詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

森田真生『数学する身体』

2015-11-15 20:48:05 | その他(音楽、小説etc)
森田真生『数学する身体』(思潮社、2015年10月15日発行)

 私は「数学」は小学生レベルのことしかできない。「算数」がせいぜいのところなので、森田真生『数学する身体』をは理解できたとは言えないのだが、とてもおもしろかった。
 最初に印象に残るのが『数学する身体』というタイトル。「数学する身体」とは何だろう。読むと、「身体」といっても外形のことでも、その組織構造のことでもない。「身体」の動き、動かし方についてを書いている。数学(算数)の初期に、指を折って数を数えるとか、鉛筆で数字を書いて計算するということから書きはじめられている。「身体」とは、ようするに「身体の運動」のことである。「身体」をどう動かして「数」を理解し、さらに「数学(算数)」として動かし、世界を理解する、ということが書かれている。「数学するとき、身体(脳を含む)はどう動いているか、それを身体に重点を置いて見つめなおす」というのがこの本の狙いだと思った。「脳/思考」という直接見えないものを「身体」の領域にまで取り戻し、考え直している本だと思った。
 「運動する身体」を私は自分なりに「誤読」して「肉体」と読み替えてみた。「動詞」とともにある「肉体」と考えてみた。「肉体」は「数学する」ときも動くだろうが、ほかのことをするときも動く。その動き(動詞)と結びついたものを「肉体」と読み直すことで、「数学する(という)運動」を、人間全体の「何かをする肉体」と思い、この本を読んだ。そうすると、この本は「哲学する身体(肉体)」という内容に変わる。「数学」を通って、「哲学(思考すること)」全体に通じる「身体(肉体)」の「運動」のことを書いてある本として読むことができる。
 人間の思考(哲学)と身体(肉体)は、どんな関係にあるか。「身体(肉体)」はどんなふうに動いて「思考(哲学)」になるのか。本の帯に、「論考はチューリング、岡潔のふたりにたどりつき、生成していく」と書いてある。森田の書いているところに従えば、チューリングと岡潔は正反対の方向に向かっている。
 そこに書かれている「思考するという運動」と「肉体」のことを、私風に読みおなせば……。
 チューリングは「脳(数学するという運動/動詞)」を「肉体」の外に具体化した。「肉体」を自分の「肉体」の外にまで拡張した。チューニングのつくり出した「コンピュータ」は彼にとっては「肉体」そのものであり、彼の「肉体」とつながっている。母親が自分のこどもの「肉体」とつながっている、と感じるときの、つながっていると同じものである。チューニングは「数学するという運動/動詞」を「肉体」として「生み出した」のである。その「肉体」はチューニングにとって「他者」ではない。他人からみれば「肉体」とは切り離された存在だが、彼にはそうではない。彼には「肉親(肉体)」である。
 一方、岡潔は、「他者」を「生み出す」のではなく、彼自身が自分という「枠」にこだわらず、それを壊し、「他者」として「生まれ変われる」と次元(領域)にまで自分自身の「肉体」を引き戻す。自分と他者の区別のないところ、自分にも他者にもなりうる次元(これを岡潔は「種」という比喩で語っている)にまで戻ることを試みている。そこまで戻れば、「種」は自然に芽を吹き、花を咲かせ、実る、という運動をする。数学をそういう運動(動詞)としてとらえている。岡が何かを生み出すのではない。数学が岡になって生まれる。あるいは岡潔が数学になって「生まれる」。
 チューリングは「生み出す」、岡潔は「生まれる」。岡潔はすでに生まれて生きているから、「生まれ変わる」と言い直した方が「論理的」かもしれないが、「実感」としては「生まれる」だろう。
 岡潔と芭蕉、道元についての考察が、岡潔の運動が「生み出す」ではなく「生まれる」であるということを強く感じさせる。私は「数学」は皆目わからないが、芭蕉は少しは読んだことがあるので、そう感じただけなのかもしれないが、岡潔が「情緒」の働きと呼んでいるもの(あるいは「共感」と呼んでいるもの)の働きは、まさに「生まれる」である。「秋深き隣は何をする人ぞ」という句についての説明部分。

そこにあるのは懐かしさである。秋も深まると、隣人が何をしているのだろうかと、懐かしくなる。芭蕉と他(ひと)との間に、こころが通い合う。その通い合う心が、情緒である。

 「懐かしさ」という「名詞」が「懐かしくなる」と言い直されている。そのときの「なる」が「生まれる」ということ。「懐かしくなる」は「懐かしい」という「形容詞/用言」が「なる」という「動詞/用言」によって、「動き」の部分が強調されたことばである。「変化」している。この変化が「生まれ変わる」ということにつながるのだが、「変わる」というのではなく、あくまで「なる」ということに目を向けなければならない。「種」が芽吹き、「花」に「なる」ように、岡潔は「懐かしい」と感じる人間に「なる」。新しく「生まれる」。
 このことを「心が通う」と森田は言い直しているのだが、ほんとうは芭蕉が「隣の人」に「なる」と私は読み直してみた。「通う」ではなく「なる」。(懐かしくなるの「なる」と同じもの。)
 「自他」の区別はなく「なる」。
 「自他」ということばをつかって、森田は岡潔の思いをさらに言い直している。

数学も、芭蕉のように歩むことはできないだろうか。/数学者は「数学的自然」を行く旅人である。そこで自他を対立させたまま周囲を眺めれば、数学的自然も所詮は頼りない。

 と、ここに「自他」ということばが出てくるのだが、「通う/通い合う」では「自他」がある。それを超えて「他者になる」。そのとき「自他」がなくなる。「ひとつ」に「なる」。
 こういう次元を、また別のことばで表現したのが道元だろう。「自他」、あるいは「過去/未来」「時間/空間」という区別にとらわれなければ、世界で起きていることはすべて自分(肉体)の動きである。あらゆるところに自分(道元は仏と言うだろうけれど)が存在し、その存在はまた自分(仏)である。そこでは「生成」がある。(道元は「現成する」と言うだろう。)それは動いていて、同時に動かない。
 これを森田は、次のように言い直している。

数学において人は、主客二分したまま対象に関心をよせるのではなく、自分が数学になりきってしまうのだ。

 ここにも「数学になりきる」と「なる」が出てくる。「生成/現成」の「なる」である。「数学」から、そういう次元にまで考えをすすめるからこそ、岡は

根本的に新しい人間観、宇宙観を一から作り直すことが急務である。

 ということろへたどりつく。
 「数学する身体」は「生きる身体」の問題となる。つまり、生きていくこと、「思想」そのものにぶつかる。この変化というか、過程というか……それがおもしろい。それは単に岡潔の変化ではなく、そのまま森田の変化となっているところ(森田が岡潔になって、数学を超えて「思想」を語ってしまっているところ)がとてもおもしろい。
 ひとつ欲を言うと、途中で出てくる「ノイズ」と「リソース」の刺戟的な話題が、うまく岡潔の「発見」のなかに組み込まれていない感じがする。岡潔にとって芭蕉、道元が「ノイズ」のように働き、岡潔の「数学する(という)運動(肉体)」を活性化させたのだと私は勝手に想像する。「文学(ことば)」が「ノイズ」となって「リソース」を隠れた部分で動かしていると勝手に想像した。チューリング、岡潔にとって「ノイズ」は何であり、「リソース」と同関係したか、つまり「ノイズ」を取り払ってしまうとチューリングや岡潔の「数学」は結晶しなかったかもしれないというようなことを書いてくれると、もっと森田の「哲学」は刺戟的になると思った。
数学する身体
森田 真生
新潮社

*

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ガイ・リッチー監督「コードネーム U.N.C.L.E. 」(★★★+★★)

2015-11-15 19:32:33 | 映画
監督 ガイ・リッチー 出演 ヘンリー・カビル、アーミー・ハマー、アリシア・ビカンダー

 ★を5個つけたけれど、傑作というわけではない。おもしろいというわけでもない。CGだらけ、新しい映像だらけの映画が多いなかにあって、「古くさい」感じが楽しかったなあ。「現代」ではなく「過去」を描いているから、まあ、「新しい」映像では困るんだけれど、「古くささ」にこだわったところがよかった。
 唯一のアクション(?)はカーチェイスだけれど、これもねえ、車が古いからスピードも鈍い。これが楽しい。えっ、いま、どうなった? と目をこらしていなくてもいい。私は目が悪いので、これくらいのスピードがいいなあ。(「エベレスト」は見たいけれど3Dなので、パス。)
 電話がダイヤル式、呼び出し音は一種類、通話には雑音が入るなんて、いいなあ。盗聴器が大きい、ダサイ、のもいいし、女がスカートの下(ストッキングの上)につけていく「発信機」も大きくて、とってもいい。それをわざわざスカートをめくって見せるなんて、うーん、「古くさい」。いまどき、それくらいのシーンでは誰も色っぽいとは思わない。でも、それが逆に「人間臭い」。
 おっ、「古くさい」と「人間臭い」が韻を踏んでしまった。
 この「くさい」って何かなあ。「においがする」「感じられる」ということかな? で、その「においがする」というとき、鼻が動いているねえ。ほんとうに「においがする」わけではないのだから、これは「無意識の肉体としての鼻」ということになるのかな? あ、めんどうくさい話になりそう。(ここもに「くさい」が出てくるなあ。)よくわからないが「……くさい」というとき、まあ、「肉体」が反応してるんだろう。言い換えると、その瞬間、「肉体」が映画のなかに踏み込んでいる。映画なのに、どこかで「現実」と思い込んでいる。これがおもしろい。
 最近のスパイ映画というのは、「ミッション・インポッシブル」がそうだけれど、あんなこと観客にはできないね。飛行機につかまって空を飛ぶなんて、できない。風が強くて目すら開けていられないはずだよね。見ていても、その「場」に参加できない。驚きはするけれど、「肉体」がざわめかない。「痛い」とすら思わない。
 そこへ行くと、この映画は違うなあ。拷問だって、笑いながら、その拷問を自分の「肉体」で味わうことができる。ただ「痛い」と感じさせるだけではなく、「これは映画」という「オチ」のようなもので、安心させてくれる。
 で、これに、男と女のやりとりがからんでくる。「肉体」のからみだけではなく、「感情」のからみがストーリーのカギになる。クライマックスでナポレオン・ソロが敵の女ボスを呼び出すために、わざと「お前の夫は男としてだらしない」というような作り話をする。それに女が感情的に反応して、女の居場所がわかる、なんて、わっ、おもしろい。どんなときでも、怒った方が負け(感情的になった方が負け)。
 これなんて、スパイ映画というよりは「恋愛映画」の領域だよなあ。
 映像の色調や、画面を分割して、同時に複数のシーンを見せるという「手法」も古くさくて、とっても楽しい。
 あ、この楽しさは、テレビで「ナポレオン・ソロ」を見ていた年代の人間が感じるだけかもしれないけれどね。いまの若い世代は、なぜ、こんなに古くさい(レトロ?)な映画をつくらなければならないのか、わからないかもしれないなあ。
               (t-joy博多スクリーン9、2015年11月15日)





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