井上瑞貴『星々の冷却』(書肆侃侃房、2015年09月28日発行)
井上瑞貴『星々の冷却』は抒情詩である。と、書いたら、もう書くことはなくなってしまった。抒情詩とは、たぶん、そういうものである。抒情に触れて、抒情が刺戟される。「あ、いいなあ」。それ以外は、まあ、自分の感情のくだくだを書きつらねることになるからである。作者の書いた抒情がどこにあるか、は問題ではなく、読者は自分自身の抒情の記憶をたどってしまう。そんなことは書いてもしようがない。違うことが書きたいのだが……。
さて。私は、何を書くことができるか。「いいなあ」ではなく、どこが「おもしろいなあ」と書くことができるか。
「星々の冷却」を読んでみる。
これは巧妙な二行である。つまり技巧的な二行である。
「夜空」は抒情というにはすでに語られすぎている。センチメンタルすぎて、これを抒情そのものとして押し出すには「現代詩」としてはむりがある。だから井上は「書かれたもの」をつけくわえる。「夜空」が「永遠」ではなく、「書かれたもの(ことば)」が「永遠」である。古い抒情(夜空)を引き剥がしている。古い抒情に「無効」宣言をしている。そのうえで「冷却されている」と、一種、否定的なことばを結びつける。「冷却されている」は「燃える」、あるいは「活発に動く」とは逆の運動である。「冷却され、固定されている」。隠されている「固定」が「永遠」と結びつく。「静的な永遠」である。「永遠」のなかにある「静的」なものに視線が向けられている。
二行目は、一行目の言い直し。言い直すことによって、そこに「深み」が出てくる。
「夜空について書かれてもの」は「星々が隠してきたもの」を「あばいた」ものである。「夜空」と「星々」はまったくの同義である。「星々が隠してきたもの」とは「天体の運行」の「法則」だろうか。「真理」だろうか。それは、遠い昔は「隠されていた」。つまり「真理(法則)」がわからなかった。それを発見することは「暴く」ことであり、暴かれた法則は真理であるがゆえに永遠である。「永遠」と「あばかれたもの」は同義である。井上は「あばかれること」と書き、「もの」とは書いていないのだが。
そして、この「あばかれる/こと」の「こと」のなかには、「暴く(表面を引き剥がして、その内部を見る)」という動詞がある。抒情を井上は「夜空/星々」という「イメージ」から「発見する(暴く)」という動詞に転換することで「現代性」を表現している。現代は何といっても「科学の時代」。何かを「発見する」時代。
しかし、ねえ、「夜空/星々」の運動というのは、それを発見したときは「熱かった」かもしれないが、現代では、もう「発見する」という動詞の形では動いていない。「発見されたもの」(確立された法則)として存在している。確定してしまったものは「冷却されている/冷えている」。
ここまで読むと、「抒情」というものが何か、少し分かりかける。
それは「冷却されている」「冷えている」というよりも「固定化している/動かない」もの/ことなのである。「動詞」ではなく、動かせないもの/こと。これが抒情である。俗に考えるとわかりやすい。「動かせないもの/こと」。たとえば、失ってしまった恋愛とか。恋愛の最中は、その恋愛がどこへ行くかわからない。セックスだって日々違ったスタイルをとるだろう。けれど、終わってしまうと「記憶」しかない。もう、やりなおせない。固まってしまっている。
その「固まっている」はずのものを、固まったものは固まったものとしてそのままにして、動かせるものを探してみる。何が動かせるか。感情が、動かせる。思い出して、悲しくなる。この動かない事実と動きつづける感情の対比--それが抒情である。
そういうことを井上は、「恋愛」ではなく「夜空/星々」をとおして語っている。
一方に「固定化されたもの(書かれたもの/暴かれたもの)」があり、それは「冷却されている」「冷えている」のだが、それを「冷却されている」「冷えている」と書き直すときのことばは動いている。感情は動いている。その対比に抒情がある。
一連目のつづき。
「猫」の行は、ほんとうかどうかわからない。書いている井上が、そう思いたいだけである。そう思うことで、猫に井上自身を託している。自己を、自己よりも小さなものに託して見つめなおすというのも、センチメンタルの常套である。像や麒麟やアナコンダになって階段を上るときは、まだ「動詞」が自己を突き破って動いていく「恋愛」の真っ最中である。(と、「恋愛」をひきずって、抒情を説明できるだろう。)
「猫」は「冷却された井上」である。石段の数は変わることのないもの、宇宙の法則のようなものであり、それをたどっていれば「生活」は法則にのっとって崩れない。生活は法則のなかで「冷却される」、安定する。「登る」という「動詞」は、まあ、そういう「冷却」と向き合う動き(感情)である。
あとの二行は、感情のゆらぎ。雰囲気。状況の拡大のようなもの。「あたたかくしてください」には、手の届かないものへの未練のようなものがあるね。
二連目の書き出しもおもしろい。
あることが「四ヶ月前」のことなら、いまは「四ヶ月後」であるはずだ。ところが、井上は「五ヶ月経った」とわざとずらしている。この「ずれ」(間違い)のなかに、井上は詩をつくりだしている。驚かせることで、その驚きこそが詩であると言っている。
これは「雨は重力の平行線である」という表現についても言えるだろう。雨は重力にひっぱられて垂直に落ちる。雨と重力は平行ではない。平行なのは、重力にひっぱられるそれぞれの雨の動きである。雨は互いに交差することなく、つまりそれぞれが平行に動いて降ってくる。雨は重力にしたがって平行に動くを縮めて、わざと「雨は重力の平行線である」と書き、読者の意識をひっかきまわしている。意識をかきまぜること、が詩だからである。
つくりだすもの/わざと書くものが詩。これは西脇の「現代詩」の定義にあてはまる。井上は、そういう作法を守っている。
で、少し戻って。
は、「言葉」というに注目すれば、それが
との類似性に気づく。「雨は重力の平行線である」と「書かれたもの」に出会った、夜空について書かれ「言葉」という具合に、相互に入れ替えが可能である。状況を変えて、同じことを繰り返す。そうすることで抒情に奥行きを与えているのだが、それが言い直し(繰り返し/反芻)であるということは、この新たに言い直された「言葉」もまた「冷却されている」「冷えている」ということを意味する。
だから、その「冷えている」を明確にするために、次の一行が書かれる。
「冷えている」という状況を語ることばの前の「戦闘を望む戦争/戦闘を望まない戦争」「おわる/はじまる」の対比。矛盾(対立/対峙/切断)を強引に、句点「。」をはさまずに「接続」させるこの一行は、そういう「わざと」動かすことば、ことばの「わざと」らしい動きが詩であることの宣言でもある。
詩は、ことばが「わざと」動くときの、「わざと」に刺戟されてはじまる「精神」の運動ということか。
これを「冷却されている/冷えている」ものとして突き放しながら集合させているのが今回の詩集。読みながら、井上は、技巧のなかで「抒情」を救済しようとしているのかもしれない。「技巧」こそが抒情の本質である、と主張しているのかもしれない、と思った。
技巧が華麗に花開いた一冊である。
井上瑞貴『星々の冷却』は抒情詩である。と、書いたら、もう書くことはなくなってしまった。抒情詩とは、たぶん、そういうものである。抒情に触れて、抒情が刺戟される。「あ、いいなあ」。それ以外は、まあ、自分の感情のくだくだを書きつらねることになるからである。作者の書いた抒情がどこにあるか、は問題ではなく、読者は自分自身の抒情の記憶をたどってしまう。そんなことは書いてもしようがない。違うことが書きたいのだが……。
さて。私は、何を書くことができるか。「いいなあ」ではなく、どこが「おもしろいなあ」と書くことができるか。
「星々の冷却」を読んでみる。
夜空について書かれたものが永遠なのは冷却されているからだ
星々に隠してきたものがあばかれることがあってもそれは冷えている
これは巧妙な二行である。つまり技巧的な二行である。
「夜空」は抒情というにはすでに語られすぎている。センチメンタルすぎて、これを抒情そのものとして押し出すには「現代詩」としてはむりがある。だから井上は「書かれたもの」をつけくわえる。「夜空」が「永遠」ではなく、「書かれたもの(ことば)」が「永遠」である。古い抒情(夜空)を引き剥がしている。古い抒情に「無効」宣言をしている。そのうえで「冷却されている」と、一種、否定的なことばを結びつける。「冷却されている」は「燃える」、あるいは「活発に動く」とは逆の運動である。「冷却され、固定されている」。隠されている「固定」が「永遠」と結びつく。「静的な永遠」である。「永遠」のなかにある「静的」なものに視線が向けられている。
二行目は、一行目の言い直し。言い直すことによって、そこに「深み」が出てくる。
「夜空について書かれてもの」は「星々が隠してきたもの」を「あばいた」ものである。「夜空」と「星々」はまったくの同義である。「星々が隠してきたもの」とは「天体の運行」の「法則」だろうか。「真理」だろうか。それは、遠い昔は「隠されていた」。つまり「真理(法則)」がわからなかった。それを発見することは「暴く」ことであり、暴かれた法則は真理であるがゆえに永遠である。「永遠」と「あばかれたもの」は同義である。井上は「あばかれること」と書き、「もの」とは書いていないのだが。
そして、この「あばかれる/こと」の「こと」のなかには、「暴く(表面を引き剥がして、その内部を見る)」という動詞がある。抒情を井上は「夜空/星々」という「イメージ」から「発見する(暴く)」という動詞に転換することで「現代性」を表現している。現代は何といっても「科学の時代」。何かを「発見する」時代。
しかし、ねえ、「夜空/星々」の運動というのは、それを発見したときは「熱かった」かもしれないが、現代では、もう「発見する」という動詞の形では動いていない。「発見されたもの」(確立された法則)として存在している。確定してしまったものは「冷却されている/冷えている」。
ここまで読むと、「抒情」というものが何か、少し分かりかける。
それは「冷却されている」「冷えている」というよりも「固定化している/動かない」もの/ことなのである。「動詞」ではなく、動かせないもの/こと。これが抒情である。俗に考えるとわかりやすい。「動かせないもの/こと」。たとえば、失ってしまった恋愛とか。恋愛の最中は、その恋愛がどこへ行くかわからない。セックスだって日々違ったスタイルをとるだろう。けれど、終わってしまうと「記憶」しかない。もう、やりなおせない。固まってしまっている。
その「固まっている」はずのものを、固まったものは固まったものとしてそのままにして、動かせるものを探してみる。何が動かせるか。感情が、動かせる。思い出して、悲しくなる。この動かない事実と動きつづける感情の対比--それが抒情である。
そういうことを井上は、「恋愛」ではなく「夜空/星々」をとおして語っている。
一方に「固定化されたもの(書かれたもの/暴かれたもの)」があり、それは「冷却されている」「冷えている」のだが、それを「冷却されている」「冷えている」と書き直すときのことばは動いている。感情は動いている。その対比に抒情がある。
一連目のつづき。
猫も家の前の石段を毎回数えなければ登ることはできない
真冬には川の気配さえ凍る
あたたかくしてください
「猫」の行は、ほんとうかどうかわからない。書いている井上が、そう思いたいだけである。そう思うことで、猫に井上自身を託している。自己を、自己よりも小さなものに託して見つめなおすというのも、センチメンタルの常套である。像や麒麟やアナコンダになって階段を上るときは、まだ「動詞」が自己を突き破って動いていく「恋愛」の真っ最中である。(と、「恋愛」をひきずって、抒情を説明できるだろう。)
「猫」は「冷却された井上」である。石段の数は変わることのないもの、宇宙の法則のようなものであり、それをたどっていれば「生活」は法則にのっとって崩れない。生活は法則のなかで「冷却される」、安定する。「登る」という「動詞」は、まあ、そういう「冷却」と向き合う動き(感情)である。
あとの二行は、感情のゆらぎ。雰囲気。状況の拡大のようなもの。「あたたかくしてください」には、手の届かないものへの未練のようなものがあるね。
二連目の書き出しもおもしろい。
「雨は重力の平行線である」といった言葉に出会ったのは四ヶ月前だが
それから五ヶ月経った
あることが「四ヶ月前」のことなら、いまは「四ヶ月後」であるはずだ。ところが、井上は「五ヶ月経った」とわざとずらしている。この「ずれ」(間違い)のなかに、井上は詩をつくりだしている。驚かせることで、その驚きこそが詩であると言っている。
これは「雨は重力の平行線である」という表現についても言えるだろう。雨は重力にひっぱられて垂直に落ちる。雨と重力は平行ではない。平行なのは、重力にひっぱられるそれぞれの雨の動きである。雨は互いに交差することなく、つまりそれぞれが平行に動いて降ってくる。雨は重力にしたがって平行に動くを縮めて、わざと「雨は重力の平行線である」と書き、読者の意識をひっかきまわしている。意識をかきまぜること、が詩だからである。
つくりだすもの/わざと書くものが詩。これは西脇の「現代詩」の定義にあてはまる。井上は、そういう作法を守っている。
で、少し戻って。
「雨は重力の平行線である」といった言葉に出会った
は、「言葉」というに注目すれば、それが
夜空について書かれたもの
との類似性に気づく。「雨は重力の平行線である」と「書かれたもの」に出会った、夜空について書かれ「言葉」という具合に、相互に入れ替えが可能である。状況を変えて、同じことを繰り返す。そうすることで抒情に奥行きを与えているのだが、それが言い直し(繰り返し/反芻)であるということは、この新たに言い直された「言葉」もまた「冷却されている」「冷えている」ということを意味する。
だから、その「冷えている」を明確にするために、次の一行が書かれる。
戦闘を望む戦争がおわると戦闘を望まない戦争がはじまるそれは冷えている
「冷えている」という状況を語ることばの前の「戦闘を望む戦争/戦闘を望まない戦争」「おわる/はじまる」の対比。矛盾(対立/対峙/切断)を強引に、句点「。」をはさまずに「接続」させるこの一行は、そういう「わざと」動かすことば、ことばの「わざと」らしい動きが詩であることの宣言でもある。
詩は、ことばが「わざと」動くときの、「わざと」に刺戟されてはじまる「精神」の運動ということか。
これを「冷却されている/冷えている」ものとして突き放しながら集合させているのが今回の詩集。読みながら、井上は、技巧のなかで「抒情」を救済しようとしているのかもしれない。「技巧」こそが抒情の本質である、と主張しているのかもしれない、と思った。
技巧が華麗に花開いた一冊である。
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