詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高木敏次『私の男』

2015-10-20 12:21:36 | 長田弘「最後の詩集」
高木敏次『私の男』(思潮社、2015年09月15日発行)

 高木敏次『私の男』は書き出しが刺戟的だ。

私のことを
私の男と呼んだ
まるで男を見つめるように
私を見つめていた
男とは約束だった
私に会わせると
誰にも言わず
どこかへ連れて行くこと

 「私」と「男」ということばが出てくる。
 最初の二行で、「私」と「私を私の男」と呼ぶ「私」が登場する。ふたりの「私」は同一人物ではない。「私の男」と呼ばれるとき、「私」は「私」であると同時に、「私」ではなく「私の男」である。「私」を「私の男」と呼ぶ人間は「私」ではないが、その人間は自分自身を「私」と呼んでいる。その「私」を「私の男」と呼ぶ人間を「女」と仮定することもできるし、「男」と仮定することもできる。「男」と仮定した方がより刺戟的になる。論理がごちゃごちゃになって、楽しい。
 「私を私の男と呼ぶ」人間は、「私」を「男」を見るように見つめる。そのとき、「男」とは誰か。どういう存在か。そこに存在しない「別の男」を見る、という意味かもしれないが、「別の男」とは何か。単純に「私ではない男」「私を私の男と呼ぶ私ではない男」か、それとも「私のなかに存在する男(理想の男?/否定すべきだめな男?)」なのか、それとも「私の男」と呼ぶ人間が「思い描く男(理想の男?/否定すべきだめな男?)」なのか。いずれにしろ、「いま/ここ」には存在しない「男(人間)」だろう。「いま/ここ」の瞬間には「見えない」人間だろう。
 「男」は「実在」であると同時に「比喩」でもある。「いま/ここ」にいないのだから。
 五行目の「男」とは誰か。「約束」とは何か。「男は約束だった」という一行は「男」そのものが「約束」であるとも読むことができる。比喩である。「約束」とは「希望」であり「願い」でもある。つまりは「理想の男」が「約束」であり、「約束」が「いま/ここにはいない男」である。どちらが、どちらの比喩か。「約束」が比喩か、「男」が比喩か。よくわからない。比喩であるから、やはり「いま/ここ」にはいない。不在が、ことばをごちゃごちゃにする。
 その比喩としての「男」に「私」を会わせる。そうすると、「会わせる」ことを「約束」と読むこともできる。「会わせる」ために「いま/ここ」ではない「どこか」へ「連れて行く」。「連れて行く」は「会わせる」の言い直しである。だから「連れて行くこと」が「約束」であると読み直すことができる。
 「私」「男」「約束」という三つのことばのなかに、その三つが交錯し、区別がつかなくなる。「私」「男」「約束」はことばを動かすための「記号」なのか、「比喩」なのか……。

 この区別のなさ、交錯の加減を、ちょっと整理し直してみる。
 最初に出てくる「私」を便宜上「私(1)」とする。「私の男」と呼んだ「私」を「私(2)」とする。「私(2)」から見ると「私(1)=男」である。そして「私(2)」がやはり「男」(一般的な性の区別)だとすると、数式的には「私(1)=男=私(2)」になる。これを「数式(1)」としておく。
 三行目の「男」が「私とは別の男(私の男ではない男)」と読んでみる。そうすると「私(1)=男=私(2)」とは別なところに、「別な男」が存在することになる。「これを「男(2)」と呼ぶ。そして、「数式(1)」にもどって、そこに出てくる「男(一般名詞)」を「男(1)ととらえなおす。「私(1)=男(1)=私(2)」。そして「男(1)」は「男(2)」ではない。「男(1)≠男(2)」。ただし、「私の男」と限定するとき、それは一般名詞としての男ではなく、何らかの意識が組み込まれた男(理想の男)だろうから数式(1)は「私(1)=男(2)≠私(2)」ということになる。しかし「男(2)」は「私(1)」の理想ではなく、「私(2)」の理想なのだから、その数式は即座に「私(1)=男(2)=私(2)」になる。
 問題は、その「男(2)」がどこに存在するかである。「いま/ここ」ではないどこかだが、「いま/ここ」ではないというのは「時間/場所(時空間)」を指すこともあるが、「男(2)」が「理想の男」だとすると、それは「いま/ここ」に顕在していないけれど潜在しているものと考えることもできる。つまり「男(2)」は「私」の内部にいる、あるいは「私(2)」の内部に隠れている。
 「数式(1)」が現実なら、「数式(2)」は精神世界、比喩の世界である。
 その比喩的世界「数式(2)」の世界を現実世界に引き戻すと「理想の男」を「潜在する男(実現されていない理想)」ということになる。その「潜在している男=私」に「会わせ」るとは「潜在している私」を発見するということでもある。「連れて行く」は「いま/ここ」から「潜在する私の場」を発見するということである。「潜在している私」を「未生の私」と読み直すと、それは「未生の私」を発見し、誕生させるということでもるあ。「新しい私(理想の私?/約束の私?)」として生まれ変わる、誕生する、ということでもある。

 うーん、整理できたのか。逆に、いっそうごちゃごちゃしてしまったのか。
 ごちゃごちゃついでに、もっとごちゃごちゃにしてしまおう。
 「私」「男」「約束」という名詞ではなく「動詞」に目を向けて、ここに書かれていることを読み直す。
 最初に「呼ぶ」という「動詞」が出てくる。主語は「私ではない私」、つまり「私(2)」。「私(2)」が「私(1)」を呼ぶ。「見つめる」も同じ「私(2)」が主語。ただし、このとき「見つめる」は架空を含む。「現実」を「見つめる」のではない。「見つめるように」と「直喩」につかう「よう」ということばがそこにかかわっている。(この「よう」があるからこそ、「私の男」ということばが一種の架空/比喩のように響いてくるのだ。)
 そのあと「会わせる」「連れて行く」という「動詞」が出てくる。「私(1)」が「会う」のではなく、「私(2)」が「会わせる」。使役である。「私(1)」が「行く」のではなく「私(2)」が「連れて行く。」使役である。しかし、その使役の結果(?)、「私(1)」が「会う」、「私(1)」が「行く」ことになる。「私(2)」の動詞に「私(1)」が「動詞」の形をかえながら、同時に動いている。連動している。連動することで理想が現実になる。
 「連動する」という動詞の「連」は「連れて行く」という動詞のなかに存在している。この「連れ」が、今回の高木の詩のキーワードなのだろう。
 「連れて行く」の主語は「私(2)」だが、その「動詞」は「私(2)」だけでは動かない。「私(1)」が存在しないと、動詞として働かない。「私(1)」と「私(2)」は連動している。「私(2)」によって「私(1)」が顕在化する。すでにそこに存在する(潜在する)ものが、「私(2)」によって、隠れながらあらわれる。
 で、そう思うと、最初に書かれていた

私の男と呼んだ

 の「私の男」ということばが指し示すものが、またあぶりだされる。「私の男」は「私(2)」によって顕在化される「私(1)」なのである。それは「私(2)」の働きによって顕在化するがゆえに「私(2)」であるとも言える。「私(1)」だけでは潜在したままの存在だからである。
 この緊密な関係の「旅」が、引用した詩行のあと延々とつづく。

男は私を探し
私は男を信じない
誰が男なのか                          (15ページ)

もう少し
私をしてもよい                         (72ページ)
 
 のような行が、あちこちに登場し、「私」と「男」の関係へと詩を引き戻す。
 で、こうした詩を読むと、どうしても「答え」を出したくなるのだが、詩は答えを求めるものでない。
 しなければいけないのは逆のことだ。

道に迷いたいのに
どう間違えればよいのか                    (9-10ページ)

 詩は、間違えつづけるためのものなのだ。だから、迷い、間違えたまま、ここできょうの感想をやめておく。高木の詩は、「森」や「鏡」を比喩にしながら展開していくが、そのときの緊迫は最初の八行を弱めてしまっているように私には感じられた。もっと「私(1)」と「私(2)」、「男(1)と「男(2)」の錯綜する「動詞」を読みたい、という思いが強く残った。もっともっと間違えたいし、迷いたいので、書き出しだけにしぼる形で感想をやめておく。


私の男
?木敏次
思潮社

*

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