詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐藤純彌監督「新幹線大爆破」(★★★)

2015-11-01 09:33:53 | 午前十時の映画祭
監督 佐藤純彌 出演 高倉健、山本圭、宇津井健

 1975年の映画。こういう昔の映画を「採点」するのはむずかしい。どうしても今の映画と比較してしまう。セットや撮影技術、演技も。へたくそだなあ、と思ってしまう。
 この映画のいちばんの問題点は……。
 いったい新幹線車輛の清掃係員がどうやって新幹線の「台車」に爆弾を仕掛けることができるのか、ということではなく、肝心の新幹線の「スピード」がぜんぜん伝わってこないことだ。新幹線用の特別の線路をひたすらスピードを出して走っているという感じが映像で再現されていないことだ。時間を稼ぐためにスピードを落としているのだが、そのスピードを落としているという感じも出ていない。本来なら速く走るはずなのに、ゆっくり走るしかない。その苦悩。なんといえばいいのか……、新幹線そのものが「もだえている」という感じがしない。新幹線という「車輛(物体)」が「肉体」になっていない。
 新幹線のスピードをいちいち何キロとことばにして説明しないと、新幹線が走っていることにならないのが、実につまらない。頭で「時速何キロ」と言われても、新幹線に乗っている気持ちにならないし、どんどん時間が減っていくという感じにもならない。これでは、どうしようもない。
 どうやって犯人を突き止めるか、どうやって仕掛けられた爆発物を取り除くか、そのやりとりがテーマであって新幹線は「舞台」にすぎない、ということかもしれないが、その「舞台」が、ほんとうに「舞台」にすぎなくて、「事件」になっていない。これが、おもしろくない。
 で、この「時速何キロ」という実感のなさは、新幹線の運転士(千葉真一)、管制官(宇津井健)の「肉体」感覚にもつながっている。まるで「学芸会」。時間がどんどん過ぎ去っていくのに、そのことに対する「あせり」が「肉体」になっていない。まるで新幹線が博多に着く前に事件が解決するということを知っている感じ。「脚本」を読んでいるのだから、もちろん役者は「結末」を知っているのだが、その「知っている」が「肉体」に出てしまっては演技と言えない。
 司令室のセットがちゃちということもあるかもしれない。ここでも「スピード」というか新幹線の進んだ距離(残された距離)は、「図式」のように説明されるだけで、走りつづける新幹線をどう監視するのか、制御するのか、そのシステムの存在感、「機械」の存在感がない。そこで演技している役者に(演技する役者のために)、当時の国鉄の職員が「司令室はこうなっているんですよ」と説明している感じ。役者が国鉄職員から説明を聞く「観客」になってしまっている。スクリーンを見ている観客に「肉体」で「事件」を再現しようとしていない。CTSなんて、「頭」でことばを動かしているだけで、それがどんなものか千葉真一も宇津井健も知らない、ということが見えてしまう。二人とも、それがどんなものか知らないのだと思う。知らないから、台詞だけ間違えまいとして、一生懸命にしゃべっている。小学校の「学芸会」以下。(現在なら、CTSがらみの事故というものがすでに起きているために、その重要性、重大性が、一般にも知られているが、この当時はきっと「夢のシステム」だったのだろうなあ。)
 だからね、というのは変かなあ。
 犯人側の高倉健や山本圭にしてものんびりしたものだなあ。走りつづける新幹線が凶器である、新幹線が暴力をもって動くのを駆り立てているという悪魔的な美しさがない。「時間」で脅迫している「肉体」感覚がない。「ことば」だけで脅しているよう。国鉄と警察を「ことば」で脅している、「ことば」だけで交渉している。
 彼らもまた映画の結末を知っている、という顔をしている。成功して、金を奪って、生き延びるのだ、欲望のままに生きるのだという「生命感」がない。何が起きるかわからないはらはら、どきどきを引き起こす野蛮、暴力、強暴の美しさがない。「やくざ」な血の騒ぎがない。
 警官側はもっとひどい。早く犯人をつかまえないと新幹線の1500人が死んでしまう。さらに新幹線が爆発すれば、その沿線にも被害がおよぶなんて考えてもいない。どうせ、犯人はつかまり、新幹線は爆破されないと知っていて、演技をしている。いや、演技になっていないというべきなのか。ストーリーの説明にしかなっていない。すべてが「ことば(会話)」で語られ、まるで「小説」を読んでいるか、「紙芝居」を見ている感じ。「映像」はストーリーの補足になってしまっている。
 せめてこの時代に、キューブリックが「シャイニング」を撮影するときにつかったシステムがあったならなあ。カメラが空を滑っていくように動き、新幹線のスピードを空撮できていたならなあ。当時のカメラでは、空撮の画像が揺れてしまい、高速で走る新幹線の感じがしない。単に空から撮っているというだけで、新幹線の大きさとスピードが視覚化されていない。どの駅でもいいのだが、新幹線が遠くから入ってきて、走り去る全体を空からスムーズに撮ることができていたら、「走っている(止まることができない)」ということが「実感」になっただろうなあ、と思う。冒頭に空撮の新幹線の映像があるが、激しく揺れて、ただ空撮しているというだけの映像。美しい走りが、そのまま凶器になっていくという「予感」を引き起こさない。美しいもの(完成されたもの)ほど、狂気をはらんでいて、危険だ、という「予感」が冒頭に必要なのに、その「美しさ」がとらえきれていない。またキューブリックになるけれど、「2001年宇宙の旅」の宇宙船、美しいでしょ? だから「危険」がいっぱいという張り詰めた感じがするでしょ? 「機械」を「舞台」にするときは、「機械」を「美しく」撮るということが絶対条件なのだ。(スピルバーグの「激突!」もタンクローリーの強暴な面構えが魅力的だ。)
 でも、まあ、「公衆電話」をつかった「脅迫(警察との交渉)」はおもしろかったなあ。どこに「公衆電話」があるか、それを事前に調べ、公衆電話から公衆電話までの「移動時間」を把握している(らしい)高倉健の動き。それを「脚本」にしっかり落とし込んでいるところは傑作だ。ここだけ「肉体」がしっかり動いている。高倉健も納得して(?)動いている感じがする。ただし、オートバイのシーンはスタントなのか、あるいは本人だから故なのか、ぎこちない。「肉体」の連続感、スピード感が違いすぎる。最初に死んでしまう若者のオートバイのシーンと違いすぎる。一方は逃走なのだけれど……。高倉健だって、捜査網をかいくぐり逃走しているという緊迫感がないとねえ。
 新幹線の東京-博多直結開通を取り込んでの映画作りという「やくざ」な感じは、エンタテインメントらしくて気持ちがよいだけに、とても残念。広がった新幹線網を舞台に、だれかリメイクしないかなあ。
              (午前十時の映画祭、天神東宝4、2015年10月31日)





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