清岳こう『九十九風』(思潮社、2015年10月15日発行)
清岳こう『九十九風』には、詩を書きたい女と、詩を書く女を好まない男が出てくる。その「家庭争議」がテーマ。
「正論」という作品。
「現代詩講座@リードカフェ」なら、私は受講者に「どこがおもしろかった?」と訪ねる。そうすると……。「女と男のやりとりが、手に取るようにわかる」「身につまされる」「我が家でも文学をわかってくれない」というような反応があるかもしれないなあ。
「阿蘇のまつぼり風と春風駘蕩の対比がいい」という声も聞かれそう。そこから詩に踏み込んで行って、「一連目と二連目が、くっきりと対比になっている。言っていることは正反対のこと。そのなかで、この半世紀ということばが共通していて、それが女と男の違いを際立たせる効果を上げている」という発言につながるかもしれない。
しかし、その場合でも、「表現」よりも「事実」の方を見てしまいがちになる。どう書かれているかよりも、女と男が「文学」をめぐって言い争いをして、男が出て行ったという「事実」への感想が動き回るだろうと思う。
それはそれで楽しいのだが……。
では、どこが詩? お茶をのみながら聞いた打ち明け話とどこが違う?
たしかに「阿蘇のまつぼり風と春風駘蕩の対比」というのようなことが、詩なのかもしれない。でも、私は、そういう部分はあまりにも「かっちり」と詩になりすぎていて、おもしろいとは感じない。
私がおもしろいと思ったのは、
この二行。
この二行がないと、この詩は四行ずつの三連でつくられたすっきりした形になる。一連目、女が主張する。二連目、男が反論する。三連目、衝突の結果男が出て行く。弁証法の運動が「事実」としてすっきりわかる。
この二行はなくても、「事実」がわかる。
なぜ、この二行を書いたのかなあ、ということろに私の関心は動いていき、その瞬間に、ここがおもしろいなあと感じるのである。
なぜ、書いたんだろう。定型を破ってまで、何が言いたかったのだろう。
「ものは言いよう」が言いたかったのだろうと思う。「四角い豆腐も丸くなる」は「ものの言いよう」によって「世界」がかわるという例なのだが、実際に「世界」がかわってしまうわけではない。「事実」は「事実」として同じままだ。「表現」が「事実」を離れて、「別の世界」をつくってしまう。そして、その「世界」は「ことば(表現)」のなかだけなのに、人間はなぜがその「表現された世界」に引きずり回されてしまう。
「表現」しないと自分にとっての「事実」が、他人の「表現」のなかに組み込まれ、その結果「自分」というもののあり方が消えてしまう。だから、みんな「自分の表現」の方に相手を引っぱってこようとする。あるいは「自分の表現」を相手に押しつけようとする。
一連目、二連目は、そういう女と男の運動だね。
そういうことを「ものは言いよう」ということばで、清岳は言い直している。言い直さざるえなかった。「言いよう」こそが詩であると、自分自身に言い聞かせている。そこに何と言えばいいのか、あきらめきれないもの、執念のようなものが強く溢れ出ている。清岳は「言う」という「動詞」で自分をつかみなおしているんだな、ということが、ここでよくわかる。
詩集の最後の「茗荷」という詩。
忘れても忘れても、忘れられないことがある。それは、清岳にとっては「言う」ということ。「言う」ということが詩であり、「冥加」。「言う」かぎり、生きている、という実感が清岳にあり、それがこの詩集のことばとなっている。
清岳こう『九十九風』には、詩を書きたい女と、詩を書く女を好まない男が出てくる。その「家庭争議」がテーマ。
「正論」という作品。
阿蘇のまつぼり風
ためにためこんだ寒気烈風の勢いで言ってしまった
この半世紀
「私の文学」の足引っぱりばかりして
春風駘蕩
男はあわてず騒がずのたもうた
この半世紀
俺のおかげで「文学的生活」ができたんちゃうか
ものは言いよう
四角い豆腐も丸くなる
男は関西弁のやわらかさで
女房一揆をするりとかわし
何事もなかったように
どこかへ出掛けて行った
「現代詩講座@リードカフェ」なら、私は受講者に「どこがおもしろかった?」と訪ねる。そうすると……。「女と男のやりとりが、手に取るようにわかる」「身につまされる」「我が家でも文学をわかってくれない」というような反応があるかもしれないなあ。
「阿蘇のまつぼり風と春風駘蕩の対比がいい」という声も聞かれそう。そこから詩に踏み込んで行って、「一連目と二連目が、くっきりと対比になっている。言っていることは正反対のこと。そのなかで、この半世紀ということばが共通していて、それが女と男の違いを際立たせる効果を上げている」という発言につながるかもしれない。
しかし、その場合でも、「表現」よりも「事実」の方を見てしまいがちになる。どう書かれているかよりも、女と男が「文学」をめぐって言い争いをして、男が出て行ったという「事実」への感想が動き回るだろうと思う。
それはそれで楽しいのだが……。
では、どこが詩? お茶をのみながら聞いた打ち明け話とどこが違う?
たしかに「阿蘇のまつぼり風と春風駘蕩の対比」というのようなことが、詩なのかもしれない。でも、私は、そういう部分はあまりにも「かっちり」と詩になりすぎていて、おもしろいとは感じない。
私がおもしろいと思ったのは、
ものは言いよう
四角い豆腐も丸くなる
この二行。
この二行がないと、この詩は四行ずつの三連でつくられたすっきりした形になる。一連目、女が主張する。二連目、男が反論する。三連目、衝突の結果男が出て行く。弁証法の運動が「事実」としてすっきりわかる。
この二行はなくても、「事実」がわかる。
なぜ、この二行を書いたのかなあ、ということろに私の関心は動いていき、その瞬間に、ここがおもしろいなあと感じるのである。
なぜ、書いたんだろう。定型を破ってまで、何が言いたかったのだろう。
「ものは言いよう」が言いたかったのだろうと思う。「四角い豆腐も丸くなる」は「ものの言いよう」によって「世界」がかわるという例なのだが、実際に「世界」がかわってしまうわけではない。「事実」は「事実」として同じままだ。「表現」が「事実」を離れて、「別の世界」をつくってしまう。そして、その「世界」は「ことば(表現)」のなかだけなのに、人間はなぜがその「表現された世界」に引きずり回されてしまう。
「表現」しないと自分にとっての「事実」が、他人の「表現」のなかに組み込まれ、その結果「自分」というもののあり方が消えてしまう。だから、みんな「自分の表現」の方に相手を引っぱってこようとする。あるいは「自分の表現」を相手に押しつけようとする。
一連目、二連目は、そういう女と男の運動だね。
そういうことを「ものは言いよう」ということばで、清岳は言い直している。言い直さざるえなかった。「言いよう」こそが詩であると、自分自身に言い聞かせている。そこに何と言えばいいのか、あきらめきれないもの、執念のようなものが強く溢れ出ている。清岳は「言う」という「動詞」で自分をつかみなおしているんだな、ということが、ここでよくわかる。
詩集の最後の「茗荷」という詩。
やわらかな花びらを広げ
木下闇にあわあわと灯をともし
食べすぎると物忘れをするとか
酢味噌サラダ 糠漬け 吸い物
たくさん食べて なにもかも忘れる冥加
たくさん食べても 詩のきれぎれだけは忘れない冥加
忘れても忘れても、忘れられないことがある。それは、清岳にとっては「言う」ということ。「言う」ということが詩であり、「冥加」。「言う」かぎり、生きている、という実感が清岳にあり、それがこの詩集のことばとなっている。
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