詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中上哲夫『中上哲夫詩集』(現代詩文庫214 )

2015-10-11 11:21:47 | 詩集
中上哲夫『中上哲夫詩集』(現代詩文庫214 )(思潮社、2015年06月30日発行)

 日曜の朝、『中上哲夫詩集』を決めてページをめくる。福岡は夜明け前に雨が降ったのか、犬と散歩していたらアスファルトが濡れていた。で、雨が降る詩を思い出す。雨の降る詩があったはずだ。「旅へ!」という詩。

霧のダブリンを歩きまわるセバスチャン・デンジャーフィールドよ
アフリカの奥地でスコールを浴びているバルダミュよ
世界はいつも雨だ
アメリカもアフリカもアラスカもモスクワも雨だ
やさしい黒い冷たい雨だ
雨にぬれてあなたの下着はひえる
雨のなかであなたの下腹は青ざめる
あなたの細い踝から膝までの硬い線
ああ、あなたの下着はどんなだろう!

 読みながら、詩とは、「意味」ではなく「音楽」なのだと思う。
 私は「雨」に誘われて「雨」を探したのだが、この詩でいちばん印象に残るのは「セバスチャン・デンジャーフィールド」である。その聞き慣れない「音」である。「霧」というセンチメンタルと「ダブリン」という聞いたことがある土地の名が「セバスチャン・デンジャーフィールド」という知らない「音」で叩かれる。そこから、「アフリカの奥地でスコールを浴びているバルダミュよ」というまた知らない「バルダミュ」という「音」が出てくる。
 この「音」は、中上にとっては(そして多くの読者にとっては)知っている「誰か」だを指し示していると思う。しかし、私はそれを知らない。私にとっては単なる「音」だ。「わからない」何かだ。そのことが私を刺激する。「音」の向こう側に、私の知らないものが動いている。知らない「存在」が動いている。
 この感覚、世界に知らない何かがある、そしてそれは「音」をもっている。「音」となって出現してきている。「実在」「明確な存在」ではなく、まだ形になっていないものが出現している。その「予感」のようなもの、これが私にとっての詩なのだ。「未知の音」は「予感」そのものなのだ。
 三行目は「世界はいつも雨だ」という知っていることばだけでできているのだが、知らない「音」を通ってきたあとなので、知っていることばなのに、何か知らないものがそこにあるように感じられる。「世界はいつも雨だ」ということは「事実」としてはありえないのに、ことばの動き(運動)のなかでは、それが「ほんとう」としてあらわれてくる。「未知の音」が、それを「ほんとう」にしてしまう。
 三行目の「世界」は「アメリカ」「アフリカ」「アラスカ」「モスクワ」と言い換えられる。最初の三つの音は「ア」から始まっている。そこに「音」のつらなり、「音楽」を感じる。「モスクワ」は「ア」から始まるのではないのだが、アメリカ「も」アフリカ「も」アラスカ「も」と「も」がつづいてきたので、それを引き継いで「モスクワ」になる。この「音」の変化、「音楽」になって動く存在、隠れていた「音」を拾いあげて、それまでの流れ(響き)を逆転させる瞬間に、何か世界がかきまぜられるような感じがして楽しい。
 「意味」はあるのだろう。「意味」は、どこにでも存在するというよりも、どこにでもつけくわえることができるものだろう。つけくわえられるたびに、「世界」はちがった風に見えてくる。最初から存在しているはずのものなのに、つけくわえられたものによって、新しく生まれてくる。その新しい生まれ方が「音楽」だ。

雨にぬれてあなたの下着はひえる
雨のなかであなたの下腹は青ざめる

 「雨にぬれる」というのはあたりまえ。しかし、「雨にぬれる」と「下着」までぬれるか。これは、ちょっとむずかしい。ぬれることもあるだろう。ずーっと雨のなかにいれば、雨がしみ通ってくる。「雨にぬれた下着」はたしかに「ひえる」。ここでは書かれている「事実」のために必要な時間を、ことばが追い越している。ことばのスピードが速い。描写が猛烈なスピードで進む。
 それは次の「下腹は青ざめる」につながる。これは「下着はひえる」を言い直したものだが、「下着」から「肉体(下腹)」への変化には、「音」の繰り返しがつくりだすスピードが加担している。「雨にぬれてあなたの」「雨のなかであなたの」という類似の「音」、「下着」「下腹」という「下」という「頭韻」、「ひえる」「青ざめる」の「脚韻」が響きあって、「音楽」のなかで「世界」を凝縮させる。
 中上の詩には、「音」による「攪拌」と「凝縮(結晶化)」が同居している。そのために、ことばがいきいきして感じられる。この「いきいき」という「音楽」が詩なのだと思う。

 雨にぬれて、下着までぬれて、そのために下腹が青ざめる(病気になる? 下痢しそうな感じ?)というのは「楽しい」状況ではない。自分がそんな目にあったらきっと憂鬱だろう。しかし、そういう「陰鬱」な状況であっても、そのことを語る語り方次第では「いきいき」と感じられる。ことばが「いきいき」と動いているので、なんだか楽しくなる。ことばが、ことばのなかを突っ走り、勝手に動いていく。暴走する。「意味」はそれに輪郭を与えるだけだ。そして、その与えられた輪郭をさらに「音楽」が勝手に破っていく。
 あ、中上は「勝手に」ではなく、きちんと「意味」があるというかもしれないが、私は「意味」を気にしない。「論理的な意味」ではなく、「暴走するエネルギー」そのものに「生きている意味」があると思う。

あなたの細い踝から膝までの硬い線
ああ、あなたの下着はどんなだろう!

 「下腹」という「肉体」が「踝」「膝」へと動いていく。「細い踝」の「細い」は「青ざめる」に通じる。「膝までの硬い線」の「硬い」は「ひえる」に通じる。「意味」の「連想」は違う「音」になって広がり、また「下着」にもどる。
 入り乱れた「しりとり」のよう。あるいはジグザグの登り道のよう。急な坂を猛スピードで上るのはむずかしい。けれどジグザグにならスピードを落とさずにのぼれる。距離は長くなるが、スピードで乗り切ってしまう。ジグザグを遠回りとは思わないエネルギーの横溢。「音」があふれてきてしまう。「音」があふれて、勝手に「和音」と「リズム」をつくり「音楽」になってしまうのか。

愛やスカートや猿の砂漠をいくつ越えても雨だ
そこはやはり臭い立つ世界だ
おれのたびは旗とハンカチの旅行ではなく逃亡の影だ
おれのテーマは逃亡である
リチャード・キンブルのドラもなくバルダミュの愛もない逃亡だ
逃亡には強い心臓と胃腸が必要だ
そしてリチャード・キンブルの性的魅力!

 「臭い立つ世界」というのはセリーヌのことばであり、ここに中上の書いている詩の「テーマ」があるのだけれど、私は「テーマ」にはあまり関心がない。「テーマ」よりも、「リチャード・キンブル」という「音」の闖入によるイメージの活性化がおもしろいと感じる。「愛」に対して「性的魅力」ということばが向き合うスピード、その暴走の速さがおもしろいと感じる。
 「臭い立つ世界」を「哲学」にして語るのではなく、ことばの暴走というエネルギーのなかで実践してみせるときの「音」の楽しさ、「音楽の喜び」を感じる。
 ことばを元気にしてくれる詩だ。

中上哲夫詩集 (現代詩文庫)
中上哲夫
思潮社


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