詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジュリオ・リッチャレッリ監督「顔のないヒトラーたち」(★★★)

2015-11-02 12:29:54 | 映画
監督 ジュリオ・リッチャレッリ 出演 アレクサンダー・フェーリング、フリーデリーケ・ベヒト、アンドレ・シマンスキ

 ドイツ人は自国の戦争犯罪とどう向き合ったか。
 だれでも自分の過失を認めたくない。知られたくない。
 いま日本では、過去の過失(歴史)を認めないどころか、書き換えようとしている。しかも、戦争に参加する(自衛隊を海外に派兵する)ことによって、戦争は正しいと主張しようとしている。戦争こそが平和を守る方法だと主張しようとしている。そのための法律が成立した。
 日本は、敗戦後、日本人自身によって犯罪(過失)を検証したとは言えないかもしれない。戦争責任がだれにあったのか、明確にしたとは言えないかもしれない。連合国の裁判に任せてしまったかもしれない。けれどもそのかわりに「平和憲法(第9条)」を手に入れた。「押しつけられた」という見方もあるが、日本人自身の手で日本の過失を裁けなかったのだから、「押しつけられた」という言い方は成り立たないだろう。日本人自身できちんと日本の戦争犯罪を裁いたのに、それを連合国から拒絶された、そのうえに「憲法を押しつけられた」ということではない。日本人自身の手で日本人を裁けなかった(裁く能力がなかった)から、「平和憲法(第9条)」を他国の協力を得てつくるしかなかった。しかし、その憲法は、まさに日本人の求めていたものだった。憲法によって、日本人は日本人の「理想」をことばとして確認することができた。私は、そう思っている。
 あ、前置きが長くなった。
 ドイツ人は自国の戦争犯罪とどう向き合ったか。
 戦後、すべてのナチス党員が裁判によって断罪されたわけではない。裁判を受けずに、隠れるようにして市民生活をしているひとがいる。アウシュビッツにかかわったひともいる。そういうひとを厖大な記録のなかから探し出し、人物も探し出す。
 若い検事がその仕事に取り組むのだが、きっかけはアウシュビッツを体験した男が、偶然、ナチスの生き残りと出会うことからはじまる。手に傷があり、その傷を覚えていて、ナチスの残党だと気づく。その男がジャーナリストにそのことを伝え、そのジャーナリストが検事に情報を提供し……という具合に、話が展開していく。
 これが、なかなかまだるっこしい。
 もう「戦後」は終わった。やっと落ち着いているのに、わざわざ「父親の世代」の犯罪を暴き、裁く必要はない。そんなことをすれば新しい不幸がはじまる、というわけである。検事のなかにもそういう人物がいる。直属の上司がそうである。
 さらには恋人の父がやはりナチスだったということもわかる。どうすべきなのか。若い検事は、恋人にその事実を告げる。恋人は、そういうことをうすうす知っていたらしい。けれど、それを「事実」として受けいれることを拒む。その結果、ふたりの仲は亀裂する、という具合。
 で、なぜ、これが「まだるっこしい」かというと。
 ナチスを裁くということが、戦争という行為(アウシュビッツの犯罪)を裁くことと同時に、「個人」を裁くことだからだ。ナチスは悪い。アウシュビッツの大量虐殺は悪い。これは自明のこと。しかし、その「自明のこと」に個人がどうかかわり、そのかかわりをどう証明するか、これは、むずかしい。
 犯罪を裁くわけだから、証拠がいる。承認は「ひとり」ではだめ。「ひとり」の証言は「嘘」の場合がある。さらに、加害者は生きているが、被害者の多くは死んでしまっている。死んでしまった人は証言できない。虐殺は、ほんとうに命令に従って、しかたなくやったことなのか。命令がなくても、進んでやったことなのか。そういう問題もからんでくる。生き残ったナチスの多くは「命令に従っただけ」と責任を転嫁するだろう。「だれもがやっているから、自分もそれにならった」という「弁明」もありうるだろう。
 これを突き崩していかなければならない。
 その過程で、主人公の検事は、被害者のひとりひとりに会う。証言を聞く。このひとりひとりは映画のなかでは、さらりと描かれている。ていねいに描いていくと「ショアー」になるのだが、それでは映画が終わらないから、これは仕方のないことである。
 ただし、この映画のきっかけになったユダヤ人のことはていねいに描いている。そのなかで、とても胸を打つシーンがある。
 主人公が「こんなにひどい目に遭っているのに、なぜドイツにとどまるのか」と質問する。主人公は、こんなふうに答える。
 「十八歳のときポーランドからやってきた。恋人(妻)に出会い、双子の娘が生まれた。いっしょに生きてきた。その思い出がある。逆に聞くが、では、どこへ行けばいいのか」
 ドイツ人にとってドイツが故郷であるように、ユダヤ人にとってもドイツが故郷である。なぜ、被害に遭ったユダヤ人がここを出て行かなければならないのか。どこが故郷であるというのか。ユダヤ人は大虐殺にあったが、その人たちは「ユダヤ人」である前に「ひとり」の人間。「ひとり」「ひとり」。「ひとり」には「ひとり」の思い出(思い)が、それぞれにある。
 加害者は(加害者側は)、いつでも被害者の「ひとりの思い」を忘れる。被害者は、それが「大虐殺」のように大勢いたとしても「ひとり、ひとり」であることを忘れる。いつでも「ひとり」であり、その「ひとり」は必ず他の「ひとり」とかたく結びついている。「ひとり」であるから「ひとり」ではない。「ひとり」なのは、大切な「ひとり(複数)」を失ったからである。
 この映画のテーマは、たぶん「ひとり」なのである。「ひとり」ずつ、きちんと裁く。責任をとる。検事も「ひとり」になって、「ひとり」の証言者と向き合い、「ひとり」のナチスと向き合う。そこから出発する。ナチスの厖大な資料の背後に、それを上回る「ひとり、ひとり」が記録されることなく存在している。「ひとり」「ひとり」自分の「声」をあげたがっている。
 この映画の「原題」は知らないが、日本語のタイトルは、この「ひとり」のことをきちんと伝えている。「集団」には「顔」はない。しかし、「ひとり」は顔を持っている。多くのナチスは「ナチス」という顔を無視した「団体」して把握されるが、その「顔」をもたないナチスに、「ひとり」ずつ「顔」を結びつける。加害者の「顔」と被害者の「顔」を向き合わせ、被害者の側に立って、加害者を断罪する。被害者の声を明確にしていく。それは犯罪者を裁くだけではなく、被害者「ひとり」「ひとり」の声を記録することである。
 「ひとり」の声が重なって、「事実」が明確になる。「歴史」が「ひとり」のものになる。
 ドイツの「現実」と「未来」は、この映画が描いているナチスの残党を「ひとり」「ひとり」裁くことからはじまっている。「ひとり」「ひとり」が、「ひとり」として生きはじめたのだ。

 ここから少し日本にもどってみる。首相の安倍も「ひとり」の人間である。彼には岸信介という「ひとり」の祖父がいる。彼は戦争犯罪者と呼ばれている。このことが安倍の「重荷」なのかもしれない。なんとか、断ち切りたい。「祖父-孫」という関係ではなく、「戦争犯罪者」とつながっているということを。そのために「戦争は悪くない。戦争は平和を守るためにある」と主張したいのかもしれない。「正義の戦争」に参加することで、「戦争は悪」という「解釈」を「戦争は正義」と変更したいのだろう。この「ひとり」の野望、「独裁」を許してはならない。
 安倍を「ひとり」に引き戻すために、私たちも「ひとり」にならないといけない。いつでも安倍のことばに向き合える「ひとり」のことばをもたないといけない、と思う。安倍以外の「ひとり」の総数の方が「安倍ひとり」より多い。そのことを明らかにする「ことば」が必要な時代だ。
                     (KBCシネマ2、2015年11月01日)








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