若松丈太郎「十歳の夏まで戦争だった 4」(「いのちの籠」31、2015年10月25日発行)
若松丈太郎「十歳の夏まで戦争だった 4」が掲載されている「いのちの籠」は「戦争と平和を考える詩の会」が発行所。多くの詩が「理念」を書いているのに対し、若松は「事実」を書いている。
「一九四一年に「金属類回収令」が施行された」と書きはじめられ、どんなものが回収されたかが書いてある。
かつて聞いたことがある。その聞いたことを思い出した。「箪笥の取っ手 蚊帳の釣り手」になると、まるで「笑い話」か「作り話」だが、それは実際にあったのだろう。供出の「割り当て」があって、しかたなく、そういうものを出すしかなかったということだろう。
私は実際にはそういうことを直接知らないのだが、最後に書かれている「抜いた釘を叩いてまっすぐにして使った」というのは「体験」として、ある。
戦後十年以上たっても、「日常」はまだ「戦争中」だったということかもしれない。戦争が引き起こした「物資の不足」(貧しさ)はつづいていた。「抜いた釘を叩いてまっすぐにして使う」というような「暮らしの知恵」が残っていた。釘が貴重な「暮らし」は、身の回りのものを自分でつくるという「暮らし」がつづいている間中、生きていた。
この工夫して生きるということが、不思議な力で「肉体」に迫ってくる。
「箪笥の取っ手 蚊帳の釣り手」まで供出しろというのは、「笑い話」だが、「抜いた釘を叩いてまっすぐにして使った」は「笑い話」ではない。
「笑い話」ではないことを、若松は、まだ覚えている。暮らしに必要な金偏のものを供出したあと、どうやって暮らしたかを若松は正確に覚えていて、それを書いている。
これは、私の知らない世界だ。聞いたことがない。
聞かされれば、なるほど、と思うが、そういうことがあったと「想像」したことがない。
「暮らし」というのは戦争があろうがなかろうが、つづいている。鉄釜がなくなれば食べなくてすむというわけにはいかない。鉄釜がなくても、ものを煮炊きして食べなければならない。そのとき、土鍋をつかう。土竈をつかう。
ここに「権力者」の知らない「工夫」、人間の「暮らしの美しさ」があると思う。なんとしても生き抜くという「暮らしの強さ」が隠れている。
「戦争」というものは、たいていが「利権」を求めてはじまる。自分が持っていないものを(不足しているもの)を「略奪」することを目的としている。「略奪」したもので自分の「暮らし」を豊かにするという「欲望」からはじまる。
しかし「略奪」しなくても「暮らし」を維持することはできる。
「鉄」がないなら「土鍋」「土竈」、あるいは「木の風呂」「木の釦」。「木の釦」は美しいなあ。釦がなければないでも、制服をはおって着ることはできる。でも、それは「正しい」着方ではない。「正しい」着方をするために「木釦」をつくる。
「正しい」を「つくる」。
ここに「暮らしの美しさ」がある。
この「つくる」は「暮らしの必需品」とは言えないようなものにまで広がっていく。
「校庭の二宮金次郎」。そんなのもがあろうとなかろうと、「食う(生きる)」という「暮らし」には関係がない。……はずなのだが、そうではないのかもしれない。人間には、何か「指針(正しい/正しさ)」のようなものが必要だ。「指針」が「暮らし」をととのえるのだろう。「木の釦」のように。
何もない時代にあってさえ、その「暮らしのととのえ方」を守ろうとする力が動いている。暮らしを正しくしようとする力が動いている。
二宮金次郎のような生き方を「指針」とするべきである、と言いたいのではない。二宮金次郎の石像をつくることで、自分の「暮らし」をととのえようとしたひとがいる。そのことを、思い出さなければならないと思う。
そして、その「思い出す」ということのために、七十年前までつづいた戦争の「記憶」は語られる必要がある。具体的な「思い出」が、いまの日本の動きをとめる力になる、と思った。もっともっと、若松の書いているようなことばは書かれ、読まれる必要があると思った。
*
谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
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若松丈太郎「十歳の夏まで戦争だった 4」が掲載されている「いのちの籠」は「戦争と平和を考える詩の会」が発行所。多くの詩が「理念」を書いているのに対し、若松は「事実」を書いている。
「一九四一年に「金属類回収令」が施行された」と書きはじめられ、どんなものが回収されたかが書いてある。
火箸 五徳 十能 自在鉤
燭台 花器
火鉢 薬缶 鍋 鉄瓶
鉄釜 五右衛門風呂
鋏 鋸 鉋 鑿 鉈
鏝 熨斗 アイロン
鋤 鍬 鎌
箪笥の取っ手 蚊帳の釣り手
灰皿 煙管 バックル
鉄柵 店の看板
鉦 鐘 梵鐘
銅像
銅板葺きの屋根板を供出した家もあった
金偏のものはなんでも
小さいとき長靴にベルトで固定して滑ったスケートも
ブリキのおもちゃも供出だ
抜いた釘を叩いてまっすぐにして使った
かつて聞いたことがある。その聞いたことを思い出した。「箪笥の取っ手 蚊帳の釣り手」になると、まるで「笑い話」か「作り話」だが、それは実際にあったのだろう。供出の「割り当て」があって、しかたなく、そういうものを出すしかなかったということだろう。
私は実際にはそういうことを直接知らないのだが、最後に書かれている「抜いた釘を叩いてまっすぐにして使った」というのは「体験」として、ある。
戦後十年以上たっても、「日常」はまだ「戦争中」だったということかもしれない。戦争が引き起こした「物資の不足」(貧しさ)はつづいていた。「抜いた釘を叩いてまっすぐにして使う」というような「暮らしの知恵」が残っていた。釘が貴重な「暮らし」は、身の回りのものを自分でつくるという「暮らし」がつづいている間中、生きていた。
この工夫して生きるということが、不思議な力で「肉体」に迫ってくる。
「箪笥の取っ手 蚊帳の釣り手」まで供出しろというのは、「笑い話」だが、「抜いた釘を叩いてまっすぐにして使った」は「笑い話」ではない。
「笑い話」ではないことを、若松は、まだ覚えている。暮らしに必要な金偏のものを供出したあと、どうやって暮らしたかを若松は正確に覚えていて、それを書いている。
鉄釜が土釜になった
鉄の竈が土竈になった
五右衛門風呂が木風呂になった
マンホールの蓋が鉄製からコンクリート製に
金偏のものはなんでも
学校の制服の釦まで真鍮から木になった
校庭の二宮金次郎が銅像から石像になった
これは、私の知らない世界だ。聞いたことがない。
聞かされれば、なるほど、と思うが、そういうことがあったと「想像」したことがない。
「暮らし」というのは戦争があろうがなかろうが、つづいている。鉄釜がなくなれば食べなくてすむというわけにはいかない。鉄釜がなくても、ものを煮炊きして食べなければならない。そのとき、土鍋をつかう。土竈をつかう。
ここに「権力者」の知らない「工夫」、人間の「暮らしの美しさ」があると思う。なんとしても生き抜くという「暮らしの強さ」が隠れている。
「戦争」というものは、たいていが「利権」を求めてはじまる。自分が持っていないものを(不足しているもの)を「略奪」することを目的としている。「略奪」したもので自分の「暮らし」を豊かにするという「欲望」からはじまる。
しかし「略奪」しなくても「暮らし」を維持することはできる。
「鉄」がないなら「土鍋」「土竈」、あるいは「木の風呂」「木の釦」。「木の釦」は美しいなあ。釦がなければないでも、制服をはおって着ることはできる。でも、それは「正しい」着方ではない。「正しい」着方をするために「木釦」をつくる。
「正しい」を「つくる」。
ここに「暮らしの美しさ」がある。
この「つくる」は「暮らしの必需品」とは言えないようなものにまで広がっていく。
「校庭の二宮金次郎」。そんなのもがあろうとなかろうと、「食う(生きる)」という「暮らし」には関係がない。……はずなのだが、そうではないのかもしれない。人間には、何か「指針(正しい/正しさ)」のようなものが必要だ。「指針」が「暮らし」をととのえるのだろう。「木の釦」のように。
何もない時代にあってさえ、その「暮らしのととのえ方」を守ろうとする力が動いている。暮らしを正しくしようとする力が動いている。
二宮金次郎のような生き方を「指針」とするべきである、と言いたいのではない。二宮金次郎の石像をつくることで、自分の「暮らし」をととのえようとしたひとがいる。そのことを、思い出さなければならないと思う。
そして、その「思い出す」ということのために、七十年前までつづいた戦争の「記憶」は語られる必要がある。具体的な「思い出」が、いまの日本の動きをとめる力になる、と思った。もっともっと、若松の書いているようなことばは書かれ、読まれる必要があると思った。
わが大地よ、ああ | |
若松丈太郎 | |
土曜美術社出版販売 |
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谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。
なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。