詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

陶山エリ「はなことば」

2015-10-03 11:29:02 | 現代詩講座
陶山エリ「はなことば」(現代詩講座@リードカフェ、2015年09月30日)

 陶山エリ「はなことば」は、いままでの陶山の作品とは少し変わっている。接続不明の切断/切断不明の接続のうねりに迷い込む感じがしない。しかし、やはりどこかに迷い込むような感覚は残っている。その全行。

中上健次の『鳳仙花』に出てきそうなおばばの手のひらに
白いまんじゅうを座らせ
花言葉を授けてみる
わたしを破かないで

磁器に似て薄い皮の下
こしあんなのかつぶあんなのか
まだ知らずに手のひらに
わたしを破かないで
つぶやいてみたりして白いまんじゅう

座らされてかなしいか
いまならテロリストにだってなれるだろうに
白い光が危うく透ける
手のひらにもう咲いてしまいそうに白いまんじゅう

アリくるぞ
うつむくな
ひんむくぞ
てのひらの
てろりすと

わらべ歌くちずさめば
風が吹くのを待たずに
字のない少女の朱色の
くちびる
むしり去る

破かないでといっているのにといっているのに

濁ったおばばの瞳は
くず桜の半透明みたいだ
半透明の目を盗んで半透明からこしあんが
見えそうで見えない
もういいよ
くず桜のはなことばはもういいよ
おばば、もういいよ

おうよ喰わんいうなんだらもうええさか

 まず受講者の感想を聞いてみた。

<受講者1> 「白いまんじゅう」という詩に書かないことばをもってきている。
       それがおもしろい。
<受講者2> まんじゅうが透けるのがおもしろい。わらべ唄のような感じもある。
       笑ってしまうユーモアがある。
<受講者3> まんじゅうは買うけれど、こんなことを考えたことがない。
<受講者4> 「濁ったおばばの瞳は/くず桜の半透明」がなまなましい。
       なまぐささもある。
<受講者5> 日本昔話みたい。発想がおもしろい。
       花言葉をまんじゅうにつないでいるのが独特。
       半透明がおばばの瞳はなまなましいけれどきれい。

 受講生は、まず「題材」に注目している。「まんじゅう」というのは詩には書かないことば、という意見があったが、これは「詩」というものの考え方が少し堅苦しいかもしれない。題材ではなく、書き方に目を向け、そこから詩をつかみなおすことが必要かもしれない。
 詩は、「美しいもの」を書くのではなく、書くことによって、その存在を変えてしまうことである。書かれたもの(対象)に詩があるのではなく、その対象をどう書くか、ということろに詩があるからだ。
 この詩のおもしろさは「まんじゅう」という題材よりも、ほかの部分に目を向けた方がくっきりするかもしれない。
 五連目に「字のない少女」というのが出てくる。これは、どういうことだろう。

<質  問> 詩のなかに「おばば」「わたし」「字のない少女」がでてくる。
       この三人の関係は? 「字のない少女」って、だれ?
<受講者4> のっぺらぼうの感じ。小さな女の子。
<受講者1> 話せるけれど、字の読めない少女。

 冒頭に中上健次、「おばば」が出てきたので、私も「読む」ということばを補って字を読めない少女、と受け止めた。「おばば」の小さいころだと思った。そう思うと、この詩のなかには三人ではなく、「おばば」と「わたし」の二人がいることになるのだが、そんな簡単にわりきることもできない。
 その次の行がおもしろい。

<質  問> 「破かないでといっているのにといっているのに」は言ったのはだれ?
<受講者1> まんじゅう。

 「まんじゅう」は話せない。ものだから。でも、「まんじゅう」が「破かないで」と言っている。とても変である。
 で、一連目にもどってみると。

わたしを破かないで

 この「わたし」は「まんじゅう」。作者ではない。「わたし」ということばはあるが、それは「まんじゅう」。作者は「まんじゅう」に「わたし」と言わせている。
 このとき、陶山は、「半分」まんじゅうになっている。まんじゅうと作者のあいだを行き来して、あいまいなままことばを動かしている。
 「おばば」も、実はあいまいだ。実際に「おばば」がいるのかもしれないが、「中上健次の『鳳仙花』に出てきそうな」ということばを書いた瞬間から、そこには作者(陶山)の視線が紛れ込む。その「おばば」は「半分」は陶山である。
 陶山は、ここに書かれていることばのなかでは「わたし」ということばでは明確には出てこない。作者は隠れている。

中上健次の『鳳仙花』に出てきそうなおばばの手のひらに
白いまんじゅうを座らせ
花言葉を授けてみる

 この書き出しに「主語」を補ってみる。「陶山は」まんじゅうを「座らせ」、花言葉を「授ける」。
 二連目の後半の二行は、どうなるか。

わたしを破かないで
つぶやいてみたりして白いまんじゅう

 これは、倒置法。「白いまんじゅう」が「主語」で「白いまんじゅう」が「わたしを破かないで/とつぶやいて」いる、と読むことができる。
 ただし、まんじゅうは、つぶやかない。
 だから、これは、「陶山が」まんじゅうに「わたしを破かないで」と「つぶやかせている」のである。「わたしを破かないで」という「言葉を授け」「つぶやかせている」。使役の「主語」として、陶山が隠れている。
 その隠れている陶山が、隠れたまま陶山自身の声を発している部分がある。それが三連目。

座らされてかなしいか
いまならテロリストにだってなれるだろうに

 こう思っているのは「おばば」でも「白いまんじゅう」でもない。それに続く二行は陶山がまんじゅうを客観的(?)に描写していることになる。
 で、その陶山自身の思いのなかにあることば「テロリスト」が次のわらべ唄のなかに復活してくるとき、ちょっとややこしくなる。そのわらべ唄は陶山が書いたのか。もちろん、陶山が書いたのだが、それは形式的なことであって、詩のなかではだれが書いたことになっているか。「字のない少女=おばば」が歌っている。しかし、そこに「テロリスト」ということばが出てくる限り、それは陶山の声が反映している。「テロリスト/てろりすと」という表記の違いが、それがそのまま「陶山の声」というよりも「陶山の反映」であることをあらわしているのだが……。
 登場してくる「ひと」も「もの(まんじゅう)」も、ことばの奥底でつながって「ひとつ」になっている。あらわれるたびに「まんじゅう」「おばば」「少女」と違っているのに、奥底では「ひとつ」。
 「未分節」のところで動いていることばが、形を変えながら「分節」してきている。
 それが「見えそうで見えない」という感じで動いている。「見える」のだけれど、その「見える」を客観的に(論理的に)言おうとすると、うまく言えない。つまり「見えそう」に見えたのに、「見えない」ということになる。
 これを「白いまんじゅう」から「くず桜」に変えて、言い直している。それまで書いた「世界」を別な「もの」で「比喩」にして隠しながら、「比喩」のなかで「比喩」を剥がすようにして「陶山の世界」を言い直している。
 「濁った」と「半透明」が「ひとつ」になって、「見えそうで見えない」という世界は、そこに「作者」と「おばば」と「菓子(白いまんじゅう/くず桜/こしあん/つぶあん)」が区別なく動いているからである。存在しているというよりも、動くことで存在になっているからである。
 「くず桜」は菓子だから、「くず桜」に「はなことば」はない。あるとすれば「菓子ことば」ということになるが、それを陶山は「はなことば」と言い換えて「もういいよ」と声にしている。「くず桜(菓子)」のなかには「桜」という「花」があるために(半分まじっているために)、「はなことば」と言われても違和感がない。
 よく読むと「違和感」がある。つまり「論理的ではない」という印象があるのに、ぱっと読むと「半分」まじりあうのもののなかに「論理」につながる何かがあるために、違和感を覚えない。「おもしろい」と引き込まれる。
 「もういいよ」は隠れている陶山が「くず桜」に授けた「はなことば」なのだが、それが最後に「おばば」の声になってしめくくられる。このことも陶山は「半分」は「おばば」であることの証拠になるのだが、

おうよ喰わんいうなんだらもうええさか

 これを標準語で言い直したらどうなる?と質問したとき、作者の陶山からちょっとおもしろいことばが「ぽろり」とこぼれた。

(白いまんじゅう/くず桜を)蹂躙したいような、いじめたいような気持ちがあって、そう書いた。

 「白いまんじゅう」の花ことばは「わたしを破かないで」なのに、だからこそ「破りたい」(蹂躙したい)という。「破かないで」が「食べないというなら、もう食べないでかまわない。もう食べないでもいいよ」と言いながら、そういうことばで「白いまんじゅう」をいじめている。まんじゅうは食べられてこそまんじゅうなのだから、「食べない」というのは「いじめ」である。
 あらゆることばは、どこかで正反対の意味になる。それは逆に言えば、どんなことばも奥深いところでは「ひとつ」になっている。それが「あらわれる」ときの「あらわれ方」で「ひとつ」が「ふたつ」(正反対)になったりする。
 こういう「世界」を「小説」や「評論」で書くのはなかなかむずかしい。「詩」のように、わかったようでわからないスタイルがとてもあっていると思う。ということは、詩とは、わかったようでわからないことを、わかったようでわからないまま書いてしまうといことなのかもしれない。
 対象ではなく、「書き方」が詩であるというのは、そういうことでもある。

*

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