詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小川三郎「桜土手」、青山かつ子「惜別」

2015-10-27 11:11:06 | 詩(雑誌・同人誌)
小川三郎「桜土手」、青山かつ子「惜別」(「repure」21、2015年10月17日発行)

 きのう「詩になんて、ここが好きとかってに思えばそれでいい」と書いた。かってに思うのだから、作者の「意図」はもちろん気にしない。作者の「意図」とは違った風に読むということもある。作者の「意図」なんて、わからない。自分の考えていることだって、瞬間瞬間に変わってしまうのだから。
 と、いくら書いてもしようがないので。
 まず、小川三郎「桜土手」

貧相な川岸にて
桜がもうとにかく
満開であるのだが
最近は色がわからなくて
どれも真っ白に見える。

その根元に
貧相な老夫婦が
座り込んでいる。
妻は居眠りしかけていて
夫はいろいろ
話しかけている。

 「貧相」が一連目、二連目で繰り返されている。ここまでは、どこが「詩」なのか、よくわからない。「貧相」なものを、わざわざ書いて、「貧相」に詩がある、と言っているわけでもなさそうだ。(芭蕉なら、「わび/さび」に詩がある、というかもうれないが、「貧相」と「わび/さび」は違うだろうなあ。)
 「最近は色がわからなくて/どれも真っ白に見える。」の二行のなかにある「発見(どれも真白に見える)」が詩といえるかもしれないが、それにしたって「発見」というよりは、すでに言われていること。小川に言われなくても、私にも「見える」。
 その場で見たことを、ただ「行分け」にしただけのように見える。

あの夫婦はもう
色なんてなくても
平気なのだ。

 うーん。ここで、少しつまずく。「色」とは何だろう。満開の桜の色? 桜が桜色ではなくて、色を失って「真っ白」でも「平気」? そう読むことができる。
 でも、「妻は居眠りしかけていて/夫はいろいろ/話しかけている。」という直前の行の影響を受けて、私は「色」を「色事」と思ってしまう。あからさまにいえば、セックス。「あの夫婦はもう/セックスなんてなくても/平気なのだ。」老夫婦だからね。
 では、セックスとはなんだろう。性器と性器の結合。粘液の交じり合い。わけのわからない、興奮。
 桜(満開の桜)を見ることは、セックスとどうつながるだろうか。「満開」にエクスタシーの興奮を重ねてみる。結合しながら、結びつくというよりも、何かが解放(開放?)されて、開放されたところから、自分が出ていってしまう。自分が自分でなくなる。そういう「勢い」を満開の桜のなかに見るのかもしれない。そういうものを見たくて満開の桜を見に行くということは、あるなあ。
 桜の「勢い(力)」を全身にあびて、受け止めたエネルギーをセックスのなかで発揮する。そういうことが楽しくて、桜を見に行くということがあるなあ。
 でも、老夫婦は、そんな「夢」を見ているわけではなく、ただいっしょにそこにいる。妻は居眠り。それを承知で夫はいろいろ話しかけている。それが、「独特の色」であるかどうかは、まあ、見方次第だ。
 小川は「色なんてない」と見ている。そして、その二人を「平気」と見ている。
 この「平気」はむずかしいぞ。
 どういう「意味」だろう。
 若いときは、一日に何度でもセックスすることが「平気」。老いてしまうとセックスしなくても「平気」。セックスするとセックスしないが、同じ「平気」ということばで語られてしまう。どうして?
 「平気」は、「いま」を受けいれてしまうということかな? 何かを受けいれるということは、自分がかわることだけれど、自分がどうなろうとかまわない、というのが「平気」かもしれない。(愛とは、自分がどうなってもかまわないと覚悟して、相手をうけいれること、と付け加えておこうか。)
 そんなふうに小川が思ったかどうか、はっきりしないが……。

あんなふうになりたいとは
思わないのだけれど
この世が特別な場所でもあるような
そんな気持ちになって。

 この三連目の「思わないのだけれど」の「逆説」がいいなあ。
 あんな色のない老人(老夫婦)になりたいとは思わない、というとき、「老人」を小川は「否定」している。けれど、その否定とはうらはらに、そういう老人が生きているということ、「この世」を否定していない。
 受けいれている。
 「この世が特別な場所でもある」の「ある」は「肯定」である。(否定なら「ない」、肯定だから「ある」。)
 受けいれ、肯定している。これを別なことばで言うと、小川は、ここで「平気」になっている。このときの「平気」は、二連目の終わりの老夫婦の「平気」と同じものである。小川は、こんなことをいうと小川に叱られるかもしれないが、ここで「老夫婦」と「一体」になっている。「平気」ということばを媒介にして。
 だから、最終連、

私はその場で
少し居眠りをした。

 これは二連目の「妻」の姿と重なる。詩では「妻」だけれど、もちろん二連目の「妻」と「夫」は入れ替え可能な「関係」であるから、まあ、どっちでもいい。だから私は、小川は「老夫婦」になっている、と読む。(あるいは、老夫婦を見て生きる小川は、居眠りをした「妻」が見た夢かもしれないのだが……。)
 で、この詩のどこが好きかというと、三連目だね。「あんなふうになりたいとは/思わないのだけれど」から「この世が特別な場所でもあるような/そんな気持ちになって。」という矛盾を超えていく変化が好きだなあ。いや、矛盾そのものが好きなのかな。よくわからない。



 青山かつ子「惜別」は「叔母さん」との永遠の別れ。一連目「湯灌」という生々しいことばから始まり、二連目は叔母さんとの架空の対話。死んでしまっているので実際には会話はできないからね。そして三連目。

髪をなでる 頬にふれる 手を重ねる…
帰省のたびに洋服を仕立ててくれた手
好物のおはぎをこしらえてくれた手
ガマ口から小遣いをわたしてくれた手
十五歳から私の第二の母だった叔母さん
ありがとう
(まだ泣かないで)
「わかっているわ 叔母さん!」

 この最後のやりとりがいいなあ。叔母さんは最後の別れの「涙」のことを言っているのだが、「泣かないで」と叔母さんが言うのはこれが「最初」ではないのだ。きっと何度も何度も青山は「泣かないで」となぐさめられ、はげまされてきたのだろう。そのとき叔母さんはきっと「あたたかい手」で青山を抱いてくれたのだろう。そういうことは具体的には書いてないのだけれど(青山は、いつ泣いたのか、ということは書いていないのだけれど)、「まだ泣かないで」の「まだ」のなかに「過去」が見える。「ほんとうに泣くのは、まだだよ。きっと心の底から泣かないと生きていけないときがある。それまで泣いちゃだめだよ」という声が聞こえる。青山は何度も何度も「わかっているわ!」と答えたのだろう。
 涙をこらえている、この最後のことばが好き。


フィラメント
小川 三郎
港の人

*

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