伊藤悠子「ランナーズ・ハイ」、山口賀代子「人形」(「左庭」32、2015年10月25日発行)
伊藤悠子「ランナーズ・ハイ」の全行。
「ランナーズ・ハイ」というのは、走っているとある瞬間から肉体の苦しさがなくなり、急にからだが軽くなる感じをいうのだが、一行目「まって走っていると」の「まって」がなんともおもしろい。「まって」だから、まだ「ランナーズ・ハイ」にはなっていない。けれど、二行目以下は、私には「ランナーズ・ハイ」になった状態でみつめた風景に見える。
「ハイ」になると、意識の「連続感」がふつうとは違ってくる。「飛躍」が多くなる。「廃屋のような林」というのは、「木々がたおれたり傾いたり」という「荒れた」林の状態だろう。そこに消火器がある。異様な風景かもしれない。その異様さを「説明抜き」で「そこにあるもの」として、ただ受け止めてしまう。「説明」という「連続感」をとっぱらって、「そこにあるもの」をそのまま受けいれてしまうということろが、私の感覚では「ハイ」である。そのあと「赤く立っていて/立っているものには使命がある」と強引(?)に「使命」ということばを結びつけるところも「ハイ」である。伊藤の意識ではきちんと「連続」しているのだろうが、私から見ると「飛躍」である。
まあ、消火器というのは、火が出たら消すためのものだが、それが「立っている」のはなかに消化剤が入っていて、火を消すという「使命」をまだもっている、ということなのだろう。つかえる期間があって、それが過ぎたので廃棄されたということかもしれないが、その姿を見て、そういうことを考えたということだろう。「たおされているもの」は使用済みのものかもしれない。「使命」は「終わったのだ」。しかし、つかったあと、わざわざ「色」を塗りかえたりしないから「赤い」まま。
こんなことは、書いてもどうしようもないようなこと、何の役にも立たないようなことなのだけれど。そういう、どうでもいいことが「リアル」に目に飛び込んでくる。日常の「連続感」とは違った感じで、「いま/ここ」を印象づける。--それが「ランナーズ・ハイ」。私はいまは目の状態が悪くて走ることはないのだが、昔、ジョギングをしていたころ感じた不思議な「リアル感」を思い出させてくれるこのことばは、とても楽しい。「肉体」がいきいきしてくる感じがする。見えている風景よりも、そのときの「肉体」の感じを思い出す。
で。
一行目に戻る。「ランナーズ・ハイをまって走っていると」の「まって」は何? 二行目以下は、もう「ランナーズ・ハイ」。一行目と二行目の間に「ランナーズ・ハイ」に「なった」という瞬間が省略されているのか。
ということなのだろうか。
そうかもしれないけれど。
そうではなくて「まって」の「待つ」という「動詞」そのものが、もうすでに「ランナーズ・ハイ」かもしれないなあ。走る苦しさを消えるまで、走りながら「待つ」ということ、「苦しさを持続できる」ということが、すでに「ハイ」なのかもしれない。
だいたい「待つ」という動詞と「走る」という動詞は、矛盾している。
「待つ」は基本的に動かない。「走る」は動く。「まって/走る」は矛盾している。
で。
先に私は、走りつづけると「ランナーズ・ハイ」に「なる」と書いたのだが、「なる」のではなく、「やってくる」と考えるべきだったのだと、ここで気づく。「待つ」ひとはいつでも「来る」ことを待っている。私が「行く」のではなく、だれかが「来る」のを「待つ」。「ランナーズ・ハイ」は「やってくる」。
「やってくる」ということは、その「来る」ものの方に「意識」の重点が置かれている。「来る」ものの方が「主役」。「主役」が「動詞(動くこと)」の中心。倒れた木々も、傾いた木々も、捨てられた(?)消火器も、それぞれが「やってきた」のである。そこに「風景」として「ある」のではなく、そこへ「やってきて」、「風景」に「なる」。そういう「もの」たちの姿を伊藤は見て、またその「声」を聞いたのだ。伊藤が「見た」からそこに風景画あるのではなく、「もの」たちが「やってきた」から、そこに風景がある。「主役」は伊藤ではなく、「やってきたもの」たち。
「ハイ」というのは一種の「エクスタシー」。自分が自分の外へ出ていくことだけれど、別な見方をすれば、枠の破れた自分のなかへ「他者」が入ってくることでもある。「自分という枠」を取り払った状態であり、「他者」を拒絶できない「忘我」の状態のことでもある。自分と他者との区別がなく、出入りが自由な「世界」が「ハイ」であり、「エクスタシー」だ。
「ハイ(忘我)」とは自分以外のものが自分のなかへ「やってくる」こと、それを受けいれること。伊藤は自分から「出て行く」のではなく「他者」が「やってくる」のを「待つ」タイプの詩人なのだ、感じた。
最後の方に、それがとてもよくでている。
の「こんなものですが」は、ヤマブキの「声」なのだ。「私はこんなものですが、よろしく(はじめまして)」と挨拶している。その挨拶を伊藤は受け止めている。
それよりまえの木々や消火器も、「私はこんなものですが、よろしく」と行っていたのだ。その「こんなもの」としか言えないあいまいなものを、「こんなもの」そのものとしてことばを介さずに聞き取り、受け止めていたのが前半部分なのだ。
一行目は「ランナーズ・ハイになるまで走っていると」でも「走っているとランナーズ・ハイになって」でも「意味的」には同じようなものかもしれないけれど、そうは書かずに「まって」という「動詞」を組み込むことで、伊藤のことばは深みのある詩になっている、と感じだ。
伊藤の詩は、いつでも「待つ」詩である。「主体的」に何かをするにしても、それは伊藤自身をととのえること。自分をととのえながら、「他者」が「やってくる」のを「待つ」。外国へ行くときでさえ、伊藤は外国へ行くのではなく、外国の歴史(時間)が理解できるように、ことばを学び、本を読み、彼女自身をととのえる。そうすると、そうやってととのえられた「感性」のなかへ、「外国の時間」が「やってくる」。そして「声」を聞かせてくれる。その「声」を書き留めると、それが詩になる。
この詩のなかでは、伊藤は、「走る」ことをとおして彼女自身をととのえながら、「世界」が「やってくる」のを「まっていた」のである。
一行目の「待つ」という動詞は、読み落としてはいけない動詞だ。
*
山口賀代子「人形」は二人の娘と入水自殺した友人のこと、その葬儀のことを書いている。
という静かな観察と、入水自殺した湖(の岸辺?)に残された二体の人形の描写の対比が印象的だ。
この「声」は、どこから「やってきた」のか。山口の「肉体」は何を覚えているか、何を思い出しているのか。「連れていって」(連れて行く/連れる)という「動詞」に山口の「生き方(思想)」があるのかもしれない。葬儀に行くときの一連目、
と、そこにも「連れる」がある。「連絡」の「連」も「連れる」である。「連れる」はつながり。つながりが切れたときひとは死ぬ。死んだひとも、そのひとを思うとき、そこにつながりが生まれる。そのつながりに、何かが「連なる」。
死の旅ではないけれど、ひとはときどき仲間はずれになる。「なんでわたしたちは連れていってもらわれへんかったん」「嫌われたんやろか」というような会話を、山口はかつてその友人としたことがあるのかもしれないなあ。
ひとは自分のなかでととのえた自分に聞こえる「声」しか聞くことはできない。
*
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伊藤悠子「ランナーズ・ハイ」の全行。
ランナーズ・ハイをまって走っていると
木々がたおれたり傾いたり
廃屋のような林があった
空いたところに消火器がざっと百本ほど
赤く立っていて
立っているものには使命がある
それをわからせるための赤でもある
わきにはたおされているものもある
終わったのだ
赤くてもだ
半月まえ
歩道のわきに鳥が上向きにたおれていた
廃屋のような林に
白いひとえのヤマブキが低くわたり
こんなものですが
と咲き始めていた
「ランナーズ・ハイ」というのは、走っているとある瞬間から肉体の苦しさがなくなり、急にからだが軽くなる感じをいうのだが、一行目「まって走っていると」の「まって」がなんともおもしろい。「まって」だから、まだ「ランナーズ・ハイ」にはなっていない。けれど、二行目以下は、私には「ランナーズ・ハイ」になった状態でみつめた風景に見える。
「ハイ」になると、意識の「連続感」がふつうとは違ってくる。「飛躍」が多くなる。「廃屋のような林」というのは、「木々がたおれたり傾いたり」という「荒れた」林の状態だろう。そこに消火器がある。異様な風景かもしれない。その異様さを「説明抜き」で「そこにあるもの」として、ただ受け止めてしまう。「説明」という「連続感」をとっぱらって、「そこにあるもの」をそのまま受けいれてしまうということろが、私の感覚では「ハイ」である。そのあと「赤く立っていて/立っているものには使命がある」と強引(?)に「使命」ということばを結びつけるところも「ハイ」である。伊藤の意識ではきちんと「連続」しているのだろうが、私から見ると「飛躍」である。
まあ、消火器というのは、火が出たら消すためのものだが、それが「立っている」のはなかに消化剤が入っていて、火を消すという「使命」をまだもっている、ということなのだろう。つかえる期間があって、それが過ぎたので廃棄されたということかもしれないが、その姿を見て、そういうことを考えたということだろう。「たおされているもの」は使用済みのものかもしれない。「使命」は「終わったのだ」。しかし、つかったあと、わざわざ「色」を塗りかえたりしないから「赤い」まま。
こんなことは、書いてもどうしようもないようなこと、何の役にも立たないようなことなのだけれど。そういう、どうでもいいことが「リアル」に目に飛び込んでくる。日常の「連続感」とは違った感じで、「いま/ここ」を印象づける。--それが「ランナーズ・ハイ」。私はいまは目の状態が悪くて走ることはないのだが、昔、ジョギングをしていたころ感じた不思議な「リアル感」を思い出させてくれるこのことばは、とても楽しい。「肉体」がいきいきしてくる感じがする。見えている風景よりも、そのときの「肉体」の感じを思い出す。
で。
一行目に戻る。「ランナーズ・ハイをまって走っていると」の「まって」は何? 二行目以下は、もう「ランナーズ・ハイ」。一行目と二行目の間に「ランナーズ・ハイ」に「なった」という瞬間が省略されているのか。
ランナーズ・ハイをまって走っていると
「ランナーズ・ハイになって、その感覚のなかで、風景は」
木々がたおれたり傾いたり
ということなのだろうか。
そうかもしれないけれど。
そうではなくて「まって」の「待つ」という「動詞」そのものが、もうすでに「ランナーズ・ハイ」かもしれないなあ。走る苦しさを消えるまで、走りながら「待つ」ということ、「苦しさを持続できる」ということが、すでに「ハイ」なのかもしれない。
だいたい「待つ」という動詞と「走る」という動詞は、矛盾している。
「待つ」は基本的に動かない。「走る」は動く。「まって/走る」は矛盾している。
で。
先に私は、走りつづけると「ランナーズ・ハイ」に「なる」と書いたのだが、「なる」のではなく、「やってくる」と考えるべきだったのだと、ここで気づく。「待つ」ひとはいつでも「来る」ことを待っている。私が「行く」のではなく、だれかが「来る」のを「待つ」。「ランナーズ・ハイ」は「やってくる」。
「やってくる」ということは、その「来る」ものの方に「意識」の重点が置かれている。「来る」ものの方が「主役」。「主役」が「動詞(動くこと)」の中心。倒れた木々も、傾いた木々も、捨てられた(?)消火器も、それぞれが「やってきた」のである。そこに「風景」として「ある」のではなく、そこへ「やってきて」、「風景」に「なる」。そういう「もの」たちの姿を伊藤は見て、またその「声」を聞いたのだ。伊藤が「見た」からそこに風景画あるのではなく、「もの」たちが「やってきた」から、そこに風景がある。「主役」は伊藤ではなく、「やってきたもの」たち。
「ハイ」というのは一種の「エクスタシー」。自分が自分の外へ出ていくことだけれど、別な見方をすれば、枠の破れた自分のなかへ「他者」が入ってくることでもある。「自分という枠」を取り払った状態であり、「他者」を拒絶できない「忘我」の状態のことでもある。自分と他者との区別がなく、出入りが自由な「世界」が「ハイ」であり、「エクスタシー」だ。
「ハイ(忘我)」とは自分以外のものが自分のなかへ「やってくる」こと、それを受けいれること。伊藤は自分から「出て行く」のではなく「他者」が「やってくる」のを「待つ」タイプの詩人なのだ、感じた。
最後の方に、それがとてもよくでている。
白いひとえのヤマブキが低くわたり
こんなものですが
と咲き始めていた
の「こんなものですが」は、ヤマブキの「声」なのだ。「私はこんなものですが、よろしく(はじめまして)」と挨拶している。その挨拶を伊藤は受け止めている。
それよりまえの木々や消火器も、「私はこんなものですが、よろしく」と行っていたのだ。その「こんなもの」としか言えないあいまいなものを、「こんなもの」そのものとしてことばを介さずに聞き取り、受け止めていたのが前半部分なのだ。
一行目は「ランナーズ・ハイになるまで走っていると」でも「走っているとランナーズ・ハイになって」でも「意味的」には同じようなものかもしれないけれど、そうは書かずに「まって」という「動詞」を組み込むことで、伊藤のことばは深みのある詩になっている、と感じだ。
伊藤の詩は、いつでも「待つ」詩である。「主体的」に何かをするにしても、それは伊藤自身をととのえること。自分をととのえながら、「他者」が「やってくる」のを「待つ」。外国へ行くときでさえ、伊藤は外国へ行くのではなく、外国の歴史(時間)が理解できるように、ことばを学び、本を読み、彼女自身をととのえる。そうすると、そうやってととのえられた「感性」のなかへ、「外国の時間」が「やってくる」。そして「声」を聞かせてくれる。その「声」を書き留めると、それが詩になる。
この詩のなかでは、伊藤は、「走る」ことをとおして彼女自身をととのえながら、「世界」が「やってくる」のを「まっていた」のである。
一行目の「待つ」という動詞は、読み落としてはいけない動詞だ。
*
山口賀代子「人形」は二人の娘と入水自殺した友人のこと、その葬儀のことを書いている。
ひさしぶりにあったひとは
ほっそりと鼻梁のたかい彫りの深い顔が
むくんで 頬と鼻のたかさの区別のない
みしらぬひとの顔をして棺のなかにおさまっているのでした
という静かな観察と、入水自殺した湖(の岸辺?)に残された二体の人形の描写の対比が印象的だ。
人形たちはほそぼそとはなしていたそうです
「なんでわたしたちは連れていってもらわれへんかったん」
「嫌われたんやろか」
そうしてしくしくとなきつづけるのでした
この「声」は、どこから「やってきた」のか。山口の「肉体」は何を覚えているか、何を思い出しているのか。「連れていって」(連れて行く/連れる)という「動詞」に山口の「生き方(思想)」があるのかもしれない。葬儀に行くときの一連目、
れんらくのとれるかぎりのゆうじんとつれだって
と、そこにも「連れる」がある。「連絡」の「連」も「連れる」である。「連れる」はつながり。つながりが切れたときひとは死ぬ。死んだひとも、そのひとを思うとき、そこにつながりが生まれる。そのつながりに、何かが「連なる」。
死の旅ではないけれど、ひとはときどき仲間はずれになる。「なんでわたしたちは連れていってもらわれへんかったん」「嫌われたんやろか」というような会話を、山口はかつてその友人としたことがあるのかもしれないなあ。
ひとは自分のなかでととのえた自分に聞こえる「声」しか聞くことはできない。
詩集 道を小道を | |
伊藤 悠子 | |
ふらんす堂 |
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支払方法は、発送の際お知らせします。