詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

作田教子「私刑」

2015-11-26 10:10:17 | 詩(雑誌・同人誌)
作田教子「私刑」(「イリプスⅡ」17、2015年11月10日)

 作田教子「私刑」は、同じことばが違った意味につかわれているので、複雑である。「違う」といっても、「同じことば」なので、どこかが「同じ」ということが複雑なのである。
 その二連目。

土地は雨を受け止め 発芽していく
わたしという実体のない虚の双葉が
芽を出し 根を張っていくさまを
奇妙な幻の投影のように わたしが視ている
ここに定住するはずのない魂が
葉脈の筋となって浮きあがり水を欲している

 二行目の「わたし」と四行目の「わたし」は「同じことば」だが、指し示しているものが「違う」。二行目の「わたし」には「実体」がない。この実体がないを「虚」と作田は言い直している。さらに四行目で「奇妙な幻の投影」と言い直している。「実体がない=虚=幻」が「二行目のわたし」である。それを見ている「四行目のわたし」は「実体がある=実=現実」ということになるだろう。
 このとき五行目の「魂」は「二行目のわたし」なのか「四行目のわたし」なのか。これは、むずかしい。私は「魂」というものの存在を信じていない(見たことがない/触ったことがない/ことばでしか知らない)ので、ここで、完全につまずいてしまうのだが「定住するはずのない」ということばの「ない」に注目して、「二行目のわたし」と考えた。「定住するはずがない」の「ない」は「実体がない」の「ない」と同じ使い方だからである。ただし、その「実体がない」には「魂」という、どちらかというと「肯定的」なニュアンスでつかわれる「呼称」が与えられているので、それは「虚/幻」というよりも「理想」に近いかもしれないなあ。
 現実に存在するわたし(四行目のわたし)が、現実には存在しないわたし(二行目のわたし)を見ている。「発芽/双葉」という「比喩」、さらに「葉脈の筋となって浮きあがり水を欲している」という運動、「なる」「浮きあがる」「欲する」という「動詞」をとおして、現実に引き寄せている。
 この「実体のないもの/こと」と「現実」の交錯(?)を何と言うか。「かなしみ」ということばで、作田は言い直している。それが次の連。

雨が降り続いた夜明け
(かなしい夢をみた)という記憶だけが
身体に残されたまま目覚める
夢の実体がないのにかなしみに占領される
大地は雨を受け止めているのに
なぜこんなにもかなしいのだろう

 二連目の「土地は雨を受け止め」が、三連目で「雨が降り続いた」と言い直されているように、三連目は全体として二連目の言い直しである。「実体がない」「実体のない」ということばの繰り返しが、ふたつの連のことばを通い合わせる。
 「実体のないわたし」は「かなしい夢」の「かなしい」である。

(かなしい夢をみた)という記憶だけが
身体に残されたまま目覚める
夢の実体がないのにかなしみに占領される

 という三行の読み方は、むずかしい。「身体」は一般的に「現実」である。しかし「身体」が「実体/現実」であるとしても、そこにつながる「残された」という動きは「実体」のあるものなのか。「記憶がある」というときの「ある」は「実体」なのか。
 「夢」は「幻」と相性がいい。「夢幻」ということばがあるくらいだから、ふたつは「同じもの」と考えてもいいかもしれない。「幻」は「虚」であったから「夢=幻=虚=実体がない」。しかし「かなしみ」は「実体/実感」である。それは「記憶」と書かれているが、「実感」であり、その「実感」が「実体」である「身体」に「残っている」。「夢」がどんなものであったか語ることができないのに、「かなしみ」であることだけは「わかる」。「残っている」だけではなく「かなしみ」が「身体」を「占領している」(本文は「される」と受け身の形でかかれている。つまり「身体が、かなしみに占領される」と。)
 この「かなしみ」と「わかる」の結びつき、「身体」の「実感」が二連目四行目の「わたし」である。「かなしみに占領され」て「かなしみ」になってしまっている「わたし」。「わたし」と「かなしみ」は「違うことば」なのに「おなじもの」になっている。
 この二連のことばの動きは「同じことば」が「違う」を浮かび上がらせ、「違うことば」が「同じ」へと変化していく。この運動が、このまま、ことばが粘着力をもったままさらに繰り返され、「同じ」と「違う」を豊かにしていくととてもおもしろいと思う。後半は「ふるさと」というセンチメンタルなことばが出てきて、前半のおもしろさを壊してしまっている。センチメンタルなことばは「かなしい/かなしみ」だけにしておいたほうが「実体のない/実体がない」が「身体」に強く響いたと思う。

(ふるさと)の記憶が薄れていく
生まれた夜明けには波の音がしていた
どこにも海のない(ふるさと)なのに

 海が「ない」のに「波の音がしていた(波の音がある)」、その「ない(虚)」と「ある(実)」から、「ふるさと(実)」を「虚」として感じさせる。そしてその「虚」にセンチメンタルを結晶化させるというのは、「抒情詩」としては美しいけれど、ことばの運動(詩の書き方)としては、「技巧」にしか感じられない。「身体」がどこかへ消えてしまった。


詩集 地鏡
作田 教子
書肆侃侃房

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さざん花/異聞

2015-11-26 01:11:30 | 
さざん花/異聞

本のなかで、さざん花が雨にぬれて、しだいに荒れていく。古い家の生け垣の花だが、家の持ち主が死んで以来、まわりの木々もまた死んだものとみなされて、何の手入れもされていない。蜘蛛が破れ目のない巣を広げているのと対照的である。

本のなかの、さざん花の描写には魅惑的なところがある。衰えていくのに、咲き始めるときよりも強い力をもっている、という説明の後に「桃色の花びらの縁が金色に錆びる」とつづけられ、その一行を読んだとき、私は実際にその金色を見に行かなければ本は終わらないと思い込んでしまった。

桃色の花の金色の錆びた縁取りは、そのうちにほんとうの花びらになって、アルファロメオが止めてある角の家で枯れた。一枚は赤いボンネットをかすめ、アスファルトの上に落ちる。すると真昼なのにカーテンを閉めた部屋のなかに夜が始まり、内部からその家は荒れていく。「互いのこころを読みあうので、ことばが失われていく関係のように。」

本のなかで、さざん花の家には輝かしいものと暗いものの両面があって、うわさとなってひろがり、買い手のないままその通りを歩くひとの目印になるのだった。(この一文は、あとになって棒線で消され、中断したまま破棄される。)


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