詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中塚鞠子『天使のラッパは鳴り響く』

2015-10-15 09:45:21 | 詩集
中塚鞠子『天使のラッパは鳴り響く』(思潮社、2015年09月15日発行)

 中塚鞠子『天使のラッパは鳴り響く』は「植生体系遺聞」と「失われた土地」というふたつの作品群から構成されている。私には前者がとてもおもしろかった。いわゆる「ウィルス」を「主役(主体)」にして書いている。「私」が主語ではない。だから、これは「私詩」ではない。
 「扉(ドア)をあけて」には「細菌(バイキン)」ということばが出てくる。
 
トントントン
扉をあけてくださいな

細菌(バイキン)ちゃんははいれません
ニッケルさんもはいれません
汗かきかんもはいれません
でも お忘れですか
ひらけ ごま! の呪文は
創口さんが知っています
みんながそろったら さあ呪文
扉があけばしめたもの
仲良くみんなではいりましょう
中は広いし
柔らかい
白い兵隊さんがやってくる
さあ 戦いのはじまりだ
乱闘死闘が繰り返され

湿疹かぶれただれ水泡(みずぶくれ)
かゆいかゆい 痛い痛い
開け放たれた扉はなかなか閉まらない

 「私詩ではない」と書いたが、しかし、そこには「人間」が見える。どうしてだろう。

 「創口」は「傷口」、「白い兵隊さん」は「白血球」だろう。「細菌」は生きるために傷口から「肉体」の内部へ侵入する。内部は「細菌」にとって住みやすい。というか、内部には細菌のための「養分」のようなものがいっぱいにある。そのことを、

中は広いし
柔らかい

 と、一種の「比喩」で書いている。「広い」「柔らかい」は「用言」である。それは基本的には「状態」をあらわしている。「広く+ある」「柔らかく+ある」。「ある」はbe動詞のようなものである。でも、私は、これを「広く+する」「柔らかく+する」、あるいは「広く+なる」「柔らかく+なる」のような形で読んでしまう。「する」とか「なる」ということばを補って「動詞」にして読んでしまう。そうした方が「細菌」の動きに合致するように思えるからだ。
 最近は傷口から人間のからだの中に入り、その「領土」を「広く+する」、拡大する。その「領土」はもともと柔らかいかもしれないが、さらに「柔らかく+する」。そうやってできた「やわらかい/新しい領土」が「湿疹かぶれただれ水泡」である。それは「細菌」がはいりこみ、つくりだしたものである。
 そこには「細菌」が「生きている」。人間が地球に生きているみたいに、「肉体」のなかで「生きている」。
 と、書いてくると(考えてくると/ことばを動かしてくると)。
 「人間」が地球に寄生する「細菌」のようにも思えてくる。私たちは地球に寄生し、地球に傷をつくり、それを勝手気ままに押し広げ、変形させている。
 地球はそのとき、人間のように「かゆいかゆい 痛い痛い」と言っているだろうか。

 どの詩でもいいのだが、どの詩でも同じことがいえる。書かれている「細菌」、あるいは「ウィルス」がまるで「人間」のようにみえる。あるときは「人間」という「総称」ではなく、ある「個人」に見えたりもする。
 どうしてだろう。

おやおや 入口がふたつある
あっちの入口毛むくじゃら
邪魔が多くて通りにくそう
こっちの入口は楽々入れそう
でも 時々しか開かない
チャンスを見計らって
それ!

 これは「とおりゃんせとおりゃんせ」の最初の方の部分だが、「細菌」と「人間」の区別を超えて、ここでは「動詞」が「共通している」。「動詞」こそが「比喩」のように動いている。「通りにくそう」「楽々入れそう」。「通る」「入る」という動詞が「細菌」の動きを表現するときにつかうかどうかわからないが、人間には、まあ、つかうな。で、そういう「動詞」に触れたとき、私の場合、私の「肉体」が動く。反応する。どこかを通る/どこかに入るときの「動き」を思い出す。「肉体」をどんなふうに動かして、通った/入ったか、を思い出す。そして、その動きに「細菌」を重ねてみる。「細菌」が人間のように手足を動かすわけではないだろうが、動かしているように感じる。
 「細菌」と「人間」は重ならないが、「動詞」が重なる。この「重なる動詞(共通する動詞)」が「細菌」を「人間」の「比喩」に変える。あるいは「人間」を「細菌」という「比喩」に変える。
 私の場合、「菌が人間になる」というよりも、「私が菌になって動く」という感じ。「肉体」を通して「菌とはこういう具合に動くものか」と納得するといえばいいだろうか。「こんなふうに動きながら菌は認識する、世界をつくる」ということを納得する。
 このとき大切なのは「動詞」である。「細菌」という「名詞/主語」ではなく、「動詞」こそが「比喩」を支えていると思う。
 「比喩」というのは、いま/ここに存在しないものを通して、いま/ここにあるものをより明確にする働きを持つが、そういうことが可能なのは「動詞」がいま/ここに存在するものと、いま/ここに存在しないものを「つなぐ」からである。
 「細菌」という「比喩」も「動詞」の使い方次第では違うものになる。どんな「動詞」をつかって人間とつなぐかということが、詩の重要な問題となる。
 このことを「流行の用語」をつかっていえば、どういう「動詞」をつかって世界を「分節」するかが、言語のいちばんの問題点である。「分節」ということばは、どうしても分節された存在(名詞)という形で目の前にあらわれるが、「名詞」よりも「動詞」が世界にとって重要である。人間は自分の「肉体」を動かせる範囲で世界を認識する。「肉体の動かし方(動詞)」が世界を「分節」するのである。
 「比喩」を支える「動詞」の使い方が、中塚の詩では、とてもしっかりしている。「動詞」がしっかり動いているので、「比喩」がつくりあげる「世界」が「現実」として見えてくる。

天使のラッパは鳴り響く
中塚鞠子
思潮社

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