作田教子「私刑」(「イリプスⅡ」17、2015年11月10日)
作田教子「私刑」は、同じことばが違った意味につかわれているので、複雑である。「違う」といっても、「同じことば」なので、どこかが「同じ」ということが複雑なのである。
その二連目。
二行目の「わたし」と四行目の「わたし」は「同じことば」だが、指し示しているものが「違う」。二行目の「わたし」には「実体」がない。この実体がないを「虚」と作田は言い直している。さらに四行目で「奇妙な幻の投影」と言い直している。「実体がない=虚=幻」が「二行目のわたし」である。それを見ている「四行目のわたし」は「実体がある=実=現実」ということになるだろう。
このとき五行目の「魂」は「二行目のわたし」なのか「四行目のわたし」なのか。これは、むずかしい。私は「魂」というものの存在を信じていない(見たことがない/触ったことがない/ことばでしか知らない)ので、ここで、完全につまずいてしまうのだが「定住するはずのない」ということばの「ない」に注目して、「二行目のわたし」と考えた。「定住するはずがない」の「ない」は「実体がない」の「ない」と同じ使い方だからである。ただし、その「実体がない」には「魂」という、どちらかというと「肯定的」なニュアンスでつかわれる「呼称」が与えられているので、それは「虚/幻」というよりも「理想」に近いかもしれないなあ。
現実に存在するわたし(四行目のわたし)が、現実には存在しないわたし(二行目のわたし)を見ている。「発芽/双葉」という「比喩」、さらに「葉脈の筋となって浮きあがり水を欲している」という運動、「なる」「浮きあがる」「欲する」という「動詞」をとおして、現実に引き寄せている。
この「実体のないもの/こと」と「現実」の交錯(?)を何と言うか。「かなしみ」ということばで、作田は言い直している。それが次の連。
二連目の「土地は雨を受け止め」が、三連目で「雨が降り続いた」と言い直されているように、三連目は全体として二連目の言い直しである。「実体がない」「実体のない」ということばの繰り返しが、ふたつの連のことばを通い合わせる。
「実体のないわたし」は「かなしい夢」の「かなしい」である。
という三行の読み方は、むずかしい。「身体」は一般的に「現実」である。しかし「身体」が「実体/現実」であるとしても、そこにつながる「残された」という動きは「実体」のあるものなのか。「記憶がある」というときの「ある」は「実体」なのか。
「夢」は「幻」と相性がいい。「夢幻」ということばがあるくらいだから、ふたつは「同じもの」と考えてもいいかもしれない。「幻」は「虚」であったから「夢=幻=虚=実体がない」。しかし「かなしみ」は「実体/実感」である。それは「記憶」と書かれているが、「実感」であり、その「実感」が「実体」である「身体」に「残っている」。「夢」がどんなものであったか語ることができないのに、「かなしみ」であることだけは「わかる」。「残っている」だけではなく「かなしみ」が「身体」を「占領している」(本文は「される」と受け身の形でかかれている。つまり「身体が、かなしみに占領される」と。)
この「かなしみ」と「わかる」の結びつき、「身体」の「実感」が二連目四行目の「わたし」である。「かなしみに占領され」て「かなしみ」になってしまっている「わたし」。「わたし」と「かなしみ」は「違うことば」なのに「おなじもの」になっている。
この二連のことばの動きは「同じことば」が「違う」を浮かび上がらせ、「違うことば」が「同じ」へと変化していく。この運動が、このまま、ことばが粘着力をもったままさらに繰り返され、「同じ」と「違う」を豊かにしていくととてもおもしろいと思う。後半は「ふるさと」というセンチメンタルなことばが出てきて、前半のおもしろさを壊してしまっている。センチメンタルなことばは「かなしい/かなしみ」だけにしておいたほうが「実体のない/実体がない」が「身体」に強く響いたと思う。
海が「ない」のに「波の音がしていた(波の音がある)」、その「ない(虚)」と「ある(実)」から、「ふるさと(実)」を「虚」として感じさせる。そしてその「虚」にセンチメンタルを結晶化させるというのは、「抒情詩」としては美しいけれど、ことばの運動(詩の書き方)としては、「技巧」にしか感じられない。「身体」がどこかへ消えてしまった。
*
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作田教子「私刑」は、同じことばが違った意味につかわれているので、複雑である。「違う」といっても、「同じことば」なので、どこかが「同じ」ということが複雑なのである。
その二連目。
土地は雨を受け止め 発芽していく
わたしという実体のない虚の双葉が
芽を出し 根を張っていくさまを
奇妙な幻の投影のように わたしが視ている
ここに定住するはずのない魂が
葉脈の筋となって浮きあがり水を欲している
二行目の「わたし」と四行目の「わたし」は「同じことば」だが、指し示しているものが「違う」。二行目の「わたし」には「実体」がない。この実体がないを「虚」と作田は言い直している。さらに四行目で「奇妙な幻の投影」と言い直している。「実体がない=虚=幻」が「二行目のわたし」である。それを見ている「四行目のわたし」は「実体がある=実=現実」ということになるだろう。
このとき五行目の「魂」は「二行目のわたし」なのか「四行目のわたし」なのか。これは、むずかしい。私は「魂」というものの存在を信じていない(見たことがない/触ったことがない/ことばでしか知らない)ので、ここで、完全につまずいてしまうのだが「定住するはずのない」ということばの「ない」に注目して、「二行目のわたし」と考えた。「定住するはずがない」の「ない」は「実体がない」の「ない」と同じ使い方だからである。ただし、その「実体がない」には「魂」という、どちらかというと「肯定的」なニュアンスでつかわれる「呼称」が与えられているので、それは「虚/幻」というよりも「理想」に近いかもしれないなあ。
現実に存在するわたし(四行目のわたし)が、現実には存在しないわたし(二行目のわたし)を見ている。「発芽/双葉」という「比喩」、さらに「葉脈の筋となって浮きあがり水を欲している」という運動、「なる」「浮きあがる」「欲する」という「動詞」をとおして、現実に引き寄せている。
この「実体のないもの/こと」と「現実」の交錯(?)を何と言うか。「かなしみ」ということばで、作田は言い直している。それが次の連。
雨が降り続いた夜明け
(かなしい夢をみた)という記憶だけが
身体に残されたまま目覚める
夢の実体がないのにかなしみに占領される
大地は雨を受け止めているのに
なぜこんなにもかなしいのだろう
二連目の「土地は雨を受け止め」が、三連目で「雨が降り続いた」と言い直されているように、三連目は全体として二連目の言い直しである。「実体がない」「実体のない」ということばの繰り返しが、ふたつの連のことばを通い合わせる。
「実体のないわたし」は「かなしい夢」の「かなしい」である。
(かなしい夢をみた)という記憶だけが
身体に残されたまま目覚める
夢の実体がないのにかなしみに占領される
という三行の読み方は、むずかしい。「身体」は一般的に「現実」である。しかし「身体」が「実体/現実」であるとしても、そこにつながる「残された」という動きは「実体」のあるものなのか。「記憶がある」というときの「ある」は「実体」なのか。
「夢」は「幻」と相性がいい。「夢幻」ということばがあるくらいだから、ふたつは「同じもの」と考えてもいいかもしれない。「幻」は「虚」であったから「夢=幻=虚=実体がない」。しかし「かなしみ」は「実体/実感」である。それは「記憶」と書かれているが、「実感」であり、その「実感」が「実体」である「身体」に「残っている」。「夢」がどんなものであったか語ることができないのに、「かなしみ」であることだけは「わかる」。「残っている」だけではなく「かなしみ」が「身体」を「占領している」(本文は「される」と受け身の形でかかれている。つまり「身体が、かなしみに占領される」と。)
この「かなしみ」と「わかる」の結びつき、「身体」の「実感」が二連目四行目の「わたし」である。「かなしみに占領され」て「かなしみ」になってしまっている「わたし」。「わたし」と「かなしみ」は「違うことば」なのに「おなじもの」になっている。
この二連のことばの動きは「同じことば」が「違う」を浮かび上がらせ、「違うことば」が「同じ」へと変化していく。この運動が、このまま、ことばが粘着力をもったままさらに繰り返され、「同じ」と「違う」を豊かにしていくととてもおもしろいと思う。後半は「ふるさと」というセンチメンタルなことばが出てきて、前半のおもしろさを壊してしまっている。センチメンタルなことばは「かなしい/かなしみ」だけにしておいたほうが「実体のない/実体がない」が「身体」に強く響いたと思う。
(ふるさと)の記憶が薄れていく
生まれた夜明けには波の音がしていた
どこにも海のない(ふるさと)なのに
海が「ない」のに「波の音がしていた(波の音がある)」、その「ない(虚)」と「ある(実)」から、「ふるさと(実)」を「虚」として感じさせる。そしてその「虚」にセンチメンタルを結晶化させるというのは、「抒情詩」としては美しいけれど、ことばの運動(詩の書き方)としては、「技巧」にしか感じられない。「身体」がどこかへ消えてしまった。
詩集 地鏡 | |
作田 教子 | |
書肆侃侃房 |
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谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。
なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。