詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐峰存『対岸へと』

2015-11-09 19:53:21 | 詩集
佐峰存『対岸へと』(思潮社、2015年10月25日発行)

 佐峰存『対岸へと』の巻頭「連鎖」の第一連。

湾が広がっている せまってくる
遠ざかり 黒々と鮮やかに
透明に 増え続ける
生態の柔らかな連鎖は生臭く
鋼鉄の空白に 食い込んでいく

 「私」が書かれていない。でも、「私」を書かないことは、珍しいことではない。時に、日本では。
 私は瞬間的に「俳句」を思い浮かべた。

古池やかわずとびこむ水の音

 「私」という「主語」は出てこない。「私」は「世界」と「一体」になっている。そこに書かれている「もの」が「私」なのであり、そこで書かれている「こと」が「私」なのである。
 詩にもどって言えば、「湾」が「私」。それは「広がっている」と「せまっている」という二つの「動詞」を生きている。「広がる」とは何かに「せまる」ことであり、「せまる」は「間が狭まる/狭くなる」ということでもある。「拡大」と「縮小」が共存している。それは「古池」の静けさと「水の音」の静けさを破るものの共存と同じで、共存することによってはじめてそれぞれの存在がはっきりする。
 「せまってくる」が次の行では「遠ざかり」と言い直されるのも同じ。「動詞」のなかで「世界」が動きながら、拡散と濃縮を繰り返している。「黒々と鮮やかに」という一見「矛盾」したことばの結合も同じものと考えることができる。
 「せまってくる/遠ざかり」「黒々と(鮮やかに)/透明に」という「改行」に注目するなら、佐峰は「俳句」のように「遠心・求心」を「ひとつ」だけ取り出して「世界」を描くのではなく、多重焦点(楕円のよう)を導入することで、佐峰は「ひとつ」を拒絶しようとしているとも言える。増殖する「遠心・求心」である。佐峰は「俳句」よりも、もっと欲張りなのだ。それが佐峰のことばを「現代詩」にしている。
 「湾」は一方で「湾の内部の生態系」を、他方で「湾の外(湾以外)の生態系」をめざして動く。二重の「中心」をめざして、「分離」することで「遠心・求心」をつかみとろうとしているように感じられる。「鋼鉄の空白」は「湾の内部(海)」に対する「空」とも受け止めることができるし、鉄とコンクリートでできた「都市(人間の場)」とも受け止めることができる。
 おもしろいのだが……。
 二連目は、一連目の「連鎖」を「湾の内部(海の内部/魚介)」を別の視点(物の中心)からとらえ直したものとして、私は読んだ。

丸く折られた背 聞こえる
光の射さない卓上に並べられ
電燈の中で回る
木星の渦 絶えることなく
刻む 氷の中を

 「鍋」を描いているように思えた。「鍋」のなかに叩ききられた魚。背を「折られ」、切られた魚がいる。「光の射さない」は夜。太陽の光が射さない時間。電燈の下で、「鍋」を囲んでいる。「木星の渦」というのは「鍋」を「宇宙」に見立てているのだろう。「氷の中」というのは、そこに寒流育ちの魚や蟹が入っているのだろう。
 なんだか、面倒くさいくなってきたぞ。

鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる

 の方が、「遠心・求心」の強さが強烈である。「凍てる」「ぶちきらる」という動詞の中で人間と鮟鱇が「ひとつ」になっている。
 まあ、これは、私が「ひとつ」の「中心」の方が好きというだけのことかもしれないが。
 三連目。

水面に皺をつくる白い腕が
すーっと空を切断する 加速して
見えなくなる 心臓
腹に宿した中間体が体温を奪う
気前よく捌いたところで
誰も罪人にもなれやしなかった

 「鍋」を思い浮かべてしまったので、私はここでも「鍋」のつづきで、魚の内臓(心臓)とか「子持ち(中間体)」を思い浮かべてしまう。魚の腹の中に魚がいて、一瞬反ったとした(寒けがした/「体温を奪」われた)ということか。
 「もの」ではなく「中間」というような「抽象」(「連鎖」「木星」も似たような感じ)が、「具象」に対する、佐峰のもう一つの「中心」なのかもしれない。あるいは気の弱い読者に対する配慮かもしれない。しかし、この「楕円構造」は、私にはあまりおもしろくない。
 「頭」が働きすぎている。一連目の「肉体」の感覚、「広がっている/せまってくる/遠ざかる」のような連続感がない。
 「誰も罪人にもなれやしなかった」の「罪人」など、ことばは重いが、指し示している世界は軽い。魚を捌いて罪人になるひとなどいない。魚だけのいのちの「連鎖」と、宇宙のいのちの「連鎖」は別の次元であり、そこに「罪」などはいってくる必要はない。いのちに「罪」などない。頭で「罪」をつくり出して、抽象の二重焦点を無理矢理つくり出している感じがする。
 最後の四行。

誰も知らないここに
人の静かな頭が対峙し
骨を繋いできた金属が飛ぶ
ばらけたものにこそ 訪れる平穏がある

 「湾」が「私」であったはずなのに、そして「湾外」が「私」であったはずなのに、ここでは「頭」が「私」になって「平穏」を手に入れている。
 途中、端折ってしまったが、この「もの(対象)」から「頭」への移動、二重焦点の変わり方が、私には、どうもめんどうくさく感じられた。「頭」へ「重心」を映しすぎているように感じられる。「頭」をたたき壊して「もの」の方に重心を移し、「二重焦点(楕円構造)」を「遠心・求心」に合体させた方がおもしろいと思う。逆向きのことばの運動の方が、「肉体」がいきいきと動くように思う。
 まあ、「頭」で詩を書くか、「肉体」で詩を書くか、どっちが好みか、という問題なので、私は、こういう詩は「苦手」だなあ、というしかない。

 「砂の生活」は安部公房の『砂の女』の風景を思い起こさせた。一連目の描写もそうだが、二連目の、

食事をこしらえる
水素と酸素を 素手で握り
一日の 気管支へと流し込む

 は、家の中で蝙蝠傘をさして、降ってくる砂をよけながら飯を食っている男と女を思い出させる。
 佐峰のことばは、「文学」を風景としているのかもしれない、と、ふと思った。

対岸へと
佐峰存
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする