監督 ジョージ・C ・ウルフ 出演 ヒラリー・スワンク、エミー・ロッサム
ヒラリー・スワンクが筋萎縮性側索硬化症(ALS)に冒された女性を演じている。見どころは、ヒラリー・スワンクとエミー・ロッサムの演技の違い。
ヒラリー・スワンクは「肉体」の変化を抑制的に演じている。ALSの患者は大変な困難と不自由を体験していると思うが、その動きを、なるべく健康なひとの動きにちかづけて演じているように思える。「異様」な感じを抑えて演じている。「肉体」の変化ではなく、「声」(声も肉体だろうけれど、目に見えない)の変化で症状の悪化を演じている。映画が進むにしたがって、声が低くなり、発音がゆっくりになる。不明瞭になる。これが抑制した「肉体」の「外形的」演技によって、いっそう際立ってくる。
美しいままの映像の奥に、苦悩する精神、感情が動いている。それがそのまま、ヒラリー・スワンクの演じている「人間」の尊厳になっている。
一方、エミー・ロッサムは、「肉体」を美しく見せようとはしていない。彼女の中に動いている感情の乱れ(?)をそのまま反映した「肉体の演技」をしている。抑制がきかない。抑制のきかない部分から、彼女の本質があふれだす、という感じ。初めてヒラリー・スワンクを自分のアパートに連れて行く。そのときの部屋の乱れは、そのまま彼女の「肉体」の延長である。乱れていても、生きて行ける。強い「肉体」と、強い肉体に任せて、どこか弱い精神(感情)が、そこにある。自分を律しきれない「弱さ」のようなものがある。
考えてみれば、この二人はともに「自分を律しきれない」ということろで、知らず知らずにつながっている。ほんとうは、こんなふうには生きたくない。けれども、何かに負けて、こうなってしまった。
ヒラリー・スワンクは、たまたまALSを発症しているが、それだけではなく、過去にやはり自分を律しきれなかった、制御できなかったという苦い体験をしている。自分をしっかりとみつめてくれる恋人がいた。けれど、その恋人よりも、いまの夫を選んでしまったという、深い後悔がある。そこから、エミー・ロッサムの暮らし方への、不安がにじむ。自分自身の暮らしではないのだが、エミー・ロッサムを見ていると、ヒラリー・スワンクの「肉体」のなかから「声」が出てしまう。「不安」が、いわゆる「おせっかい」のようにして、エミー・ロッサムの恋人関係への「忠告」になってしまう。二人の「肉体」と「声(本心)」が入り乱れ、ひとつになる。二人は「肉体」と「声」を交錯させて、いわば「ひとりの女」になって生まれ変わる。
その変化が、静かに、ていねいに描かれている。
こういうことは、映画ではなかなか演技として表現するのがむずかしい。(ことばで説明してしまうのは、わりと簡単。私が書いてしまったように……。)それを主演のふたりは演技の違いによって、「合作」として表現している。
うーん、「高級」な映画かもしれない。
でも、こういう「深読み」は、ちょっと危ない。映画を離れて、私はこういう映画が見たいという私の欲望を語ってしまうことになってしまうかもしれないから。
で、ちょっと戻って。
主演の二人が、二人で「ひとり」を感じるという象徴的なシーンについて語っておこう。エミー・ロッサムがヒラリー・スワンクに「ほんとうにしたいことは何?」と聞く。ヒラリー・スワンクが「不安でたまらない。大声で叫びたい。胸のもやもやを吐き出したい」という。そのあと、口を思いっきりあけて叫ぼうとするヒラリー・スワンクの「肉体」の動きにあわせ、エミー・ロッサムが大声で「わーっ」と叫ぶ。エミー・ロッサムの「声」がヒラリー・スワンクの「声」になる。あのとき、ふたりの「肉体」と「声」は「ひとつ」になった。
ヒラリー・スワンクの「肉体」と「声」はエミー・ロッサムの「肉体」と「声」になるだけではない。(これは、わりとわかりやすい。)エミー・ロッサムの「肉体」と「声」は、実は、この瞬間から完全にヒラリー・スワンクの「肉体」と「声」になる。エミー・ロッサムがALSになるわけではないので、これは少し「映像」としてはわかりにくいのだが、エミー・ロッサムはこのときから「自分を律する」という生き方をしはじめる。「自分を甘やかす」のではなく、「自分を律しはじめる」。それは、エミー・ロッサムを信じて身を任せるヒラリー・スワンクの「信頼」にこたえるということでもある。他人の「信頼」にこたえるというのは、ほんとうは自分の中にいるもうひとりの自分(実現されていない自分)の「声」にこたえるということでもある。「もうひとりの自分」に生まれ変わる、ということでもある。
エミー・ロッサムは大学をやめてまで、「もうひとりの自分」にむかって必死に生まれ変わる。ラストシーンで、その生まれ変わったエミー・ロッサムが歌を歌ってる。いつもライブで失敗していた歌。いま、それが歌える。自分のことばで。完全に、生まれ変わったのである。
うーん、いい映画だなあ。でも、ちょっと真面目すぎるかなあ。(で、採点が辛い。)
(KBCシネマ2)
*
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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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ヒラリー・スワンクが筋萎縮性側索硬化症(ALS)に冒された女性を演じている。見どころは、ヒラリー・スワンクとエミー・ロッサムの演技の違い。
ヒラリー・スワンクは「肉体」の変化を抑制的に演じている。ALSの患者は大変な困難と不自由を体験していると思うが、その動きを、なるべく健康なひとの動きにちかづけて演じているように思える。「異様」な感じを抑えて演じている。「肉体」の変化ではなく、「声」(声も肉体だろうけれど、目に見えない)の変化で症状の悪化を演じている。映画が進むにしたがって、声が低くなり、発音がゆっくりになる。不明瞭になる。これが抑制した「肉体」の「外形的」演技によって、いっそう際立ってくる。
美しいままの映像の奥に、苦悩する精神、感情が動いている。それがそのまま、ヒラリー・スワンクの演じている「人間」の尊厳になっている。
一方、エミー・ロッサムは、「肉体」を美しく見せようとはしていない。彼女の中に動いている感情の乱れ(?)をそのまま反映した「肉体の演技」をしている。抑制がきかない。抑制のきかない部分から、彼女の本質があふれだす、という感じ。初めてヒラリー・スワンクを自分のアパートに連れて行く。そのときの部屋の乱れは、そのまま彼女の「肉体」の延長である。乱れていても、生きて行ける。強い「肉体」と、強い肉体に任せて、どこか弱い精神(感情)が、そこにある。自分を律しきれない「弱さ」のようなものがある。
考えてみれば、この二人はともに「自分を律しきれない」ということろで、知らず知らずにつながっている。ほんとうは、こんなふうには生きたくない。けれども、何かに負けて、こうなってしまった。
ヒラリー・スワンクは、たまたまALSを発症しているが、それだけではなく、過去にやはり自分を律しきれなかった、制御できなかったという苦い体験をしている。自分をしっかりとみつめてくれる恋人がいた。けれど、その恋人よりも、いまの夫を選んでしまったという、深い後悔がある。そこから、エミー・ロッサムの暮らし方への、不安がにじむ。自分自身の暮らしではないのだが、エミー・ロッサムを見ていると、ヒラリー・スワンクの「肉体」のなかから「声」が出てしまう。「不安」が、いわゆる「おせっかい」のようにして、エミー・ロッサムの恋人関係への「忠告」になってしまう。二人の「肉体」と「声(本心)」が入り乱れ、ひとつになる。二人は「肉体」と「声」を交錯させて、いわば「ひとりの女」になって生まれ変わる。
その変化が、静かに、ていねいに描かれている。
こういうことは、映画ではなかなか演技として表現するのがむずかしい。(ことばで説明してしまうのは、わりと簡単。私が書いてしまったように……。)それを主演のふたりは演技の違いによって、「合作」として表現している。
うーん、「高級」な映画かもしれない。
でも、こういう「深読み」は、ちょっと危ない。映画を離れて、私はこういう映画が見たいという私の欲望を語ってしまうことになってしまうかもしれないから。
で、ちょっと戻って。
主演の二人が、二人で「ひとり」を感じるという象徴的なシーンについて語っておこう。エミー・ロッサムがヒラリー・スワンクに「ほんとうにしたいことは何?」と聞く。ヒラリー・スワンクが「不安でたまらない。大声で叫びたい。胸のもやもやを吐き出したい」という。そのあと、口を思いっきりあけて叫ぼうとするヒラリー・スワンクの「肉体」の動きにあわせ、エミー・ロッサムが大声で「わーっ」と叫ぶ。エミー・ロッサムの「声」がヒラリー・スワンクの「声」になる。あのとき、ふたりの「肉体」と「声」は「ひとつ」になった。
ヒラリー・スワンクの「肉体」と「声」はエミー・ロッサムの「肉体」と「声」になるだけではない。(これは、わりとわかりやすい。)エミー・ロッサムの「肉体」と「声」は、実は、この瞬間から完全にヒラリー・スワンクの「肉体」と「声」になる。エミー・ロッサムがALSになるわけではないので、これは少し「映像」としてはわかりにくいのだが、エミー・ロッサムはこのときから「自分を律する」という生き方をしはじめる。「自分を甘やかす」のではなく、「自分を律しはじめる」。それは、エミー・ロッサムを信じて身を任せるヒラリー・スワンクの「信頼」にこたえるということでもある。他人の「信頼」にこたえるというのは、ほんとうは自分の中にいるもうひとりの自分(実現されていない自分)の「声」にこたえるということでもある。「もうひとりの自分」に生まれ変わる、ということでもある。
エミー・ロッサムは大学をやめてまで、「もうひとりの自分」にむかって必死に生まれ変わる。ラストシーンで、その生まれ変わったエミー・ロッサムが歌を歌ってる。いつもライブで失敗していた歌。いま、それが歌える。自分のことばで。完全に、生まれ変わったのである。
うーん、いい映画だなあ。でも、ちょっと真面目すぎるかなあ。(で、採点が辛い。)
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