詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

古賀忠昭『古賀廃品回収所』

2015-11-13 11:03:34 | 詩集
古賀忠昭『古賀廃品回収所』(書肆子午線、2015年10月30日発行)

 古賀忠昭『古賀廃品回収所』は『血ん穴』『血のたらちね』につづく詩集である。古賀は『血のたらちね』を出したあと死んでいる。この詩集は、稲川方人の尽力で出版されたもの。残されたノートにあった詩を収録したものである。詩集に触れる前に、詩集をまとめてくれた稲川に、「ありがとうございました」と感謝したい。稲川がいなかったら、この詩集の作品群は公表されなかったかもしれない。

 古賀の詩は長い。終わらないのではないか、と不安になるくらいである。目の悪い私は、作品を引用しようとして、ためらってしまう。長さ、書いても書いても書き切れないところに、古賀の書きたいものがあるのに、一部だけを取り出してしまっては古賀の作品を壊してしまう。
 けれども、書きたい。古賀の詩について書きたい。
 そして、「長い」と書いたばかりなのだが、逆のことを書こう。古賀の詩は「長い」。しかし、古賀の詩は「短い」ところに、その特徴がある。「全体」は「長い」が、その「長さ」を生み出している一文一文は「短い」。そして、非常に単純である。耳で聞いて、その場ですぐわかる「簡単さ」。それを積み上げて、「長くなる」というところに、古賀の「思想」がある。「肉体」がある。
 「古賀廃品回収所」の書き出し。

古賀廃品回収所に来るには一本の道しかないけれど、それでもきっとあなたはその道に迷うと思います。血のような赤い色の駅をおりたら駅の裏口の方に出て左に曲って、そのまま、まっすぐ歩いていって下さい。そこにホームレスのひとがごきぶりのようにたむろしていると思います。その中のいちばん体の大きいひとに「古賀廃品回収所はどこですか」ときいて下さい。「あっち」とそのひとはゆびをさすでしょう。あっちですから、一本の道がのびているだけですから、のびている方向にいく他はないわけですけれど、とにかく、その道に足をふみいれて、あっちに向って歩いてきて下さい。体の大きいひとにはていねいにお礼をいって下さい。ぞんざいにあつかうとそのひとはあなたを、テロリストのように ピストルで一発、ズドーンとうつかもしれません。そのひとはわたしの友人ですからていねいにお礼をいいさえすればていねいにあっちと教えてくれるはずです。もし、あなが朝、そこにおりたつとすれば血を流したような朝やけにあうことでしょう。もし、夕方に来たとしたら、血を流したような夕焼けにあうことでしょう。

 一本の道をまっすぐに行く。途中で「古賀廃品回収所はどこですか」と聞くが、訊かなくても同じ。まっすぐに行く。--そういう「短い」ことが、書いてある。何もむずかしいことは書いていない。
 これが、なぜ、長くなるのか。「短い」を繰り返すからである。なぜ繰り返すか。「短い」のなかにある、「短い」だけでは言えないことがある、言いたいことがあるから長くなる。
 別なことばで言い直すと。
 「短い」なにごとかの「なか」に、「短い」要約を超える、「長い」何かがあるからだ。その「何か」が、ひとを(古賀廃品回収所を訪ねるひとを)迷わせる。
 詩に書かれていることにそって見ていく。まず、「あなた(読者)」は「ホームレス」に「迷う」。「ごきぶりのようにたむろしている」に「迷う」。この「迷う」は、「気後れ」のようなものである。そばを通って大丈夫? 襲われない? そういう「不安」が「肉体」のなかで動くので「迷う」。これは「偏見」かもしれないが、ひとは簡単には「偏見」を捨てられない。スーツを着たひとが歩道をふさぐ形で立ち話をしていても気にせずにそばをすりぬけることができるが、それが汗、垢、ほこりで汚れたホームレスのひとたちだったら、そばを通りぬけることに気後れする。見るからや「やくざ風」だったら、さらに困惑する。これは「肉体」が覚えている「反応」である。「反応」が「迷い」である。
 さらに、そのホームレスのなかの「いちばん体の大きいひと」に「迷う」。いちばん清潔そうなひと、いちばん若いひと、ではない。うーん、どうしようかなあ。さらに、そのひとが「あっち」と指差す、そのそっけなさに「迷う」。えっ、大丈夫? 私は嫌われている? 不審者と思われている? 自分がホームレスを不審な感じで見ていること(偏見で見ていること)を忘れて、そんなことを思う。
 一本の道だから「あっち」しかないのに、その「あっち」へ行くことが、なんだか不安になる。「不安」がことばにならないまま(こんなことをことばにすると、きっと襲われるな、追いかけられるなと思いながら)、歩く。ことばにならないことばは、それぞれが、とても「短い」。「短すぎて」ことばにならない。けれど、それが次から次へとわいてくるので、つながって「長く」なる。
 そんな「あなた」の「不安」(不安の長さ? 広さ? 根深さ?)を古賀はわかっているから、「ていねいにお礼をいって下さい」とつけくわえることになる。「ていねいにお礼をいいさえすればていねいにあっちと教えてくれるはずです」というようなことは、古賀から言われなくてもわかることなのだけれど、それをわざわざ言われてしまうと、お礼を言う/言われるという記憶が「肉体」を刺戟する。「肉体」が「お礼を言う/言われる」を思い出す。その「思い出す」ということが、「肉体」のなかで動き、その動きが「肉体」のなかにある時間を「長く」する。
 この「長い」は、また別な言い方をすれば、何かを反復(反芻)することで生じる「肉体の内部の動きの長さ」である。一秒とか一分という計測できる「時間の長さ(科学的な長さ/物理的な長さ)」ではない。繰り返しが生み出す「非物理的な長さ」である。それは「短い」ことを「耕して」生まれる「新しい時間」の長さである。そういうものが「肉体」のなか、「繰り返す」ということといっしょに生まれている。
 こういうことが、その繰り返しを確かめるように「一文」に「ひとつのこと(ひとつの「動詞)」ずつ書かれている。二つのこと(二つの動詞)を、古賀は言わない。ひとの「肉体」に「ふたつの動き」をさせない。「ひとつ」ずつ確かめながら動きたいからである。たとえば、

ごきぶりのようにたむろしているホームレスのなかのいちばん体の大きいひと

 と書かない。「ホームレスのひとがゴキブリのようにたむろしている」、「その中のいちばん体の大きいひと」と二つの文章にする。一文を短くしている。短くすることで、ひとつずつ、「動詞」を動かしていく。
 「複数の文章」の場合は、そのことがらはすでに前に書かれている。
 「そのひとはわたしの友人ですからていねいにお礼をいいさえすればていねいにあっちと教えてくれるはずです。」は
(1)そのひとはわたしの友人です
(2)(あなたが)ていねいにお礼をいう
(3)(そのひとは)ていねいにあっちと教えてくれる
であり、「……である」「(お礼を)言う」「教える(てくれる)」という三つの動詞を持っているけれど、(2)と(3)はすでに書かれていて、繰り返しである。「そのひとはわたしの友人です」といっしょに前に言ったことが繰り返されている。
 繰り返すことで、関係を緊密にしている。幾つかのことを「ひとつ」にしている。「友人」といっしょに「ていねい」が「形式」ではなく「実体」になっていく。
 友人は「あっち」と言ったのではない。言うのではない。「あっち」と「教えてくれる」。教える+……くれる。その「くれる」ことの意味が、「肉体」として、そこに浮かび上がるのである。「そのひと」が「ていねい」に「生まれ変わって」あらわれてくる。「新しいそのひと」がそこに「肉体」として生きている。もう「たむろするごきぶり」ではない。
 そして、その浮かび上がった「肉体」から、また別なものが見えてくる。
 「ていねい」ということばが繰り返しつかわれているが、その「ていねい」が見えてくる。「ていねい」というのは抽象的なことばだが、この詩をよむと「ていねい」が何であるかがわかる。どういう生き方(思想)であるかがわかる。ゆっくりと、ひとつひとつ、繰り返し、確かめながら「肉体」を動かすことである。「ぞんざい」とは逆。「ていねい」にお礼を言えば「ていねい」が返ってくる。それは相手が「あなた」の「ていねい」を、「肉体」で反復しているからである。「ことば」ではなく「肉体」で繰り返しているのである。
 「あっち」とだけ言ったひとは、ていねいにお礼を言われれば、「あっちだから、間違えないように」とか「あっちだから、気をつけて」とか「ていねい」にもう一度言ってくれるだろう。教えてくれるだろう。古賀はそこまでは書いていないが、そういうひととひととの「動き」が見える描写である。
 短い「こと(内容)」を繰り返すことで、つなぎ、そこに濃密な「世界」を少しずつ組み立てていく。「ていねい」なつながりで「世界」が広がっていく。
 ここに書かれている、その「ていねいな関係」はふつうの読者が経験しないような「関係」である。ふつうの読者はホームレスと「ていねい」にことばを交わすことはあまりないだろう。だから、その「関係」のなかで、ひとは「迷う」かもしれない。「迷う」に違いないと知っているからこそ、古賀は少しずつ繰り返し、案内するのである。そこには、古賀の「あなた」に対する「ていねい」もあらわれている。「ていねい」というのはこういう関係でしょ? 思い出した? という具合……。

 古賀の詩は、この「ていねい」のひとことにつきる。古賀の生き方は「ていねい」につきる。出会ったひとと「ていねい」に向き合う。「要約」しない。「ひとつ」の動き(動詞)のなかには、その動詞とつながる何かがある。それは「ひとつ」の「動詞」からだけではわからない。「ていねい」につないでいって、少しずつ「全体」が見えてくる。そのなかには非合理的(理不尽)なつながりのある「動き(動詞)」もあるかもしれないが、それを含めて「肉体」というものがある。生きている人間というものがいる。「ていねい」に向き合ったひとの「肉体」を繰り返していくと、「肉体」が「ある」というだけのところにたどりつく。「いのち」が「ある」。「生きている」という、だけのところにたどりつく。「生きているいのち」がむき出しになって、あらわれてくる。古賀のことばは、そういうところまで動いていく。
 「いのち」「むきだしのいのち」というのは、まあ、しかし、いいかげんなことばである。こんなことばで古賀の作品について何かが語れるわけではない。私にはたどりつけないものがある。私は私のことばの非力を、「いのち」とか「むきだしのいのち」という表現で隠す隠すことしかできない。
 人生に「ていねい」に向き合い、最後まで「ていねいさ」を失わずに生き抜いた古賀の「肉体」が、この詩集のなかにある。私はその「ていねい」に出会った、とだけ書けばよかったのかもしれない。しかし、そう気づくまでに、こう書くしかなかった。こんなことしか、いまの私には書けない。

古賀廃品回収所
古賀 忠昭
書肆子午線

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