石田瑞穂『耳の笹舟』(思潮社、2015年10月31日発行)
石田瑞穂『耳の笹舟』はかなり怖い詩集である。私は左目に網膜剥離が起きた。手術で失明はしなかった。そのとき、多くの人から「目が見えなくなると困るね(失明しなくてよかったね)」と言われた。それはそうなんだけれど、私は、耳が聞こえない方が困るだろうなあと思っている。肉体の奥で感じている。目が見ている世界は「目の前」の世界。世界の半分である。耳は「耳の前」ということばがないように、前後ろにこだわる前に、まわり全体を聞き取る。その全体感がなくなると、怖いなあ、と感じる。
石田瑞穂『耳の笹舟』は、あとがきによれば「心因性の難聴を患ってしまった」体験をことばにしている。完全に聞こえなくなった世界ではないのだが、そこに書かれていることが、なんとも怖いのである。聞こえなくなる前の何かが、怖いのかもしれない。私には「未体験」のことが書かれているから、怖いのか。奇妙ないい方になるが「失明」は目を閉じることで、疑似体験ができる。耳が聞こえないは、耳をふさげば疑似体験になるのかどうか、よくわからない。そのために、よけいに怖くなるのか。「肉体」で「共有」できることが書かれていないから、怖いのか……。
「肉体」で「共有」できる部分のある詩について、考えたことを書いてみる。「耳鳴り」。「耳鳴り」なら、体験したことがあるぞ、「肉体」が覚えているぞ、と思う。
しかし、ここに書かれている「耳鳴り」は、やはり私の知らない耳鳴りだ。私の場合「耳鳴り」は遠くからやってこない。突然、耳のなかで何かがはじける。そして、それは外へ出ていくのではなく、「肉体」の内部へ消えていく。「肉体」が「全身」で「耳鳴り」を包み隠す。いや、「全身(内部)」が少しずつ音を受け持って、それを吸い取る。だから、それは「聞こえなくなる」というよりも、聞こえているのだが、慣れてしまって、音と感じなくなるという感じ。「匂い」に似ているかもしれない。匂いのなかにいると、だんだん匂いを感じなくなる。それは「肉体」の麻痺なのか、「肉体」なかにある「匂い」と外の「匂い」が均衡し、区別がなくなったのか。あるいはサングラスをかけているときの視界の感じに似ているか。意識が「色」を修正して、実際に見える色ではない「色」を感じている状態に似ているか。
遠くからやってきて、全身をつつんでしまう--この感じが、私の知っている「耳鳴り」とあまりにも違いすぎていて、(また他の感覚器官に起きることともあまりにも違いすぎていて)、どう「肉体」で引き受けていいのかわからない。そのために、不思議な恐怖心にとらわれる。
一方、
詩の途中に出てくる「親密」ということばに、私はとても共感する。勝手な共感であり、「誤読」というものかもしれないが、この「親密」は「わかる」。
私は先に、私の「耳鳴り」は「肉体の奥へ消えていく(肉体に分け持たれていく)」というようなことを書いたが、そのときの「消失/共有」が「親密」ということばで言い換えられそうに感じる。何かと「親密」になると、その存在が「消える」。臭いが消える。サングラスの色が消える。存在しているのだが、「無意識」になる。
石田の場合「やっかっいで親密な」と書いているので、「親密」そのものではないのだが、そこに、私はなんとなく、石田の「肉体」への手がかりを感じる。「共通性」があるかもしれないなあ、と感じる。
この「やっかいで親密」ということばは、その前の「無音と雑音」「荒波の透き間」を言い直したもののように感じる。「荒波の透き間」は「荒波と、荒波の透き間(荒波ではないもの)」という具合に読んでのことなのだが……。そして、その場合「無音」は「荒波」なのか、「透き間」なのか。「雑音」は「荒波」なのか「透き間」なのか。石田は、どちらを「やっかい」と感じ、どちらを「親密」と感じているのか。
「雑音/荒波」を「やっかい」、「無音/透き間」を「親密」と感じるのが「常識」かもしれないが、石田の書いていることばの動きは少し違う。「無音/荒波/やっかい」が最初に書かれ、「雑音/透き間/親密」が対の形で書かれている。
うーん。
もしかすると「無音」というのは「音」が暴れ回っている状態かもしれない。多すぎて「聞き分けることができない」状態かもしれない。「聞き分けることができない」から「聞こえない/無音」と意識が判断し、聞くことを拒絶しているのかもしれない。「雑音」は「聞く必要のない音」かもしれない。意識しなくていい音かもしれない。
その「意識しなくていいもの」に石田は「親密」さを感じている。
あ、これは、わかるなあ。ただ、そこにあるだけ。「意味」がない。「意識」しなくていい。単なる存在。そういうものに、こころがやすらぐ。同時に、自分が、そういう「もの」になってしまったような気楽な感じ……。
そうすると。
「耳鳴り」というのは、「意識(意味)」の巨大なかたまりなのか、石田にとっては。「意味」がありすぎて、「意識」が受け止めきれない。「意識」が「意味」に対応しようとして大忙しになり、「肉体」そのものがいる場所がなくなるということなのかな? それが「全身を/すっぽりつつんでしまう」という感じなのかな? 「全身」は「すっぽりつつまれてしまう(と、少し、言い換えてみる)」のではなく、「全身」が「意味/意識」に圧縮(圧迫)され、動いても動いているのか見えなくなるくらい小さくなっている状態だろうか。
「耳鳴り」というは、そのとき、たとえば「キーン」という音ではなく、その「キーン」を聞こえるようにしている(際立たせている)「無音」の方になる。「キーン」と聞こえるのは、まだ、いいのだ。「無音」は怖い。無数の「意味のある」音がぶつかりあって、互いを「消音化」している。絶対的に無効の音にしている。そのとき、絶対無音から逃れるようにしてこぼれてくる「意味」のない音。それが「キーン」という雑音。「キーン」という「単独の音」は「全身」をつつむだけの「量」にはなれないが、ぶつかりあう「無数の意味/意識/明確すぎる音」は「無数」なのだから「全身」を「無数」でつつむことができる。
「耳鳴り(キーン/雑音/有音)」に石田は「親密」を感じている。そう読むと、私には、石田がとても身近に感じられるようになる。
少し脱線しながら補足すると。私はイヤホンが苦手である。新しいものが好きだから、私はウォークマンが出たときも、iPodが売り出されたときも買ったが、実際につかったのは本の少しの期間である。イヤホンで音を聞くと、その音だけを「聞かされている」感じがして窮屈になる。いろんな音のなかから自分でその音を選んで聞いている感じがしない。ある音を耳が「聞きに行く」という「肉体」の動きがない。遊べない。耳があっちへ寄り道、こっちでつまずき、また動くという感じがしない。自分で「好きになる」という「親密」感がない。イヤホンで聞くと「親密」よりも「押しつけられている」と感じてしまう。
「親密」というのは、あくまでも「積極的」な行動なのだ。積極的な「動き」を含むものなのだ。
石田は「意味だらけ」の完璧な音(透明に研ぎすまされた意味)ではなく、そこからこぼれてしまった「雑音(ノイズ)」に救われている。そういう感じがする。そう感じると親近感を覚える。
でも、違うかもしれないなあ。私はとんでもない誤読をしているんだろうなあ。
ここは、怖い。「曇っているところは/布で磨きあげたい」は磨き上げて「透明」にしたいということにつながると思う。そういう「意味」も怖いが、ここに書かれていることが「目の世界」であることが怖い。「刷毛で掃き」「布で磨きあげ」るとき動いているのは「手」なのだが、手そのものが「部品」を点検するのではなく、「目」で点検している。そこに「目」が動いていること、目が世界を統一していること、目が世界を制御していることが、私には、怖く感じられる。
たぶん、私の個人的な事情がそこに反映している。私は目が悪い。だから、目で何かを点検しなければならないという状況へ追い込まれるのが怖いのかもしれない。耳が聞こえない(耳で聞くことが困難になったら)、目に頼らなければならないということが怖いのかもしれない。
うーん、こんなことを書いていては批評にはならないし、感想にもならないか。でも、きっと、こう書かなければならない「必然」のようなものがあるから、私は書いているのだと思う。
怖い、怖いと思いながら読んだのだが、「見えない波」の「14」の部分はとても好き。
「音」が「味/匂い」と結びつく。耳が舌、鼻と結びつく。そこに「肉体」がつながったかたちであらわれてくる。そのとき「意識(意味)」は「ジュウイチ ジュウイチ/なにを数える歌なのか」というナンセンス(無意味)になる。「音の肉体」が人間の「肉体」に呼応するように、ただ、そこに「肉体」として存在する。「雑音(無意味な音/ナンセンス)」が「音楽」となって耳を祝福する。
「難聴」をくぐりぬけた「肉体」がつかんだ喜びかもしれない。「肉体」が、ここでは生まれ変わっているのかもしれない。
石田瑞穂『耳の笹舟』はかなり怖い詩集である。私は左目に網膜剥離が起きた。手術で失明はしなかった。そのとき、多くの人から「目が見えなくなると困るね(失明しなくてよかったね)」と言われた。それはそうなんだけれど、私は、耳が聞こえない方が困るだろうなあと思っている。肉体の奥で感じている。目が見ている世界は「目の前」の世界。世界の半分である。耳は「耳の前」ということばがないように、前後ろにこだわる前に、まわり全体を聞き取る。その全体感がなくなると、怖いなあ、と感じる。
石田瑞穂『耳の笹舟』は、あとがきによれば「心因性の難聴を患ってしまった」体験をことばにしている。完全に聞こえなくなった世界ではないのだが、そこに書かれていることが、なんとも怖いのである。聞こえなくなる前の何かが、怖いのかもしれない。私には「未体験」のことが書かれているから、怖いのか。奇妙ないい方になるが「失明」は目を閉じることで、疑似体験ができる。耳が聞こえないは、耳をふさげば疑似体験になるのかどうか、よくわからない。そのために、よけいに怖くなるのか。「肉体」で「共有」できることが書かれていないから、怖いのか……。
「肉体」で「共有」できる部分のある詩について、考えたことを書いてみる。「耳鳴り」。「耳鳴り」なら、体験したことがあるぞ、「肉体」が覚えているぞ、と思う。
何日かぶりで耳鳴りがした
それは遠くから
思慮深く漂いはじめ
耳管を伝って音ずれ
ついには全身を
すっぽりつつんでしまう
そうなったら
どうすることもできず
内なる嵐が早く
たち去ってくれるのを
待つしかない
しかし、ここに書かれている「耳鳴り」は、やはり私の知らない耳鳴りだ。私の場合「耳鳴り」は遠くからやってこない。突然、耳のなかで何かがはじける。そして、それは外へ出ていくのではなく、「肉体」の内部へ消えていく。「肉体」が「全身」で「耳鳴り」を包み隠す。いや、「全身(内部)」が少しずつ音を受け持って、それを吸い取る。だから、それは「聞こえなくなる」というよりも、聞こえているのだが、慣れてしまって、音と感じなくなるという感じ。「匂い」に似ているかもしれない。匂いのなかにいると、だんだん匂いを感じなくなる。それは「肉体」の麻痺なのか、「肉体」なかにある「匂い」と外の「匂い」が均衡し、区別がなくなったのか。あるいはサングラスをかけているときの視界の感じに似ているか。意識が「色」を修正して、実際に見える色ではない「色」を感じている状態に似ているか。
遠くからやってきて、全身をつつんでしまう--この感じが、私の知っている「耳鳴り」とあまりにも違いすぎていて、(また他の感覚器官に起きることともあまりにも違いすぎていて)、どう「肉体」で引き受けていいのかわからない。そのために、不思議な恐怖心にとらわれる。
一方、
ぼくの耳は
無音と雑音の
荒波の透き間で
こらえている
ちっぽけな笹舟
いったいこの
やっかいで親密な
音はなんだろう
詩の途中に出てくる「親密」ということばに、私はとても共感する。勝手な共感であり、「誤読」というものかもしれないが、この「親密」は「わかる」。
私は先に、私の「耳鳴り」は「肉体の奥へ消えていく(肉体に分け持たれていく)」というようなことを書いたが、そのときの「消失/共有」が「親密」ということばで言い換えられそうに感じる。何かと「親密」になると、その存在が「消える」。臭いが消える。サングラスの色が消える。存在しているのだが、「無意識」になる。
石田の場合「やっかっいで親密な」と書いているので、「親密」そのものではないのだが、そこに、私はなんとなく、石田の「肉体」への手がかりを感じる。「共通性」があるかもしれないなあ、と感じる。
この「やっかいで親密」ということばは、その前の「無音と雑音」「荒波の透き間」を言い直したもののように感じる。「荒波の透き間」は「荒波と、荒波の透き間(荒波ではないもの)」という具合に読んでのことなのだが……。そして、その場合「無音」は「荒波」なのか、「透き間」なのか。「雑音」は「荒波」なのか「透き間」なのか。石田は、どちらを「やっかい」と感じ、どちらを「親密」と感じているのか。
「雑音/荒波」を「やっかい」、「無音/透き間」を「親密」と感じるのが「常識」かもしれないが、石田の書いていることばの動きは少し違う。「無音/荒波/やっかい」が最初に書かれ、「雑音/透き間/親密」が対の形で書かれている。
うーん。
もしかすると「無音」というのは「音」が暴れ回っている状態かもしれない。多すぎて「聞き分けることができない」状態かもしれない。「聞き分けることができない」から「聞こえない/無音」と意識が判断し、聞くことを拒絶しているのかもしれない。「雑音」は「聞く必要のない音」かもしれない。意識しなくていい音かもしれない。
その「意識しなくていいもの」に石田は「親密」さを感じている。
あ、これは、わかるなあ。ただ、そこにあるだけ。「意味」がない。「意識」しなくていい。単なる存在。そういうものに、こころがやすらぐ。同時に、自分が、そういう「もの」になってしまったような気楽な感じ……。
そうすると。
「耳鳴り」というのは、「意識(意味)」の巨大なかたまりなのか、石田にとっては。「意味」がありすぎて、「意識」が受け止めきれない。「意識」が「意味」に対応しようとして大忙しになり、「肉体」そのものがいる場所がなくなるということなのかな? それが「全身を/すっぽりつつんでしまう」という感じなのかな? 「全身」は「すっぽりつつまれてしまう(と、少し、言い換えてみる)」のではなく、「全身」が「意味/意識」に圧縮(圧迫)され、動いても動いているのか見えなくなるくらい小さくなっている状態だろうか。
「耳鳴り」というは、そのとき、たとえば「キーン」という音ではなく、その「キーン」を聞こえるようにしている(際立たせている)「無音」の方になる。「キーン」と聞こえるのは、まだ、いいのだ。「無音」は怖い。無数の「意味のある」音がぶつかりあって、互いを「消音化」している。絶対的に無効の音にしている。そのとき、絶対無音から逃れるようにしてこぼれてくる「意味」のない音。それが「キーン」という雑音。「キーン」という「単独の音」は「全身」をつつむだけの「量」にはなれないが、ぶつかりあう「無数の意味/意識/明確すぎる音」は「無数」なのだから「全身」を「無数」でつつむことができる。
「耳鳴り(キーン/雑音/有音)」に石田は「親密」を感じている。そう読むと、私には、石田がとても身近に感じられるようになる。
少し脱線しながら補足すると。私はイヤホンが苦手である。新しいものが好きだから、私はウォークマンが出たときも、iPodが売り出されたときも買ったが、実際につかったのは本の少しの期間である。イヤホンで音を聞くと、その音だけを「聞かされている」感じがして窮屈になる。いろんな音のなかから自分でその音を選んで聞いている感じがしない。ある音を耳が「聞きに行く」という「肉体」の動きがない。遊べない。耳があっちへ寄り道、こっちでつまずき、また動くという感じがしない。自分で「好きになる」という「親密」感がない。イヤホンで聞くと「親密」よりも「押しつけられている」と感じてしまう。
「親密」というのは、あくまでも「積極的」な行動なのだ。積極的な「動き」を含むものなのだ。
石田は「意味だらけ」の完璧な音(透明に研ぎすまされた意味)ではなく、そこからこぼれてしまった「雑音(ノイズ)」に救われている。そういう感じがする。そう感じると親近感を覚える。
でも、違うかもしれないなあ。私はとんでもない誤読をしているんだろうなあ。
できることなら
両耳をとりはずし
部品をひとつひとつ点検し
溜まった塵は刷毛で掃き
曇っているところは
布で磨きあげたい
とさえ思う
ここは、怖い。「曇っているところは/布で磨きあげたい」は磨き上げて「透明」にしたいということにつながると思う。そういう「意味」も怖いが、ここに書かれていることが「目の世界」であることが怖い。「刷毛で掃き」「布で磨きあげ」るとき動いているのは「手」なのだが、手そのものが「部品」を点検するのではなく、「目」で点検している。そこに「目」が動いていること、目が世界を統一していること、目が世界を制御していることが、私には、怖く感じられる。
たぶん、私の個人的な事情がそこに反映している。私は目が悪い。だから、目で何かを点検しなければならないという状況へ追い込まれるのが怖いのかもしれない。耳が聞こえない(耳で聞くことが困難になったら)、目に頼らなければならないということが怖いのかもしれない。
うーん、こんなことを書いていては批評にはならないし、感想にもならないか。でも、きっと、こう書かなければならない「必然」のようなものがあるから、私は書いているのだと思う。
怖い、怖いと思いながら読んだのだが、「見えない波」の「14」の部分はとても好き。
七ツ森で
無伴奏パルティータニ短調
シャコンヌを聴いていると
音にも 味と匂いがあることが
わかってくる
木の葉が舞い 風が枝を打つ
舌をトリルする陽光のワイン
鼻腔のなかでアダージョのように
朽ちてゆく雨水と腐葉土の香り
初めて聴く北の小鳥
ジュウイチ ジュウイチ
なにを数える歌なのか
ジュウイチ 慈悲心鳥の声
この千年の森こそ
魂とぴったりあう曲
「音」が「味/匂い」と結びつく。耳が舌、鼻と結びつく。そこに「肉体」がつながったかたちであらわれてくる。そのとき「意識(意味)」は「ジュウイチ ジュウイチ/なにを数える歌なのか」というナンセンス(無意味)になる。「音の肉体」が人間の「肉体」に呼応するように、ただ、そこに「肉体」として存在する。「雑音(無意味な音/ナンセンス)」が「音楽」となって耳を祝福する。
「難聴」をくぐりぬけた「肉体」がつかんだ喜びかもしれない。「肉体」が、ここでは生まれ変わっているのかもしれない。
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