詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩佐なを『パンと、』

2015-10-29 10:33:20 | 詩集
岩佐なを『パンと、』(思潮社、2015年10月31日発行)

 岩佐なをの詩については何度も書いている。この詩集に掲載されている何篇かの詩についても感想を書いている。「パン」をめぐる嗜好(?)が私とはずいぶん違っている。私は菓子パンというものが大嫌いだが(特にメロンパン、とか)、岩佐は好きなようだ。(好きなふりをしているだけかもしれないが。)何が嫌いかというと、気持ちが悪いのである。その気持ちの悪い部分を、岩佐は例の文体で書いている。「例の文体」では何のことかわからないかもしれないが、「意識」というよりも「肉体」のなかでつながる文体である。
 この「肉体」のなかでつながる文体というのは、まあ、私の「好み」なのだが、「好み」だからこそ、こだわりがあって、簡単に「大好き」とは言えない。むしろ、どうしようもなく、「嫌い/気持ち悪い」と言ってしまわないと落ち着かない部分がある。
 私は猫が苦手で、こわくて触れないが、猫科の虎はとても好きだ。虎の方もこわくて触れないかもしれないが、このこわさは猫に対するこわさとは違う。猫は精神的(感覚的?)にこわい。虎は肉体的にこわい。猫は、ようするに、気持ち悪い。ふにゃっとしていて。触ったことはないが(遠い昔に、何かの間違いで触れられた記憶があるのかもしれない)、あれが気持ち悪い。岩佐の文体には、そういう「触りたくない/触られたふにゃっ」のようなところがあり気持ちが悪いのだが、こんなに気持ちが悪いと言わないと落ち着かないのは、きっと自分の「肉体」のなかに「ふにゃっ」があるのではないかと恐れているのかもしれない。
 最近は自分の「肉体」にあきらめのようなものがでてきたのか、岩佐の文体が「好き」と言えるようになってきたのだが(と思っていたのだが)、やっぱり「パン」の連作を読むと、猫を見たときのように、近付きたくない、こわい、離れていようと思ってしまう。ことばとして(詩として)、しっかり動いているのだけれど、それが「正確」であるところが、猫嫌い(猫恐怖症)の私には、こまる。



 「パン」から離れると……。
 「指ざわり」。この詩についてもたしか雑誌に掲載されたときに感想を書いたと思うが、この詩が好き。

鞄の取っ手にはぐるぐると
ガムテープが巻かれ時を経て
端っこが幾分はがれかけている
ねばねば、ねばねば
利き手の親指のはらで
ねばつきをたしかめる

 これは、だれもが経験したことがあるかもしれない。「鞄の取っ手」ではないかもしれないが、ガムテープの端っこを剥がしてみる。めくれた部分に触ってみる。そういうことは。
 で、このだれでもが経験していること(肉体で覚えていること)の、どこが詩か。

ねばねば、ねばねば

 この一行が詩である。「はがれかけている」からの「改行」を利用した「飛躍」が詩である。
 ガムテープのめくれた部分が「ねばねば」するのは、別に目新しいことではない。だれもが知っている。しかし、「ガムテープのはがれかけて、めくれたところを触るとねばねばと指にくっついてくるものがある(くっついてくるものを感じる)」ということと、「はがれかけている/ねばねば、ねばねば」は違うのである。
 「触る」という動詞がない。「指」という動詞の主語である「肉体」を指し示す「名詞」もない。「ねばねば、ねばねば」と書いたあとで、「利き手の親指のはらで/ねばつきをたしかめる」と「たしかめる(動詞)」「親指のはら(肉体の部分を指し示す名詞)」で出てくる。
 「ねばねば、ねばねば」は「肉体」と「動詞」が省略されているのに、「肉体」に直接つたわってくる。「肉体」がかってに「わかってしまう」。この「肉体がわかってしまう」ことを、岩佐は「直接」書く。この「直接」は、私が猫はふにゃっとして気持ち悪いと思う「直接」と同じ。「肉体」の奥が岩佐に「直接」つながってしまう。
 で、そのあと、

この鞄を持って出歩くと
必ず何度も親指の指紋を
ガムテープにおしつける
ぬちぬち、ぬちぬち
剥がれた部分は次第に汚れ
そのうちねばねばも乾いていくだろう

 「ぬちぬち、ぬちぬち」が「気持ちが悪い」。感触が気持ちが悪いというを通り越して、「ねばねば、ねばねば」が「ぬちぬち、ぬちぬち」に変わっているのに、それが「同じものに対することば」であると「わかる」ことが気持ちが悪い。
 なぜ、わかってしまうのだろう。
 さっき「ねばねば、ねばねば」と書いていた。いま「ぬちぬち、ぬちぬち」と書いている。感触に「齟齬」がある。ね、「政治答弁」なら「論理的」にそう追及することもできる。でも、きっとだれもそんな言い方で岩佐の表現を追及しない。糾弾しない。「同じ」と「わかる」から。「肉体」が、「わかってしまう」から。
 「頭」が「ねばねば、ねばねば」と「ぬちぬち、ぬちぬち」は違うと言っても、「肉体」は、そういう「頭」を無視するだろう。
 このあたりの「揺れ」の部分で、私は、岩佐が「大好き」にかわってしまう。「大嫌い/気持ち悪い」と大声で叫びたいのに、うーん、好きかも。いや、好きだな。口では「大嫌い」といいながら、「肉体」のなかでは「大好き」と言っているのが、私の耳に聞こえてくる。
 あ、いやだなあ。



 もう一篇。唯一「未発表」の「箱 Take1. 消滅」。これは「Take2. 残り時間」と「対」になっている。ほとんどいっしょだが、一部が違う。「1」を推敲したのが「2」だろうか。「2」にしたけれど「1」がいいかも、と思い「1」も掲載することにしたのだろうか。

Take1. 消滅

老いの杜の奥にも陽のあたる
高台があって遠くには記憶をたよりに
想い描ける一番素晴らしい風景が
展がっている(気持ちいいですよ)
こころもからだも穏やかに耀いている
おとうさんを箱に入れた
おかあさんを箱に入れた
自分も箱に入る
と、箱はみるみる小さくなってついに(ふっ)
高台の地面には土と石とよみがえる草だけ

Take2. 残り時間

老いの杜の奥にも陽のあたる
高台があって遠くには記憶をたよりに
想い描ける一番素晴らしい眺めが
展がっている(キモチイイデスヨ)
こころもからだも穏やかにあたたかい
父を箱に入れて母を箱に入れて
やがて自分も箱に入るけれど
しばらくは懐かしい面影を求めたり
この世のせつない情景と交流すべきだろう
季節は優しく「穏やかに流れる」と約束してくれた

 私は「Take1.」の方が好き。終わりから二行目の、行末の「(ふっ)」が好き。
 この「ふっ」は、どう読むべきか。
 岩佐は説明していないが、私は「ふっ」と息を漏らして笑ったのだと思った。私の「肉体」は「ふっ」に誘われて、軽く笑った。おとうさんを墓(箱)に入れ、おかあさんも墓に入れ、やがて自分も墓に入る。真面目なことを言っているのだが、その「真面目」に対して、そんなものは「この世」の「永遠」(時間の流れ)のなかでは何でもないこと。墓(土と石)の上にはやがて草が覆うだけという「絶対」にを思い描き、自分を笑っているように感じる。
 そういう「時間」を「Take2.」のように、「穏やかに流れる」と言うのでは、岩佐の「肉体」が消えて、「頭」が残ってしまうことになる。
 (ふっ)なんて「ずるい書き方」は大嫌いだけれど、「穏やかに流れる」という「頭でっかち」のことばと比べると、「肉体」に「直接」響いてきて、こっちが好きだなあ、これがいいなあ、と言わずにいられない。
パンと、
岩佐なを
思潮社
コメント
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