高橋千尋「植物の部屋」(「一個」5、2015年秋発行)
高橋千尋「植物の部屋」は、絵つきの詩。「祖父母の家の前に大きな原っぱがあって奥へどんどん入って行くと家具が沢山捨てられていた。」そういう原っぱのことを書いている。
文字だけ読んでいると、「どこがおもしろい?」と言われそうだ。実際、ことばにむだかなく充実した手触りがあるというような、抽象的な言い方でしかおもしろさを表現できないのだが……。また、私は「詩」よりも、そこに書かれている「絵」がおもしろいなあ、と思ってしまう。原っぱの草花はリアルというわけでも、抽象的というわけでもない。何か、あ、こういう植物を見たことがあるぞ、これはタンポポかな、これはナントカカントカ(私は植物の名前を知らない)かな、と思いながら見る。名前は知らなくても見たことがあるような気がする。記憶を刺激する(誘い出す)ていねいな描写がなつかしいのである。
そして、そこに引き出し。あ、タンスという方が正確かもしれないが、古い金具の把手のついた引き出しのタンス。そのひとつひとつが、伏せた目、すました鼻、少し微笑んで唇の端をあげた口もとに見える。「顔」に見える。言い換えると「人間」に見える。「なつかしい」表情に見える。
そうだなあ、捨てられた家具というのは、それまでだれかといっしょに生きてきたわけだから、その人の「顔」がどこかに反映しているかもしれない。すましながら、笑っているのは、きっと高橋が近づいてきてくれたことがうれしいのだろう。タンスも高橋をなつかしがっているのだろう。
そういうどうでもいいこと(?)をぼんやりと思ったりする。真剣に考えるわけではないが、なんとなく何かを思う。そういう詩だ。
だが、油断はできないぞ。
この最後の二行を、どう読むか。
それを見つけた日、「そっと見た」を繰り返したのか。何日にもわたって「何度もそっと見た」のか。私は何日にもわたって(つづけてではないかもしれないが)、繰り返し見たということが「何度も」のなかに隠れているように思う。
高橋は原っぱへ「何日も(何度も)」行っている。引き出しを「何度も(何日も)」開けている。繰り返しても何も変わらない。でも繰り返す。なぜだろう。ほんとうは何かが変わるのである。
「エロ雑誌」「ヌード雑誌」は、繰り返しそっと見ているうちに「成人男性用官能雑誌」に変わる。「成人男性用官能雑誌」という奇妙な「言い方」を私はしたことがないが、読んだ瞬間に女の裸やわいせつな写真を売り物にした雑誌だとわかる。ふつうはそういう雑誌は「すけべ」とか「いやらしい」とか「えろじじいの読むもの」ということばで批判されるのだが、そういうものがあふれてくると、「エロ雑誌」「すけべ」「いやらしい」では批判にならなくなる。また、そういうことばには「批判」的な意味があるはずなのに、平凡すぎて(簡単すぎて?)、ありふれた「親近感(?)」のようなものがある。「批判」にしつこさ(ほんとうに批判したいという欲望)のようなものがない。もっと突き放したい。そういう思いが、「成人」「男性」「官能」という「漢語(漢字熟語)」にかわり、ことばにととのえたのだ。「成人」「男性」「官能」には「エロ雑誌」と呼ぶときの「共感」はない。「共感/主観」を排除すること(「客観」を迂回すること)で、存在を批判している。そこには「エロ雑誌」と呼ぶときよりも強い「批判」が隠されている。
迂回を経たことばの強さは、もしかすると「ていねい」ということと関係しているかもしれない。この「ていねい」を中心に高橋のことばをとらえなおせば、高橋のおもしろさが明確になるかもしれない。
「成人男性用官能雑誌」は「エロ雑誌」を別のことばで「ていねい」に言い直したもの、「ていねい」なことばで繰り返したものである。「エロ雑誌」ということばを高橋は書いていないので「繰り返し」に見えないが、「言い直し」とは「繰り返し」のことである。その「繰り返し/言い直し」のなかに「ていねい」が入ってくるのが高橋のことばの特徴である。「ていねい」にことばの「形」をととのえているのである。そこにおもしろさかある。
ことばをととのえるときのおもしろさ、ととのえられた「ていねい」のおもしろさは、捨てられた雑誌、雨に濡れてページがくっついた雑誌に、「形」になっている。
簡単そうに書いてあるが、これもまた「成人男性用官能雑誌」ということばと同様に、繰り返し言い直すことでととのえられたことばなのだ。雨が泥をたたき、跳ね上がった泥が雨といっしょに紙にしみこんで、それが再び乾いて「ぺきぺき」折れるくらいに固まった。そこには乾いていた紙が濡れ、再び乾くという「繰り返し」があるのだが、繰り返しを省略して、さっと書いている。「繰り返し」が省略されている。(「成人男性用官能雑誌」の場合も、「エロ雑誌」は省略された形で繰り返されていた。)
「繰り返し」と「ていねい(に)」を補って、詩を読み直してみようか。
「棒でつついて」と「ていねい」は矛盾しているように見えるが、「破れないように(ていねいに)」と読むことができる。手で触りたくないから「棒で」めくっているのだが、その動作自体はゆっくりしたものだ。だから「ていねい」と言うことができる。
「そっと見た」の「ていねい」はすばやくではなく、ゆっくりと、時間をかけてでもある。「何度も」は「繰り返し」そのものである。そして「繰り返す」のは「ていねい」と同義語である。「エロ雑誌」ではなく、たとえば「哲学書」を「繰り返し」読むというのは、一字一句「ていねいに」読むということでもある。
「繰り返し」と「ていねい」は、存在を自分の「肉体」そのもので受け止めることでもある。ていねいに繰り返していると、自分が対象に近づいていくというよりも、自分が対象になってしまうということがある。自分は遠く安全な場所にいて、それを「知る」のではなく、「知る」ことが「わかる」に変わるような変化がおきる。
原っぱの草花がそれを端的にあらわしている。高橋は草花を「ていねいに/繰り返し」描くことで、その草花そのもの、そして原っぱそのものになって、世界をとらえている。
「成人男性用官能雑誌」を繰り返していねいに見ることで、高橋がその雑誌になると書くと、とんでもないことになるが、それはたぶん、雑誌を見ながら高橋が男とはこういうものを好むのかという感じを自分自身の「肉体」にしみこませるということなのだと思う。自分なりに、そういう雑誌のもっている力を掴み取ると言い直せばいいのだろう。「エロ雑誌」と簡単に書き捨てたときとは違う「肉体」がそこにある。「成人男性用官能雑誌」と書くことで、新しく生まれ直した高橋がそこにいる。
なんだか、ごちゃごちゃと繰り返してしまったが、高橋のことばと絵には「繰り返し」の「ていねいさ」がある。それが美しい。
*
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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4400円)と同時購入の場合は4500円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。
高橋千尋「植物の部屋」は、絵つきの詩。「祖父母の家の前に大きな原っぱがあって奥へどんどん入って行くと家具が沢山捨てられていた。」そういう原っぱのことを書いている。
家具は原っぱの植物のように移り変わって、増えていることもあったし、消えていることもあった。なじみの引き出しを行くたび行くたび開けた。突然出現した引き出しを初めて開けるときは高揚した。
文字だけ読んでいると、「どこがおもしろい?」と言われそうだ。実際、ことばにむだかなく充実した手触りがあるというような、抽象的な言い方でしかおもしろさを表現できないのだが……。また、私は「詩」よりも、そこに書かれている「絵」がおもしろいなあ、と思ってしまう。原っぱの草花はリアルというわけでも、抽象的というわけでもない。何か、あ、こういう植物を見たことがあるぞ、これはタンポポかな、これはナントカカントカ(私は植物の名前を知らない)かな、と思いながら見る。名前は知らなくても見たことがあるような気がする。記憶を刺激する(誘い出す)ていねいな描写がなつかしいのである。
そして、そこに引き出し。あ、タンスという方が正確かもしれないが、古い金具の把手のついた引き出しのタンス。そのひとつひとつが、伏せた目、すました鼻、少し微笑んで唇の端をあげた口もとに見える。「顔」に見える。言い換えると「人間」に見える。「なつかしい」表情に見える。
そうだなあ、捨てられた家具というのは、それまでだれかといっしょに生きてきたわけだから、その人の「顔」がどこかに反映しているかもしれない。すましながら、笑っているのは、きっと高橋が近づいてきてくれたことがうれしいのだろう。タンスも高橋をなつかしがっているのだろう。
そういうどうでもいいこと(?)をぼんやりと思ったりする。真剣に考えるわけではないが、なんとなく何かを思う。そういう詩だ。
だが、油断はできないぞ。
成人男性用官能雑誌が落ちていた。
どろ雨を吸ってぺきぺきに固まったそれを
棒でつついてめくって、
そっと見た。
何度もそっと見た。
この最後の二行を、どう読むか。
それを見つけた日、「そっと見た」を繰り返したのか。何日にもわたって「何度もそっと見た」のか。私は何日にもわたって(つづけてではないかもしれないが)、繰り返し見たということが「何度も」のなかに隠れているように思う。
高橋は原っぱへ「何日も(何度も)」行っている。引き出しを「何度も(何日も)」開けている。繰り返しても何も変わらない。でも繰り返す。なぜだろう。ほんとうは何かが変わるのである。
「エロ雑誌」「ヌード雑誌」は、繰り返しそっと見ているうちに「成人男性用官能雑誌」に変わる。「成人男性用官能雑誌」という奇妙な「言い方」を私はしたことがないが、読んだ瞬間に女の裸やわいせつな写真を売り物にした雑誌だとわかる。ふつうはそういう雑誌は「すけべ」とか「いやらしい」とか「えろじじいの読むもの」ということばで批判されるのだが、そういうものがあふれてくると、「エロ雑誌」「すけべ」「いやらしい」では批判にならなくなる。また、そういうことばには「批判」的な意味があるはずなのに、平凡すぎて(簡単すぎて?)、ありふれた「親近感(?)」のようなものがある。「批判」にしつこさ(ほんとうに批判したいという欲望)のようなものがない。もっと突き放したい。そういう思いが、「成人」「男性」「官能」という「漢語(漢字熟語)」にかわり、ことばにととのえたのだ。「成人」「男性」「官能」には「エロ雑誌」と呼ぶときの「共感」はない。「共感/主観」を排除すること(「客観」を迂回すること)で、存在を批判している。そこには「エロ雑誌」と呼ぶときよりも強い「批判」が隠されている。
迂回を経たことばの強さは、もしかすると「ていねい」ということと関係しているかもしれない。この「ていねい」を中心に高橋のことばをとらえなおせば、高橋のおもしろさが明確になるかもしれない。
「成人男性用官能雑誌」は「エロ雑誌」を別のことばで「ていねい」に言い直したもの、「ていねい」なことばで繰り返したものである。「エロ雑誌」ということばを高橋は書いていないので「繰り返し」に見えないが、「言い直し」とは「繰り返し」のことである。その「繰り返し/言い直し」のなかに「ていねい」が入ってくるのが高橋のことばの特徴である。「ていねい」にことばの「形」をととのえているのである。そこにおもしろさかある。
ことばをととのえるときのおもしろさ、ととのえられた「ていねい」のおもしろさは、捨てられた雑誌、雨に濡れてページがくっついた雑誌に、「形」になっている。
どろ雨を吸ってぺきぺきに固まった
簡単そうに書いてあるが、これもまた「成人男性用官能雑誌」ということばと同様に、繰り返し言い直すことでととのえられたことばなのだ。雨が泥をたたき、跳ね上がった泥が雨といっしょに紙にしみこんで、それが再び乾いて「ぺきぺき」折れるくらいに固まった。そこには乾いていた紙が濡れ、再び乾くという「繰り返し」があるのだが、繰り返しを省略して、さっと書いている。「繰り返し」が省略されている。(「成人男性用官能雑誌」の場合も、「エロ雑誌」は省略された形で繰り返されていた。)
「繰り返し」と「ていねい(に)」を補って、詩を読み直してみようか。
成人男性用官能雑誌が落ちていた。
どろ雨を吸ってぺきぺきに固まったそれを
「ていねいに」棒でつついて「ていねいに」めくって、
「ていねいに」そっと見た。
何度も「繰り返し」そっと「ていねいに」見た。
「棒でつついて」と「ていねい」は矛盾しているように見えるが、「破れないように(ていねいに)」と読むことができる。手で触りたくないから「棒で」めくっているのだが、その動作自体はゆっくりしたものだ。だから「ていねい」と言うことができる。
「そっと見た」の「ていねい」はすばやくではなく、ゆっくりと、時間をかけてでもある。「何度も」は「繰り返し」そのものである。そして「繰り返す」のは「ていねい」と同義語である。「エロ雑誌」ではなく、たとえば「哲学書」を「繰り返し」読むというのは、一字一句「ていねいに」読むということでもある。
「繰り返し」と「ていねい」は、存在を自分の「肉体」そのもので受け止めることでもある。ていねいに繰り返していると、自分が対象に近づいていくというよりも、自分が対象になってしまうということがある。自分は遠く安全な場所にいて、それを「知る」のではなく、「知る」ことが「わかる」に変わるような変化がおきる。
原っぱの草花がそれを端的にあらわしている。高橋は草花を「ていねいに/繰り返し」描くことで、その草花そのもの、そして原っぱそのものになって、世界をとらえている。
「成人男性用官能雑誌」を繰り返していねいに見ることで、高橋がその雑誌になると書くと、とんでもないことになるが、それはたぶん、雑誌を見ながら高橋が男とはこういうものを好むのかという感じを自分自身の「肉体」にしみこませるということなのだと思う。自分なりに、そういう雑誌のもっている力を掴み取ると言い直せばいいのだろう。「エロ雑誌」と簡単に書き捨てたときとは違う「肉体」がそこにある。「成人男性用官能雑誌」と書くことで、新しく生まれ直した高橋がそこにいる。
なんだか、ごちゃごちゃと繰り返してしまったが、高橋のことばと絵には「繰り返し」の「ていねいさ」がある。それが美しい。
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谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
panchan@mars.dti.ne.jp
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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4400円)と同時購入の場合は4500円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
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