詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋秀明「墓参」

2015-11-25 11:11:04 | 詩(雑誌・同人誌)
高橋秀明「墓参」(「イリプスⅡ」17、2015年11月10日)

 高橋秀明「墓参」は、風呂上がりの息子(高橋)に母親が「墓参りにゆく(ゆきたい)」と言う詩である。墓は遠いし、交通の便が悪い。さらに暑い。

                               気温
は高いし汗もかく 生きて帰ってくる自信はあるのか と冗談紛れにそろ
そろ問うと母は直接それには答えず もうみんな亡くなったから自分が墓
参りに行かなくては行く者がいないと言う 庭から剪りだした紫陽花や百
合やグラジオラスらを束ね 仏菓 線香 蝋燭以外にもペットボトル二本
になみなみ水を詰めて まだ髪もぬれたままの息子を急き立てるのには訳
があると言い募る うたた寝したときに夢枕に立ち なぜ迎え火を焚かぬ
かと母を責めるものがあったのだ アホらしい すぐ迎えに来いと言われ
たのだからすぐに行かねば申し訳が立たぬと死んだものにまで要らぬ気を
遣うより 生きて億劫がっている老いた息子に配慮しろと言いたいところ
を それでは孝行息子の声望を返上することになるので 私はあいまいに
言葉を呑んですっかり暑熱のこもった車両にクーラーの冷風を回しはじめ


 だらだらとことばが続き、どこまで引用すればいいのか悩んでしまう。引用しながら文字が詩のとおりに変換されないといらいらしてしまう。めんどうくさくなる。そのうちに「書きたい」と思っていたことさえ忘れてしまう。何について書こうとしてこの部分を引用したのだっけ?
 うーん。
 まあ、「めんどうくさい」ということが書きたかったのだろうなあ、といまとなっては思うしかない。
 で、その「めんどうくさい」というのは、どこから生まれてくるか。
 風呂からでてやっとさっぱりしたばかりなのに、なんで急に墓参りにゆきたい(連れて行け)なんて母は言い出すのか。少しは私の身になってみろ、くらいのことを、単純にそう書かないからだ。自分の気持ちだけではなく、母親の気持ちも書いている。気持ちだけではなく、行動を書いている。「庭から剪りだした紫陽花や百合やグラジオラスらを束ね 仏菓 線香 蝋燭以外にもペットボトル二本になみなみ水を詰めて」という、ことばの寄り道が「めんどうくさい」。ことばが寄り道をすると、そこに「気持ち」のように「抽象化(単純化)」できない「肉体」の動きが見えてきて、それが読んでいる私の「肉体」を刺戟するのである。高橋の母ではなく、私自身の母親の姿なんかが、花を切り、束ね、線香と蝋燭をそろえている姿が見えてしまう。のろのろした動きが見えてしまう。
 それが、なんとなく「めんどうくさい」。「のろのろ」を待っている自分の記憶が重なる。身にせまってくるので「めんどうくさい」のかもしれない。
 さらに「うたた寝したときに夢枕に立ち なぜ迎え火を焚かぬかと母を責めるものがあったのだ」という、実際に「いる」のか「いない」のかわからない誰か(他人)の行動が母親のことばのなかで動く。母親は、その誰かの声を聞いているだけではない。「意味」を聞いているだけではない。その誰かの「肉体」そのものを見ている。母親の「肉体」のなかに死んだ誰かの「肉体」が動いている。
 それが「めんどうくさい」。「つながり」が「めんどうくさい」。
 高橋は「アホらしい」とひとことでけりを付けたいのだが、なかなかねえ。そんなうまい具合にけりはつけられない。「めんどうくさい」ことはたいていが「アホらしい」のである。逆か。「アホらしい」ことが「めんどうくさい」か。「アホらしい」とは「頭」で処理すると、切って捨てることができることである。合理性を重視する「頭」のそとでおきることが「アホらしい」。だから「アホ」に向き合うには「頭(合理性)」を捨てて、非合理につきあうしかない。非合理とわかっていて、それをするのは、「めんどうくさい」。
 これに輪をかけるようにして「めんどうくさい」のは、実は高橋自身の「こころ」である。「こころ」もまた、「頭」からみると「めんどう」以外いのなにものでもない。
 高橋は単純に母親の言うことを聞くことができない。母親の言うことにしたがっていれば、実は、そんなに「めんどうくさい」ことではない。「アホらしい」と思う「こころ/頭」が「めんどうくさい」を引き起こしている。「めんどうくさい」けれど、そうしないとさらに「めんどうくさい」ことになると思う「こころ」が「めんどうくさい」を増幅させる。それは、「死んだものにまで要らぬ気を遣うより 生きて億劫がっている老いた息子に配慮しろと言いたい」ということばになっているし、さらにそのことばと矛盾する「それでは孝行息子の声望を返上することになる」ので、それもできない。「矛盾」していることをしないといけないから「めんどうくさい」。「矛盾」していることをするのは「アホらしい」。
 で、そういう「矛盾」したことをするときに……。

言葉を呑んで

 あ、そうなのだ。「ことば」のなかで動いたものを「肉体」のなかにしまいこんでしまうのだ。「矛盾」を「ことば」にしてしまわないといけない、その「抑制」が「めんどうくさい」のである。そうしないと「暮らし」がうまく動かないということが「めんどうくさい」。
 「めんどうくさい」を書きすぎて、どれがほんとうに「めんどうくさい」なのか区別するのが「めんどうくさい」ので。
 おもしろいのは。
 「おしろいのは、「言葉を呑んで」と書きながら、その「言葉を呑む」までのことを、ことばにして書いていることだ。ことばを高橋が書かずにはいられないことだ。「言葉を呑んで」しまうくらいなら(呑んでしまったのなら)、ことばがなかったことにしてしまえば、簡単で「めんどうくさい」ことにならない。
 そうすると。
 「めんどうくさい」というのは「ことば」の領域のことなのか。
 違うなあ。
 「めんどうくさい」というとき「ことば」が動いているのだけれど、ことばだけが動いているのではなく、「肉体」がその動いていることばを動かないように(抑制するように/隠すように)動いている。この「肉体」の動きは「欲望」に反しているので、そのことが「肉体」に「めんどうくさい」という感覚を引き起こしているのだ。「めんどうくさい」はあくまで「肉体」の印象なのだ。うまくことばにならないが、生まれようとする「肉体」を生まれないままにしておくことが「めんどうくさい」なのだ。
 ちょっと脱線するが、きのうの日記にも書いた森田真生の『数学する身体』のなかに計算の初期の肉体の動きが出てくる。指を折って数える。手も足も、それから全身の部分をつかって数え、計算する。これは最初は「真剣」で「めんどう」でもなんでもないが、きっと記号や九九を覚えてしまうと「肉体」で計算するのは「めんどうさい」ものになる、ということと似ているかもしれない。3×2=6なんて、指を三つずつ折って、それをつづけて数え直すというようなことをしなくても、九九で覚えていることをそのまま言ってしまえばすむ。指を折る、指を数えるという「肉体」をつかった計算は「めんどうくさい」。「頭」で覚えていることをつかえば「簡単」。
 「めんどうくさい」はいつでも「肉体」といっしょにあり、「肉体」のなかにはことばが生まれたり、生まれるのを拒まれたり(押さえこまれたり)していて、そのぶつかりあい、折り合いをつけるということが「めんどうくさい」なのだ。

言葉を呑んで

 というのは、こういう「肉体」の動きを、「ことば」を前面に出して語ったことである。この詩の、いわば「キーワード」。
 「私はあいまいにことばを呑んで」という部分はなくても、この詩のなかで起きたこと、高橋が母親を墓参りに連れて行くということが変わってしまうわけではない。けれど「私はあいまいに言葉を呑んで」がなければ、それは詩ではなくなる。「日記」と変わらなくなる。「言葉を呑んで」の「呑んだ言葉」が「肉体」の外には生まれないまま、「肉体」のなかで「生まれたまま」生きて動いているから、とてもおもしろいのだ。
 書かれていることが特別に目新しいわけでもなく、また書き方自体も特に変わっているわけでもなく、だらだら書き流しているような感じなので(誰にでも書けそうな感じがしてしまうので)、この魅力(ことばの強さ)をどう語るかはむずかしい。でも、おもしろいのだ。





言葉の河―高橋秀明詩集
高橋 秀明
共同文化社
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