荻悦子「失くしたもの」(「るなりあ」35、2015年10月15日発行)
荻悦子「失くしたもの」は「意味ありげ」にはじまる。
「失くしたもの」は「夏帽子」以下の「品物」。しかし、荻は、その「品物」よりも「品物」があったときにいっしょに動いていた何かが気になる。「品物」に「纏わること」、それは「失せない」からである。
で、その「失せない」何かを、二連目以下でどう書いていくか。「纏わる」感じをどう「肉体」に関連づけていくか、それが詩のハイライトなのだが。
前半は「夏帽子」を失くしたときの状況を書いている。海の近くの岩場か。六月のことだ。「あなた」は恋人ではなく「若い荻」である。(恋人は三連目で「あのひと」と書かれている。)その若さは「万年筆を失くしても気に留めない」というこころの動きとして書かれている。
「失くしたもの」を思いながら、荻は「十分に若かった」ときの「若さ」をこそ「失われたもの/こと」と思っている。
とてもわかりやすい。そして、わかりやすいだけに、「ほんもの」としてつたわってこない。わかりやすいのは、「失われた若さを思う」ということが、もう「定型化」していて、「抽象」になってしまっているからだ。
先日、感想を書いた森田真生の『数学する身体』におもしろいことが書いてあった。数を数える。計算をする。指をつかって、指を折って、そして数字を並べて、記号をつかって。最初は具体的だったものが、あるときから「具体性」を欠きはじめる。指を折って数えなくても、数字を書かなくても「2+5=7」「6×4=24」というのは「わかる」。それは数字・数学が「記憶」になっているからだ、というのである。この「記憶」と「抽象化」はとても似ている。そこでは「肉体」は動いていない。こうなると、「わかる」けれど「つまらない」。「つまらない」は「つまずかない」ということである。読んでいる私の「肉体」が動いてくれない。
うーん、おもしろくない、とつぶやきそうになるのだが。
最終連がいい。
「ベルのベルの形の花の姿は覚えている」のは何か。「目」である。「ベルの形」という具体的な姿が「目」に残っている。
一方「花の名は思い出せない」。「花の名」は「花の姿」に比べると抽象的である。「目」で覚えるのではない。(文字に書いて記憶することはあるが。)それは算数の簡単な計算や九九のように「頭」で覚えるものであり、「頭」が覚えてしまった瞬間、それは「抽象」になる。
ここに具体と抽象の衝突があるのだが、そのあとのことばの動きがおもしろい。
荻は「思い出せない」を「失くして」と言い直している。「花の名を思い出せない=花の名を失くして」。補語(花の名)は「思い出す」「失う」という「動詞」のなかで「ひとつ」になっている。ふたつの「動詞」が「ひとつ」のものとして動く。そこに「肉体」が見えてくる。「思い出す」も「失う」も、この場合、抽象的な動き(「肉体」というよりも、精神的な動き)なのだが、それ「ひとつ」にするためには「ひとつ」の具体的な何かが必要だ。その必要な「ひとつ」が「肉体」である。(「魂」である、「精神」である、というひともいるかもしれないが……。)
「抽象的」なのに、「具体的」に感じてしまう。「ふたつ」の動詞が「ひとつ」の「肉体」のなかで結びつく感じが、「肉体」の具体的な印象を呼び覚ます。「花(の名)」ではなく、「花」と「荻の肉体」をそこに見る感じがする。
「荻の肉体」は、どう動いているか。
その「待つ」という動詞。「待つ」の主語は「荻」であるが、その荻は「荻の目」であり、「手」でもあるかもしれない。(花が咲いたら、そっと触れるかもしれない。)
「待つ」というのは、すこし「抽象的」な感じのする「動詞」である。そこに「待っている対象」が不在だから、あいまいな「肉体」しか見えない。
「何している?」「あ、人が来るのを待っているんです」という会話は「待つ」という動詞が見えにくい(わかりにくい)ことを証明している。わかりにくい(見えにくい)けれど、「待つ」ということは誰もがしたことがある。誰もが「待つ」という「肉体」のあり方を覚えている。その覚えている「肉体」が、最終行の「待つ」という「動詞」を真ん中に挟んで、荻と読者を結びつける。読者は荻になって、花が咲くのを「待つ」肉体になる。
これが、とても、おもしろい。
こういう「肉体/動詞」が、二連目以降、もっと書かれていれば強い詩になるのに、と思った。
*
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谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
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支払方法は、発送の際お知らせします。
荻悦子「失くしたもの」は「意味ありげ」にはじまる。
失くしたものを数えていて
ワインを零した
うっかりと
夏帽子
モンブランの万年筆
狐の毛の小さい襟巻き
品物よりも
失くしたそれらに纏わること
「失くしたもの」は「夏帽子」以下の「品物」。しかし、荻は、その「品物」よりも「品物」があったときにいっしょに動いていた何かが気になる。「品物」に「纏わること」、それは「失せない」からである。
で、その「失せない」何かを、二連目以下でどう書いていくか。「纏わる」感じをどう「肉体」に関連づけていくか、それが詩のハイライトなのだが。
踵の高いサンダルで岩を伝った
心から笑い 若い熱
元からなかったものを
取り戻せるかのように錯覚した
なぜだったろう
六月の海にいたあなたがいじらしい
万年筆を失くしても気に留めない
まだ十分に若かった
前半は「夏帽子」を失くしたときの状況を書いている。海の近くの岩場か。六月のことだ。「あなた」は恋人ではなく「若い荻」である。(恋人は三連目で「あのひと」と書かれている。)その若さは「万年筆を失くしても気に留めない」というこころの動きとして書かれている。
「失くしたもの」を思いながら、荻は「十分に若かった」ときの「若さ」をこそ「失われたもの/こと」と思っている。
とてもわかりやすい。そして、わかりやすいだけに、「ほんもの」としてつたわってこない。わかりやすいのは、「失われた若さを思う」ということが、もう「定型化」していて、「抽象」になってしまっているからだ。
先日、感想を書いた森田真生の『数学する身体』におもしろいことが書いてあった。数を数える。計算をする。指をつかって、指を折って、そして数字を並べて、記号をつかって。最初は具体的だったものが、あるときから「具体性」を欠きはじめる。指を折って数えなくても、数字を書かなくても「2+5=7」「6×4=24」というのは「わかる」。それは数字・数学が「記憶」になっているからだ、というのである。この「記憶」と「抽象化」はとても似ている。そこでは「肉体」は動いていない。こうなると、「わかる」けれど「つまらない」。「つまらない」は「つまずかない」ということである。読んでいる私の「肉体」が動いてくれない。
うーん、おもしろくない、とつぶやきそうになるのだが。
最終連がいい。
この夏は花の一株が育つのを待った
終わった花を抜いた後に
ふいに伸びてきた草
二年前に植えてすぐに枯れた花だった
蕾ができてそれがわかった
ベルの形の花の姿は覚えている
花の名を思い出せない
呼び名を失くして
小さな花が咲くのを待っている
「ベルのベルの形の花の姿は覚えている」のは何か。「目」である。「ベルの形」という具体的な姿が「目」に残っている。
一方「花の名は思い出せない」。「花の名」は「花の姿」に比べると抽象的である。「目」で覚えるのではない。(文字に書いて記憶することはあるが。)それは算数の簡単な計算や九九のように「頭」で覚えるものであり、「頭」が覚えてしまった瞬間、それは「抽象」になる。
ここに具体と抽象の衝突があるのだが、そのあとのことばの動きがおもしろい。
荻は「思い出せない」を「失くして」と言い直している。「花の名を思い出せない=花の名を失くして」。補語(花の名)は「思い出す」「失う」という「動詞」のなかで「ひとつ」になっている。ふたつの「動詞」が「ひとつ」のものとして動く。そこに「肉体」が見えてくる。「思い出す」も「失う」も、この場合、抽象的な動き(「肉体」というよりも、精神的な動き)なのだが、それ「ひとつ」にするためには「ひとつ」の具体的な何かが必要だ。その必要な「ひとつ」が「肉体」である。(「魂」である、「精神」である、というひともいるかもしれないが……。)
「抽象的」なのに、「具体的」に感じてしまう。「ふたつ」の動詞が「ひとつ」の「肉体」のなかで結びつく感じが、「肉体」の具体的な印象を呼び覚ます。「花(の名)」ではなく、「花」と「荻の肉体」をそこに見る感じがする。
「荻の肉体」は、どう動いているか。
小さな花が咲くのを待っている
その「待つ」という動詞。「待つ」の主語は「荻」であるが、その荻は「荻の目」であり、「手」でもあるかもしれない。(花が咲いたら、そっと触れるかもしれない。)
「待つ」というのは、すこし「抽象的」な感じのする「動詞」である。そこに「待っている対象」が不在だから、あいまいな「肉体」しか見えない。
「何している?」「あ、人が来るのを待っているんです」という会話は「待つ」という動詞が見えにくい(わかりにくい)ことを証明している。わかりにくい(見えにくい)けれど、「待つ」ということは誰もがしたことがある。誰もが「待つ」という「肉体」のあり方を覚えている。その覚えている「肉体」が、最終行の「待つ」という「動詞」を真ん中に挟んで、荻と読者を結びつける。読者は荻になって、花が咲くのを「待つ」肉体になる。
これが、とても、おもしろい。
こういう「肉体/動詞」が、二連目以降、もっと書かれていれば強い詩になるのに、と思った。
影と水音 | |
荻 悦子 | |
思潮社 |
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谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。
なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。