詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

J ・C ・チャンダー監督「アメリカン・ドリーマー 理想の代償」(★★)

2015-10-13 09:51:55 | 映画
監督 J ・C ・チャンダー 出演 オスカー・アイザック、ジェシカ・チャステイン、デビッド・オイェロウォ

 暗い映像がつづく。冬のニューヨークが舞台だから光が少ないのか。たしかにそうかもしれないが、そうではない。
 あれは買おうとしている土地でのシーンだったか。屋外。車が止まっている。その前で、主人公が顧問弁護士と話している。沈んだ冷たい空気がそのまま暗い色彩になっている。冬だから光がないのだ、と思っていたら、一瞬カメラが左側へすーっと動く。そうすると、そこにやわらかな光がある。地面に指すオレンジ色の光、光のために明るくなる地面が見える。
 ふたりは、「わざと」日影で話していたのである。というか、監督は二人を「わざと」日影で話させていたのである。なぜ? 光のなかの方が主人公の着ているコートのしなやかな美しさがわかる。二人の表情がわかる。感情の動きがわかる。これは、「わざと」わかりにくくさせているのである。「わざと」影のなかで人間を動かしているのである。
 どのシーンも、「表情」をわかりにくくさせている。
 わかるのは主人公がとても高級な服を着ているということ。(妻も、何か場違いとでもいえるような、しなやかな美しい服を着ている。妻は、セックスのこと、快楽のことを、いつもいつも考えているという感じで動いている。会計計算というか、粉飾の決算書をつくるときでさえ、セックスをしているような感じ--というのは、ちょっと脱線した感想か……。この奇妙なシーンは、妻の表情が「わかりにくい」ということの裏返しの証明でもある。観客は妻のその姿をみるとき、一瞬、ストーリーから脱線するのだから。)
 脱線してしまったが……。
 主人公にもどると、主人公の目が大きいということが、はっきりわかる。「表情」はわかりにくいのに、なぜか主人公の「目」だけはくっきりと見えるのである。実際の目の大きさ以上に、その目が強調されて見える。
 途中に営業マンにセールスのこつを教えるシーンがある。そこで「相手の目を見ろ。必要以上に長く見ろ」という台詞が出てくるが、まさにそれがこの映画で実践されている。主人公は観客(私)を見つめているわけではないが、主人公がスクリーンに映るたびに私は主人公の目と向き合ってしまう。微笑まない目だ。セールスのこつを教えているとき、新入社員が思わず微笑んでしまうが、主人公は「笑っている場合ではない」と叱る。それはしかし、叱るのではなく、自分に言い聞かせているのだ。「笑っている場合ではない、いつも真剣だ」。「コーヒーか紅茶、どちらをのみます? と問われたら紅茶と答えろ。紅茶の方が高級だからだ」。そういうことを考えている目である。相手が自分をどう見ているか、それをいつも真剣に考えている。別な言い方をすると、他人に対して「開かれていない/閉じこもった目」である。そういう目がスクリーンを支配している。
 この目を、少し離れてみるとどうなるだろう。その目で見ている世界は、他人が見ている世界と同じだろうか。主人公はクリーンに、正直一徹で業績を上げてきた。そしてそのままさらに事業を拡大しようとしている。彼には、他人の不正が見える。見えるけれど、そのまねをしようとはしない。あくまで自分の見ている「世界」へ向かって動いていく。薄暗い世界にあって、その「闇」には足を向けず、そこから「光」の方へ動いていこうとしているのだが、ほかのひとはそうではない。
 ほかのひとには、映画の色彩と同様、その世界は「日影」のあいまいさのなかに揺れ動いている。「光」と「闇」はまじりあって動いている。「光」を強調されると、困る。「影」が「闇」になってしまう。一徹な「正直」で世界を見ていない。むしろ「闇」を利用している。「闇」に隠れて、「光」を盗み取っている。それが、たがいをぼんやりとうかひ上がらせている。
 それだけではない。この映画には最後にどんでん返しがある。主人公の追い求めてきた「光」は幻である。それが「光」でありつづけるためには、背後に「闇」が必要だった。妻が「闇」を一手に引き受けて、「闇」を隠しつづけた。その結果として主人公の「光」があるにすぎない。そのブラックホール(?)へ主人公は落ちていくのだが、これは転落? 転落したのだとして、何が転落した? 事業の方は拡大する。成功する。だが、主人公は「明るい光」にはなりきれない。
 最後。主人公の目の前で運転手が自殺する。運転手の頭を貫いた銃弾が、背後の石油タンクに穴を開ける。そこから石油がどぼどぼとこぼれる。まるで主人公の「血」のように見える。「血」が流れるタンクの穴を、主人公はハンカチで塞ぐ。
 うーん、きちんと塞げたのか。それで塞いだことになるのか。
 このあと、私たちは主人公の大きな目を再びスクリーンで見ることはない。そのあとにつづくのは、「正直一徹な目」で見た世界ではない、そういう世界は失われてしまったということだろうか。そういう意味では、この映画は、過去を描きながら現在を告発しているのかもしれない。ニューヨークの地下鉄はきれいになった。殺人も減った。だが、その「美しい」表面の世界の奥で、何が動いているか。その「闇」を睨む目はどこへいってしまったか……。

 計算された色彩、しっかりした構図のなかにきっちりと収まった映画だが、収まりすぎている感じが窮屈である。「意味」の強さに反する、このスクリーンの「ぼんやりした暗さ」は私の好みではない。抑えきれない色彩や映像の暴走がある映画が私は好きなのだと、あらためて思った。
                     (KBCシネマ2、2015年10月12日)






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