詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中清光『言葉から根源へ』

2015-11-10 16:38:07 | 詩集
田中清光『言葉から根源へ』(思潮社、2015年10月25日発行)

 田中清光『言葉から根源へ』を読みながら、私が好きと思う部分は、必ずしも田中が書きたい部分とは違うかもしれないと思う。
 私が好きなのは「鳥」。

鳥たちは
日日空から墜ちている
海なのか 砂漠なのか 山脈なのか
かすかな啼声を残して

風のなかに その声が
流れている
誰もききとれないけれど
死は このように近くにあり

突然
君の肩に乗ってくる
空から陸へ 陸から川へ
めぐっている

なんの予告もなしに
見えない距離を
風切羽に乗せられ
死もとどけられる

 途中に出てくる「誰にもききとれない」「見えない」は、一種の矛盾である。「誰にもききとれない」「見えない」ならば、田中にも聞こえないし、見えないはずである。それなのに、それが「ある」と感じ取る。
 これはなぜなのか。
 私たちは、なぜ「ない」が「ある」ということを知っているのか。どうやって、それを知ったのか。「ある」があることを知り、その「ある」が「なくなる」ということも体験しているからである。そこから「ない」が「ある」と想像するのである。ことばによって。
 一連目も、それは「ことば」によって「ある」と想像された世界である。
 鳥はほんとうに空から落ちるか。落ちて、死ぬか。木にとまって、あるいは大地に身を横たえて死ぬか。そのとき、啼くか。わからないけれど、そのわからないものを「ある」として受け止めることができる。ことばによって。
 そのとき、「ことば」とはなんだろうか。ほんとうに、私たちは「ことばによって」何かをつかみとっているのだろうか。
 説明することがむずかしいが、私は「肉体によって」つかみとっているのだと考えている。たとえば「空から墜ちている」ということばを読みながら、私は自分がどこかから「落ちた」ことを思い出す。崖の上から崖下の田んぼへ、橋の上から川へ。あるいは上から何かが「落ちてくる」のを見たことを思い出して「墜ちる(落ちる)」を理解している。「肉体」が動いている。
 「海」「砂漠」「山脈」も、「ことば」ではなく、自分の見たもの(肉体がそこにあったときの場)として思い出す。「砂漠」そのものは私は知らないが(鳥取砂丘は知っているのが)、海辺の砂がさらに連なった風景として思い浮かべることができる。「海」「砂漠」「山脈」は「名詞」だが、そこに「いる」肉体を思い浮かべるとき、それは「肉体」のひろがり、「肉体」とつながりのある「動詞」を誘う。
 あらゆる「場」と「肉体」はつながり、「肉体」は「場」へ広がって行く。そして、そこで「かすかな啼声を残して」の「啼く」といっしょに「残す」ということも「肉体」は繰り返す。鳥が啼くだけではない。自分の「肉体」が啼く。啼くときの「肉体」の動きがあり、何かを「残す」ときの「肉体」の動きがある。「残す」と同時に「残る」ということも「肉体」は覚えている。
 「覚えている」ものは、そこには「ない」。そして、覚えているものは「肉体」のなかに「ある」。「ない」と「ある」を「肉体」が繋いでいる。
 「誰にもききとれない」のは聞き取る必要がないからである、と言い換えることができる。聞き取る必要がないのは、「肉体」が覚えているからである、とさらに言い直すことができる。
 「見えない距離」は果てしないから見えないのではなく、密着しすぎているから見えないのである。それは「肉体」が覚えているから、「肉体」のなかにあるから「見えない」のであり、「肉体」のなかにあるから「見る」必要もない。「見る」かわりに「思い出す」のである。「思い出す」とき、それは「肉体」からあらわれてきて、「世界」になる。
 この緊密な「世界」を「鳥」の一語に託してとらえた、この作品が好きである。このとき田中は「鳥」であり、「空」であり、「海」「砂漠」「山脈」であり、「風」であり、「君」でもある。瞬間瞬間に、田中の「肉体」がそれらの存在(もの)と「こと(墜ちる/啼く/残す/流れる/動詞)」を生み出している。変化しながら「ひとつ」になっている。たしかにそこに「ある」。「肉体」として「ある」。

 私は、詩は、こういう形で存在すればそれでいいと思っているのだが。
 田中は、少し違うようである。
 「肉体」でつかみとったものを、「頭」で反芻したいと考える人のようである。この詩にはつづきがある。

ぼくたちの不幸
邪悪のひそむ日日の現実のなかで
喪われてゆく
平和 文化 未来 そして永遠も

 さらにつづくのだが省略する。
 田中は、たぶん、この連からはじまる「後半」のことを書きたいのだろう。後半のことばを書きたいのだろう。
 私は、しかし、そういうことは「前半」を読んだひとが、自分の「生活」と結びつけて考えるに任せておけばいいと思う。前半の「鳥」を読んだあと、どんな「鳥」になるかはひとそれぞれでいいような気がする。
 「前半」を読みながら、田中が「鳥」ならば、どんな鳥だろう、それを読者に任せた方が「詩」をいっしょに生きることになるのではないだろうか、と思う。

光が誕生した岸辺の
すももの枝で
私は鳥だったことがある
私は死者だったことだってある
空も
大地もそこにあった
いつしか 言葉だけが残った

 「鳥」は、そして「約束」のその行のなかにつながっていけば、それでいいと思う。

日本語よ
私を川に戻してください

私の声が
通ったことのない
水路を見つけ
遠景へ 遠景へと
くぼみやふくらみを探して 見えない世界を
歩いて行けるように

 この「約束」の最後の方の部分の「遠景」は、私には「永遠」と同じように見える。





言葉から根源へ
田中清光
思潮社

*

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