詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

オリバー・ヒルシュビーゲル監督「ヒトラー暗殺、13分の誤算」(★★★)

2015-10-18 22:40:49 | 映画
監督 オリバー・ヒルシュビーゲル 出演 クリスティアン・フリーデル、カタリーナ・シュトラー、ブルクハルト・クラウスナー

 「ヒトラー暗殺、13分の誤算」というタイトルから推測すると、なぜ13分の誤差が生じたのか、という謎解きを期待してしまうのだが……。まあ、ヒトラーは暗殺されなかったのだから、その理由(原因)を知ったところでおもしろくはない。それよりも、そうかヒトラー暗殺計画があったのか、ということに驚く。さらに驚くのは、その計画を立て、実行したのが組織に属さない「ひとり」ということである。
 音楽が好きで、女が好きで、「全体主義(ナチス)」は嫌いという青年。
 最初の方に「女好き」が、ていねいに描かれる。恋人がいるのに、ほかの女に目移りする。人妻にもこころが動く。からだも動く。二人目の恋人に「だれそれ(一人目の女)は恋人じゃないの?」と問われて「自由が好きなんだ」と答えているが、この「自由」が彼の行動のキーワードだ。
 最初の方に青年は時計職人として出てくる。そのあと家具職人として出てくる。時計職人(時計の修理)も家具職人(家具作り)も、ひとりでできる仕事である。ひとりで全体を見渡しながらものをつくる。そこにも他人から支配されないという「自由」がある。音楽は共同作業だけれど、彼のやっている音楽には指揮者はいない。互いの音を聞きながら、自分の音を出す。自分のパーツの楽器は自分で弾く。他人に手伝ってもらうわけではない。自分の仕事をていねいにやれば、他人と共同して楽しい音楽ができあがる。ここにも「個人主義」と「自由主義」がある。
 共産党には投票するが、共産党員ではない。共産党員の仲間から助けを求められれば助ける。しかし、「組織」には属さず、あくまで「ひとり」として行動する。「自由」な「ひとり」というのが、青年の生き方であるということが、さりげなく描かれている。
 暗殺計画よりも、「全体主義(ナチス)」がドイツを覆っていくとき、こういう人間がいたということが、とても興味深い。ドイツ人のすべてがナチスだったわけではない。そして、そういう人間を作り上げるのが「仕事」であるというのも、興味深い。時計職人、家具職人という仕事が彼を「ひとり」で生きることを育てる。共同で何かをするとしても、それは「音楽」のように、互いの存在を認め合いながらのことであって、だれかに指揮されて動くわけではない。
 互いの存在を認め合いながら--ということについては、とてもおもしろいシーンがある。青年の最終的な恋人となる人妻との出会い。タンゴを踊るシーン。女の方が青年を挑発してくるのだが、それを受け止めながら肉体が互いに反応して動く。そこではセックスはおこなわれないが、セックスよりも濃密な「関係」がそこに生まれてくる。「一対一」が互いを育てるのである。
 青年が求めているのは、あくまで「一対一」の関係である。
 ヒトラー暗殺も、彼にとっては「一対一」のことなのである。ヒトラーを殺す。そして「自由」になる。それが青年の目的だ。
 「誤算」があるとしたら「13分」ではなく、ヒトラーを暗殺できず、他人を殺してしまったことである。恋人だけではなく、家族など、他人を巻き込んでしまったことである。「一対一」でやろうとしても、社会が「一対一」を許さない。
 これはヒトラー側からの、暗殺計画の取り調べについても言える。青年がひとりでやった、と主張しても、「ひとり」を認めない。背後に組織があるはずだ、と考え、問いつめる。「ナチス対共産党」という構図の中で暗殺計画をとらえようとする。ひとりでできるはずがないと考えるのではなく、そういうことをする人間が「ひとり」であることを許さない、という感じ。どんな人間も「組織」に属している。ナチスに反対する人間は共産党に属しているはず、と考える。
 これはユダヤ人に対する態度そのものとも言える。「ひとり」を認めない。ユダヤ人という組織(?)は認めるが、個人は存在を認めない。「ひとり」が何をするかは問題ではない。「組織」が問題なのだ。「全体主義者」は他者をも「全体」として見てしまう。
 ここに青年の「視点」とナチスの視点の違いがある。
 ここから奇妙な歪みが起きる。
 青年は暗殺計画をひとりで実行する。その「事実」を将校のひとりが認めてしまう。組織的犯罪ではなく、個人的犯罪であると、青年の言い分を認めてしまう。そうすると、こんどはナチスがその将校を追い詰めていく。具体的には描かれていないが、その将校は処刑されてしまう。彼の事実認識(青年の行動に対する認識は)間違っていない。将校が侵した間違いは、ナチス(ヒトラー)が求めていた「答え」を読み違えたことである。ヒトラーは、暗殺計画が「組織」によっておこなわれた、という答えを求めていた。ヒトラーに歯向かう人間を「組織」ごと壊滅したい。「組織」を壊滅したいのであって、「個人」を殺したいのではない。「組織」を破壊するのなら一回でできるが、「個人」を殺すためには「ひとりずつ」殺さなければならない。これは、きりがない。
 ユダヤ人虐殺を思い浮かべるといい。ひとりずつ殺していては厖大な時間と人手がいる。ガス室で一気に殺してしまえば、ひとりひとりと向き合うこともない。「個人」の尊厳というものが「頭」から抜け落ちてしまう。「個人」を忘れてしまうと、ひとは平気で暴力的になれるということかもしれない。
 映画に即して言い直すと、青年を取り調べるときナチスは拷問をするが、それは青年の肉体を痛めつけているのではない。青年を人間ではなく、「組織」と見ているから平気で暴力を振るえるのである。また青年は拷問が彼ひとりに対しておこなわれているときは耐えられるが、それが恋人という別のひとりに広がっていくことには耐えられず、自白をはじめる。すべてを「ひとり」で受け止めるために自白するのである。だれかに、自分のしたことを波及させない。
 と、考えてくると。
 この映画は、私たちに「個人」であれ、「ひとり」であれ、と呼びかけているのかもしれない。「組織」に身を隠すな。「ひとり」として行動しろ、と呼びかけているようにもみえる。日本のいまの政治状況を思うとき、特にそういう見方をしたくなる。「ひとり」が自由に集まり、また「ひとり」にもどっていく。そういう「闘い方」が必要な時代なのだと思う。

 ストーリーに沿ったことばかり書いてしまったが。
 青年が取り調べの過程で思い出す「故郷」の風景が美しい。そこで暮らすひとの暮らしが、酔っ払いを含めて美しい。人間的だ。特に一瞬描写された森と雨の風景、雨が木々のあいだを立ち上り白く空気が濁るシーンにうなってしまった。そういう美しい暮らしにまで侵入してきて人間を破壊するのが「全体主義」(一億なんとか主義)である。
                       (2015年10月18日、天神東宝4)





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小川三郎『フィラメント』

2015-10-18 14:30:11 | 詩集
小川三郎『フィラメント』(港の人、2015年09月22日発行)

 小川三郎『フィラメント』の「黄金色の海」で、私は立ち止まった。

あたり一面
黄金色の海だ。

そのなかに
ひまわりが
ただ一輪だけ
咲いている。

ひまわりだけが
ただしいかたちをしている。

手を伸ばして触れてみると
ひまわりは
風に吹かれて
ふるふるとした。

それはまるで
私のことでは
ないようなのだ。

 この五連目の「それ」とはなんのことだろう。「ひまわり」だと思って私は読んだ。あるいは、ひまわりが「風に吹かれて/ふるふるとした」(ふるふると震えた/ふるふると揺れた)という「こと」を指しているとも読むことはできる。どちらにしろ、それは「私」ではない。「ひまわり」は「私ではない」。
 これは自明のことなのに、小川は「私のことでは/ないようなのだ。」と書いている。
 このことは、逆に言えば、小川は「ひまわり」、あるいはひまわりが「風に吹かれて/ふるふるした」ということを「私のこと」として感じている、感じることを欲望している、ということでもある。ほんとうは、「私はひまわりだ」と信じている。それなのに「わたしのことでは/ないようなのだ」。
 「比喩」が二重になっている。
 「私はひまわりだ」というのが最初の「比喩」だ。それは二連目の「ただ一輪」のことである。三連目で「ただしいかたち」と言い直されている。それは「ただ一輪」であるために、風を正面から受ける。そのことを知らせたくて「ふるふる」と動く。
 ただし、この三連目の言い直しは微妙である。比喩としての「ひまわり」に、比喩ではない「私の手」が触れる。「私」が「ひまわり」なら、「私」は「ひまわり」に触れることはできない。でも、触れる。
 このとき「私」は、やはり比喩なのだ。現実というより「ひまわり」にとっての比喩。言い直すと「私はひまわり」という比喩ではなく、「ひまわりは私だ」という比喩がここにある。「ひまわり」が主語。
 比喩の中で「ひまわり」と「私」が交錯し、見分けがつかなくなる。そこにある(いる)のは「ひまわり」か「私」か、わからなくなる。「比喩がある」ということだけが、わかる。
 「比喩がある」とは、どういうことだろうか。
 「比喩」として、何かを語りたいという欲望が、そこにある、ということだ。その語りたい欲望以外は、何もない。語りたいという欲望は、「ことば」となって、そこに噴出してきている。そして、そこに「ことば」が存在する。存在することになる。「私」でも「ひまわり」でもなく、「ことば」であること。
 その一瞬。
 それを次のように、

それはまるで
「ことば」では
ないようなのだ。

それはまるで
「論理」では
ないようなのだ。

 「私」を「ことば」「論理」と置き換えて読むといいのかもしれない。「比喩」そのものと。置き換えてもいいかもしれない。
 比喩にもどって見る。
 「ひまわりは私ではない」「私はひまわりではない」というのは、「論理(ことば)」としては正しい。けれど、「私はひまわりではない」という論理が正しいからこそ、その正しさを裏切って「私はひまわりである」というときに比喩が成立する。
 比喩とは「嘘」であり、間違ったものである。「論理」ではない。「論理」を超越したことばである。比喩は、そうやって詩そのものになる。

それはまるで
ことばでは
ないようなのだ。

 は、

それはまるで
「ふつうの」ことばでは
ないようなのだ。

 であり、それは「論理を超越した論理(ことば)」、つまり詩である。

それままるで
比喩で
あるようなのだ

 ということになる。
 私ではない「ひまわり」を「私ではない」というときに噴出してくるのは、「正しい論理」ではなく、「論理を超越したことば=詩」であり、その「論理」自体が比喩であることによって、この五連目は詩になる。
世界そのものになる。

 「私」が「ひまわり」であるとき、すでに「私は私ではない」。それなのに、それが間違いであるかのように「わたしのことでは/ないようなのだ」と感じる矛盾。そこに詩があり、また、その詩を支えているのが「ようなのだ」という表現、比喩の形で語られるのがおもしろい。
 あ、この「ようなのだ」というは比喩ではなく、推測と呼ばれるものだが、その推測のなかに「ようなのだ」という比喩の表現が含まれることが、この詩の比喩を活性化させているとも言える。
 「私はひまわりだ」と言えば「暗喩」。「私はひまわりのようだ」と言えば直喩になる。「ないようなのだ」の「よう」は推測であると同時に直喩であると読むことができる。そのことが、この作品をおもしろくさせている。

 比喩の中で比喩が動く。それはこの詩全体の構造でもある。
 「黄金の海」は「現実の海(黄金色の海)」、たとえば朝焼けの海、あるいは夕焼けの海のことではない。(真昼の海なら、黄金ではなく白銀、真夜中の月に輝く海も白銀の海、ということになるかな?)
 「あたり一面」ということばを手がかりにすれば、「私」は「海」のなかにいる。「海」のなかに「ひまわり」があるというのは不自然で、「あたり一面のひまわり」を小川は「黄金色の海」と呼んだのだと推測できる。
 「黄金色の海」自体が、すでに比喩なのである。
 「あたり一面」ひまわりなのだけれど、そのなかの一本(一輪)を小川は識別している。一輪に目をとめている。その一輪だけが「ただしいかたち」に見える。それが「私」。「ただしい私」。
 こういう比喩が生まれるとき、小川は「私の正しさ」は孤立していると感じているのかもしれない。正しいのに孤立してしまう。震えてしまう。そういうあり方は「私」なのだけれど「私ではない」という思いもある。正しいのなら孤立しないはず、という「論理」がそう思わせるのかもしれない。
 しかし、こういう苦悩は、他者にはつたわらない。
 そういうことが、詩の後半で語られる。

黄金色の海では
すべてが輝いている。

ひとにまつわる痛みなど
ここではどうでもいいことだった。

 「ひとにまつわる痛み」とは「私(小川)にまつわる痛み」である。そういうものを「世間」は気にしない。どうでもいい。だれだって自分の痛みだけで十分であり、他人(小川)の痛みなど気にしていられない。
 そういう「世間」が「比喩」の「ひまわり畑(一面のひまわり)」として動いている。このとき「ひまわり」は比喩であると同時に、比喩を突き破って現実でもある。植物は人事(人情)などに配慮をしない。「非情」の美しさをもってい輝いている。そして、それが「非情の美」として認識されるとき、それは「世間」という比喩と交錯し、そのなかに溶け込んで行く。

 どのことばが「比喩」で、どのことばが「事実」か。
 それはいちいち分析してもおもしろくない。比喩と事実が混じりあうというのは、「現実(事実)」と「私の思い」が混じりあうというのに似ている。それは相互に影響し合いながら動いていく。混じりあったものが「現実」であり、その「現実」がことばでととのえられたものが詩なのだ。

黄金色の海が
私の背中に
ざんぶと波を
押し寄せる。

それで私も
私の心も
いちだんとまた
ふるふるとした。

 もう、ここでは、「ひまわり」という比喩は消え、かわりに「私」と「私のこころ」が前面に出ている。

もうこれ以上
光はいらない。
私はじゅうぶん
透明であり
じゅうぶん
価値が
うしなわれていた。

 私は大きな海のなかに飲み込まれている。ひまわりの海に飲み込まれている。どの一本が私であるか、それを知っているのは私だけである。他のひとにとっては識別ができない一本、価値のない一本、いわば透明な存在にすぎない。
 けれど、その透明、無価値の一本を、私は識別する。

ただひまわりだけが
ただしいかたちを

ただかたちだけをしている。

あたり一面
黄金色の海だ。

 比喩にして語るしかないこころがある。比喩の中でしか動けないころがある。

フィラメント
小川 三郎
港の人


*

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