉体」から財部と朔太郎を見ているんだよ、財部も朔太郎も同じ「いのち/肉体」という見方の方がいいかもしれないなあ。さらにそれを突き破って、「梨」も朔太郎も財部も「いのち」になって「回文」を楽しんでいる読むと、もっと気持ちがいいなあ。梨を食べたい気分になるなあ。口の中に梨の汁があふれてくる。


氷菓とカンタータ
財部 鳥子
書肆山田


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